『存在と時間』を読む Part.44

  第44節 現存在、開示性、真理

 この節では、哲学にとって伝統的に重要な概念である真理と存在論の関係が考察されます。ハイデガーは、古代ギリシアの時代から、哲学の伝統では真理と存在を結びつけて考えてきたことを指摘します。

Die Philosophie hat von altersher Wahrheit mit Sein zusammengestellt. Die erste Entdeckung des Seins des Seienden durch Parmenides >identifiziert< das Sein mit dem vernehmenden Verstehen von Sein: τό γάρ αυτό νοείν εστί τέ καί είναι. (p.212)
哲学はごく古い時代から、真理と存在を結びつけて考えてきた。パルメニデスが存在者の存在を初めて露呈させたのだが、その際にはその存在を知覚しながら理解することと、存在そのものを「等しいものとした」。「というのは、思考することは存在することと同じであるから」。

 またハイデガーは、アリストテレスが『形而上学』で、哲学を「存在者を存在者として、すなわちその存在に関して考察する学(第4巻第1章)」と規定し、同時に哲学を「〈真理〉の学(第2巻第1章)」として規定していることを指摘します。この2つの定義を結びつけると、哲学は存在についての学であり、それが同時に真理を認識する学であるということになります。

Was bedeutet hier >forschen über die ,Wahrheit'<, Wissenschaft von der >Wahrheit<? Wird in diesem Forschen die >Wahrheit< zum Thema gemacht im Sinne einer Erkenntnis- oder Urteilstheorie? Offenbar nicht, denn >Wahrheit< bedeutet dasselbe wie >Sache<, >Sichselbstzeigendes<. Was bedeutet dann aber der Ausdruck >Wahrheit<, wenn er terminologisch als >Seiendes< und >Sein< gebraucht werden kann? (p.213)
しかしここで「〈真理〉に関して探究する」とか「真理」の学と呼ばれているものは何のことだろうか。この探究では「真理」は、認識論や判断論における「真理」という意味で主題となっているのだろうか。もちろんそうではない。というのも「真理」は「事象」と、すなわち「みずからを示すもの」と同じものを示しているからである。それでは真理という表現が、用語として「存在者」および「存在」を意味するものとして使うことができるのだとしたら、それは何を意味しているのだろうか。

 「みずからを示すもの」という概念は、すでに序論で登場していました(Part.5参照)。ハイデガーは>Phänomen<(現象)というドイツ語が、ギリシア語の>φαινόμενον<に由来することを指摘しながら、この語が「みずからにおいてみずからを示すもの」という意味であったことを語っていました。そして「現象の複数形ファイノメナは、〈日にあたっているもの〉〈光のもとにもたらされたもの〉の総体のことであり、ギリシア人たちはときにこれを、たんにタ・オンタ(存在者)と同一視していた」と指摘しました。
 また、同じ節でハイデガーは、「真理」が「隠れなさ(アレーテス)として見えるようにすること、"露呈させること"」と意味をもっていると語り、この概念も「みずからにおいてみずからを示すもの」ということを意味するのだと指摘しました。現象と真理の概念は、「語られているその事柄自体の方から、語られていることが見えるようにすること」という>ἀποφαίνεσθαι<(アポファイネスタイ)の意味において一致し、このとき存在の概念との結びつきが暗示されていることが示されていました。
 これに対して「認識論や判断論における〈真理〉」とは、命題における真理の概念のことを指しています。伝統的な真理の概念は、命題として表現された人間の判断が、その判断の対象である事物のありかたと一致すること、すなわち「知性と事物との一致」が真理であると考えてきました。たとえば散歩中のカントを見て、「カントは歩いている」と語るなら、それは真なる命題であり、そこに真理があると考えたのです。

 当然、「みずからにおいてみずからを示すもの」という意味の「真理」は、「認識論や判断論における〈真理〉」とは異なるものです。もし、最初の意味での真理が存在と根源的に結びついているという主張が正当なものだとすると、真理の現象は基礎存在論の問題構成の圏域に入ってくることになります。そうであるなら、「真理」が現存在や存在了解とどのような連関のもとにあるのかという問題が提起される必要があるでしょう。

Die Analyse geht vom traditionellen Wahrheitsbegriff aus und versucht dessen ontologische Fundamente freizulegen (a). Aus diesen Fundamenten her wird das ursprüngliche Phänomen der Wahrheit sichtbar. Von ihm aus läßt sich die Abkünftigkeit des traditionellen Wahrheitsbegriffes aufzeigen (b). Die Untersuchung macht deutlich, daß zur Frage nach dem >Wesen< der Wahrheit notwendig mitgehört die nach der Seinsart der Wahrheit. In eins damit geht die Aufklärung des ontologischen Sinnes der Rede, daß >es Wahrheit gibt<, und der Art der Notwendigkeit, mit der >wir voraussetzen müssen<, daß es Wahrheit >gibt< (c). (p.214)
以下では、”伝統的な真理の概念”から出発して、その存在論的な基礎を掘り出すための分析を行う(a)。その基礎によって、真理の”根源的な”現象が明らかにされるのである。この根源的な現象に依拠して、伝統的な真理概念は”派生的なもの”であることが明らかにされる(b)。さらに探究を進めることで、真理の「本質」への問いには、真理の”存在様式”への問いが必然的に伴うことが解明される。これによって、「真理が与えられている」と語ることの存在論的な意味が解明され、さらに真理が「与えられている」ことを、「わたしたちが前提にせざるをえない」、その必然性のありかたが解明されることになろう(c)。


  (a)伝統的な真理の概念とその存在論的な基礎

 古代ギリシアにおいてアリストテレスは、さしあたり真理を、真偽の命題における「知性と事物の一致」として考えましたが、この傾向は近代におけるカントにもみられます。カントもまた「真理とは、認識がその対象と一致することであるという定義はあらかじめ認められ、前提されている」と語っていたのであり、このような真理の概念を前提としていたのはたしかです(中山元訳『純粋理性批判』 光文社古典新訳文庫 第2分冊)。
 真理を「一致」として性格づけることは、古代から近代までに真理について多様な解釈が行われてきたなかで一貫しています。ですからこの意味での真理、あるものとあるものが一致するというこの関係には、ある種の正当さがそなわっていると考えることができるでしょう。そこで、ハイデガーが真理の存在論的な問いとして提示するのは次のような問いです。

Was ist in dem Beziehungsganzen - adaequatio intellectus et rei - unausdrücklich mitgesetzt? Welchen ontologischen Charakter hat das Mitgesetzte selbst? (p.215)
”知性と事物の一致という関係全体において、暗黙のうちにともに措定されているものは何だろうか。このようにともに措定されたもの自体には、どのような存在論的な性格がそなわっているのだろうか”。


 ここで「知性と事物の一致」という事態がどのようにして生じるのかを改めて考えてみましょう。ハイデガーは、壁を背にしている人が、「壁に掛かった絵が曲がっている」と語るという例をあげています。この言明が真であると判断されるのは、たとえばその判断を聞いた別の人によって、その言明が現実の事態と比較して一致していると判断されたときです。
 この真理の認定においては、3つの要素が存在しています。第1は、壁に絵が掛けられていて、その絵が曲がっているという現実の事態です。第2は、「壁に掛けられた絵が曲がっている」と言明した人の存在です。第3は、この言明を耳にして、それを現実の事態と比較し、検証して、真実であると判定した人の存在です。
 ここでかかわるのは、人物と事態の関係ですが、ハイデガーがあげる例は、言明した人が壁に背を向けているということで、さらに1ひねりされています。最初に言明を行った人は絵をみていませんから、この人が働かせているのは、知覚ではなく想像力です。この場合、「知性と事物の一致」として真理が判断されるという状況は変わりませんが、そこに「表象」という要素が介入することになります。
 ただしまず最初のプロセスから考えてみると、真理が問題になるのは、第3の側面においてです。ここで発生しているのは、最初に言明を行った人物において、現実の事態が言語表現され、それが他者に伝達され、他者がその言語表現について、現実の事態と比較して判定し、それを「真である」と判定するというプロセスです。この判定は、語られた言明が現実の事態と一致しているかどうかという基準に基づいて行われますが、これは言明の「主語と述語の一致」と表現できます。伝統的な真理概念では、「ソクラテスは歩いている」という言明を行う知性が、実際にソクラテスがどうしているかという事態に一致しているかが問題であり、その意味で真理は知性(主語)と事態(述語)の一致だと考えられたのです。
 そしてここには別のプロセスとして、言明を伝達された人物が、その言明と現実の事態を比較する作業において働くプロセスがあります。伝統的な哲学では、言明を聞いた人物は、その言明の意味する内容と、その言明の伝達する事態とのあいだでの一致を、みずからの直観的なまなざしによって確証することで、その言明を「真である」と判断します。第1の一致が判断の命題における一致であるとすれば、第2の一致は、その判断における一致が、それを伝達された人物の直観によって確証されるプロセスになるでしょう。

 しかしハイデガーは、第1の一致におけるように、真理が知性と事物の一致として、主語と述語の一致として表現されるのは不適切であり、さらにそれが第2の一致として、話し手によって意味と思想として表現され、聞き手がその意味の内容としての思想を直観によって確証するとみなすことも不適切であると批判します。
 というのも、伝統的な哲学の考え方では、絵が曲がってかけられているという判断のうちで、あたかもそれを言明する人の表象、言明を伝達された人がその言明によって描き出す表象、言明を伝達された人が現実の事態について作りだす表象などの複数の表象が、たがいに比較されながら真理が確証されることになるからです。これについてハイデガーは次のように批判します。

Es werden nicht Vorstellungen verglichen, weder unter sich, noch in Beziehung auf das reale Ding. Zur Ausweisung steht nicht eine Übereinstimmung von Erkennen und Gegenstand oder gar von Psychischem und Physischem, aber auch nicht eine solche zwischen >Bewußtseinsinhalten< unter sich. (p.218)
複数の表象がたがいに比較されているのでもないし、表象が実在的な事物との”関係”において比較されているのでもない。証示すべきことは、認識作用と対象の一致ではないし、ましてや心的なものと物的なものとの一致でもなく、さらに複数の「意識の内実」の一致でもない。

 ハイデガーは、真理を、表現された思想(表象)と、現実の事態の表象との一致と考えるべきではないと主張します。というのは、表象と表象の比較では、話し手が語った言明が真であることが証明されるというのはどのような意味においてなのかという問いに答えることができないし、また壁に掛かった絵と「認識」が一致していることが、このプロセスでは確認することができないと考えるからです。
 壁に背を向けている人は、想像力によって「絵が曲がっている」と言明しますが、この言明を聞く人は、語る人が表現した言明について、自身でも表象することになります。そして現実の絵を知覚することによって生じる像と、この表象を比較することになりますが、このとき最初に言明した人の表象が、聞き手の表象と一致していると確認したり、聞き手が知覚した像と一致していると言うことは、果たしてできるでしょうか。このようなことは、複数の表象を比較するというプロセスにおいては可能ではないと、ハイデガーは考えるのです。

 それではどのようなプロセスが生じることで、こうした一致が確認され、真理が示されるのでしょうか。ハイデガーは、現実の伝達においては、このような形で真理が示されることはごく例外的だと考えます。というのも、このプロセスで想定されているのは、壁や絵が、言明の話し手と聞き手の前に、2人の人間の実存とはまったく関係のない形で提示されている事態だからです。ここで話し手は、絵の表象について客観的にその曲がりを指摘しているかのようですが、こうしたことは日常の生活においては普通に想定されるような事態ではありません。
 現実においてはむしろ自分の住まいにおいて、たとえば自分の部屋の装飾としての絵について語っていると考えるべきではないでしょうか。この語り手にとって絵の曲がりは、どうしても気になる事実であり、主観的に気にする事態でもあるでしょう。聞き手にとってもこの絵の曲がりは、その部屋に住む人にとって気になってしかたのない事実として、すでに語り手が話しだす前から、受けとめられているのであり、日常生活においてはこうした了解のもとで、曲がっている絵についての会話がなされているはずです。
 話し手も聞き手も、世界のうちに実存する人間として、すでに特殊な存在様式のうちに存在しています。そして絵画は、装飾品として壁にかけられているのであり、たんなる事物としてみられているのではありません。この絵はすでに住宅という手元存在者のうちで、壁に掛けられる装飾品として世界のうちで有意義性を与えられ、適材適所に配置されている手元存在者です。それだけにその適材適所性に不都合なことがあると、「~として構造」に歪みが発生するのであり、それが問題になるのです。ですから、ここで問われているのはたんに壁の垂直線と絵の垂直線の相互的な関係であるだけではなく、装飾品としての絵のはたすべき適材適所性そのものなのです。

 この言明が告知しているのは、主語と述語の一致としての真理ではありません。

Das Aussagen ist ein Sein zum seienden Ding selbst. Und was wird durch die Wahrnehmung ausgewiesen? Nichts anderes als daß es das Seiende selbst ist, das in der Aussage gemeint war. Zur Bewährung kommt, daß das aussagende Sein zum Ausgesagten ein Aufzeigen des Seienden ist, daß es das Seiende, zu dem es ist, entdeckt. Ausgewiesen wird das Entdeckend-sein der Aussage. Dabei bleibt das Erkennen im Ausweisungsvollzug einzig auf das Seiende selbst bezogen. An diesem selbst spielt sich gleichsam die Bewährung ab. Das gemeinte Seiende selbst zeigt sich so, wie es an ihm selbst ist, das heißt, daß es in Selbigkeit so ist, als wie seiend es in der Aussage aufgezeigt, entdeckt wird. (p.218)
言明することは、存在する事物そのものに向かう存在である。それでは知覚によって何が証示されるのだろうか。その言明において考えられているものが、その存在者そのもの”である”という”事実”であり、それ以外の何物でもない。証明されたのは、言明されたものに向かって言明している存在とは、存在者を提示するものであるということ、この存在は、それがかかわる存在者を”露呈させる”ものであるという”事実”である。証示されたのは、言明は〈露呈させつつある〉ということである。その際に認識作用は、この証示を遂行するにあたって、ひたすら存在者そのものにかかわりつづけている。確証はいわば、この存在者そのものに即して行われるのである。考えられている存在者は、それがみずから”に即してそうで”ある”とおりに”あることを、みずからに示しているのである。すなわち”それ”が言明においてそのように存在するものとして提示され、露呈された”そのものとして”、みずからに同一なありかたで、みずからをそのようなものとして示すのである。

 この言明においては、絵という存在者が「それがみずから”に即してそうで”ある”とおりに”あることを、みずからに示している」のであり、「”それ”が言明においてそのように存在するものとして提示され、露呈された”そのものとして”、みずからに同一なありかたで、みずからをそのようなものとして示す」のです。
 話し手と聞き手はともに、ある存在者が存在することを、この言明において、それがあるがままに「露呈」しつつあるのであり、どちらも手元存在者としてのこの絵に今ここで出会っているのです。以前にも指摘しましたが、ドイツ語の>entdecken<(露呈する)は、>ent<という前綴りと>decken<という動詞でできています。>ent<は、何かを取り除くことや離脱することを意味することが多く、>decken<は主に、何かに覆いを掛けること、覆い隠すことを意味します。ですから>entdecken<とは、何かを隠している覆いを取り外して、そのものをあらわにすることです。話し手と聞き手の2人は、その絵という存在と、その手元存在性、そしてその適材適所性を、この言明によって「露呈」し、それまでそれを隠していた覆いを取り外し、それをそのものとしてあらわにしたのです。

 語りとしての言明はロゴスであり、序論におけるロゴスの考察ですでに確認されたように、「語りは、語られているその事柄自体の方から(アポ)、語られていることが〈見えるようにする〉」のです(Part.5参照)。そのことをハイデガーは、次のように再確認します。

Die Aussage ist wahr, bedeutet: sie entdeckt das Seiende an ihm selbst. Sie sagt aus, sie zeigt auf, sie >läßt sehen< (ἀποφανσις) das Seiende in seiner Entdecktheit. Wahrsein (Wahrheit) der Aussage muß verstanden werden als entdeckend-sein. Wahrheit hat also gar nicht die Struktur einer Übereinstimmung zwischen Erkennen und Gegenstand im Sinne einer Angleichung eines Seienden (Subjekt) an ein anderes (Objekt). (p.218)
言明が”真である”ということは、言明が存在者をその存在者自身に即して露呈させるということである。言明は存在者をその露呈されたありかたにおいて言明し、提示し、「見えるようにする」(アポファンシス)。言明が”真であること(真理)”は、”露呈させつつあること”であると理解されなければならない。このように真理は、一方の存在者(主観)が他方の存在者(客観)に同化するという意味での認識と対象の一致というような構造は、まったくそなえていないのである。

 ということは、真理を語ることとは、世界のうちに存在する存在者を露呈することであり、これをなすことができるのは、世界内存在としての現存在だけであるということになります。

Das Wahrsein als Entdeckend-sein ist wiederum ontologische nur möglich auf dem Grunde des In-der-Welt-seins. Dieses Phänomen, in dem wir eine Grundverfassung des Daseins erkannten, ist das Fundament des ursprünglichen Phänomens der Wahrheit. Dieses soll jetzt noch eindringlicher verfolgt werden. (p.219)
このように〈露呈させつつあること〉としての〈真であること〉は、存在論的にはここでもまた世界内存在に基づいてのみ可能である。わたしたちはこの現象のうちに、現存在の根本機構をみいだしたのであるが、これはさらに真理の根源的な現象の”基礎”でもあるのである。次にこの根源的な現象をさらに深く掘り下げてみよう。


 今回は以上になります。次回、第44節の(b)項に入っていきます。またよろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?