『存在と時間』を読む Part.24

 第4章 共同存在と自己存在としての世界内存在、「世人」

 前回予告したように、この第4章では、世界内存在の第2の契機である「誰か」と問われる存在者である現存在について、「日常性において現存在であるのは誰なのか」という問いが問われます。
 この章は3つの節で構成されており、第25節では、この現存在の「誰か」という問いがどのような場面から問われるかを明らかにしながら、「自己存在」という概念について詳細に検討されます。第26節では、世界において現存在がともに存在する「他者」の存在様式である「共同現存在」について考察します。第27節では、この他者のうちにある現存在が、現存在の本来的なありかたから頽落した状態(世人)において生きていることが示されます。
 それでは、第25節に入っていきましょう。

  第25節 現存在とは<誰なのか>を問う実存論的な問いの端緒

 「現存在は誰か」という問いは、すでに第9節で提起されていました(Part.8参照)。その際に提示された特徴は次の2つです。第1は、現存在という存在者は、「<みずからにかかわる>ように存在」するものだということであり、ハイデガーはこの存在様式を「実存」という概念で示しました。第2は、現存在は「そのつどわたしの存在」であることであり、これをハイデガーは「各私性」という概念で提起しました。
 この2つの特徴については、「形式的な告示」と言われていたことも覚えておりますでしょうか。「告示」と言われるのは、この2つの特徴が現存在の存在様式を告げ知らせるものであるからであり、「形式的」と呼ばれるのは、これらの特徴が現存在の存在様式を内容からではなく、本質(エセンティア)や存在(エクシステンティア)などの概念に基づいて、現存在の存在のありかたを、その「形式」から考察するものだからです。
 この節では、これらの2つの「形式的な告示」の内容について順に考察されます。まず考察の対象になるのは「そのつどわたしの存在」という概念です。

Sie enthält zugleich die ontische - obzwar rohe - Angabe, daß je ein Ich dieses Seiende ist und nicht Andere. Das Wer beantwortet sich aus dem Ich selbst, dem >Subjelt<, dem >Selbst<. Das Wer ist das, was sich im Wechsel der Verhaltungen und Erlebnisse als Identisches durchhält und sich dabei auf diese Mannigfaltigkeit bezieht. Ontologisch verstehen wir es als das in einer geschlossenen Region und für diese je schon und ständig Vorhandene, das in einem vorzüglichen Sinne zum Grunde liegende, als das Subjectum. Dieses hat als Selbiges in der vielfältigen Andersheit den Charakter des Selbst. (p.114)
この規定には、現存在というこの存在者は、そのつど1つの自我であり、他者たちではないという”存在者的な”、ただし粗雑な言明が含まれている。このようにして<誰なのか>という問いには、自我自身によって、「主体」であるとか、「自己」であると答えられることになる。そうするとこの<誰>とは、行動や体験が変化しても同一なものとしてみずからを維持している者のことであり、しかもこうした多様なありかたとみずからかかわっている者のことだということになる。わたしたちは存在論的にはこれを、ある閉ざされた領域のうちで、そしてこの領域にたいしてそのつどすでに不断に眼前的に存在しているもの、卓越した意味で根底にあるもの、すなわち”基体”のことであると理解している。この基体とは、さまざまに異なるありかたをしながらも自己同一的なものであって、その意味で”自己”という性格をそなえている。

 ハイデガーは、「そのつどわたし自身」であるという形式的な規定には、問題が隠されていることを指摘しています。第1に、この規定の背後には、「わたし(>Ich<)」という概念を提示することで、現存在について何ごとかを語ることができるという想定が含まれています。この想定を支えているのは、ある存在者について、それを「主体」と「客体」の概念で説明することができるという考え方であり、近代の哲学の歴史においては、この主体の概念は時間的な経過のうちで残りつづける「実体」であることが保証されてきたのでした。
 第2に、この規定の背後には、自己(>Selbst<)というものが、こうした実体の概念の1つの特徴であるという考えが控えています。主体は実体であり、この実体は時間的な経過のうちで残りつづけるものであるとされています。これを言い換えると、実体とは「さまざまに異なるありかたをしながらも自己同一的なもの」であり、それは「”自己”という性格をそなえている」のです。このようにして、自己と実体は同一のものとみなされるようになります。
 現存在が「そのつどわたし自身」であるという形式的な規定には、すでにこうした前提が含まれているのであり、この暗黙的な前提は、存在論的な考察の妨げになることが多いのです。現存在は本当に「わたし」なのでしょうか。現存在が「自己」であるというのは適切な規定なのでしょうか。たしかに現存在はつねに「わたし」であるのですが、この「わたし」という概念は存在論的には十分に規定されていないのです。

Es könnte sein, daß das Wer des alltäglichen Daseins gerade nicht je ich selbst bin. (p.115)
日常的な現存在の<誰>は、もしかするとそのつどわたし自身では”ない”かもしれないのである。

 また、「自己」という概念は、自己同一的なものという概念から、すなわち実体の概念から導きだされたものです。しかしこの規定は、世界のうちで世界内存在として存在する現存在にはふさわしいものではないでしょう。眼前存在性は、現存在ではない存在者の存在様式だからです。

 そこでハイデガーは、「実存」というもう1つの規定に注目し、現存在とは「誰か」という問いに答えるための2つの新たな道をみいだします。
 第1の道は、現存在は「自己」としてつねに現れるものではなく、それを欠如したものとして現れることも多いことに注目する道です。

Das >Ich< darf nur verstanden werden im Sinne einer unverbindlichen formalen Anzeige von etwas, das im jeweiligen phänomenalen Seinszusammenhang vielleicht sich als sein >Gegenteil< enthüllt. Dabei besagt dann >Nicht-Ich< keineswegs so viel wie Seiendes, das wesenhaft der >Ichheit< entbehrt, sondern meint eine bestimmte Seinsart des >Ich< selbst, zum Beispiel die Selbstverlorenheit. (p.116)
「自我」という言葉は、何かについての拘束力のない”形式的な告示”という意味だけで理解すべきものである。その何かについては、そのつどの現象的な存在連関においては、それとはおそらく「反対のもの」であることがあらわになるかもしれないのである。ただしこの場合の「自我でないもの」とは、本質的に「自我性」を欠如した存在者という意味では決してなく、「自我」自身の特別な存在様式、たとえば<自己喪失>のような存在様式を指しているのである。

 現存在の考察においては、「<自我>自身の特別な存在様式、たとえば<自己喪失>のような存在様式」を考察することも、重要な課題となりうるのです。現存在は平均的な日常性において、自己を喪失していることが多いものなのであり、このありかたを考察する必要があります。
 第2の道は、現存在は無世界的なたんなる主体のようなものではなく、世界のうちで他の現存在とともに生きていることに着目する道です。

Die Klärung des In-der-Welt-seins zeigte, daß nicht zunächst >ist< und auch nie gegeben ist ein bloßes Subjekt ohne Welt. Und so ist am Ende ebensowenig zunächst ein isoliertes Ich gegeben ohne die Anderen. Wenn aber >die Anderen< je schon im In-der-Welt-sein mit da sind, dann darf auch diese phänomenale Feststellung nicht dazu verleiten, die ontologische Struktur des so >Gegebenen< für selbstverständlich und einer Untersuchung unbedürftig zu halten. Die Aufgabe ist, die Art dieses Mitdaseins in der nächsten Alltäglichkeit phänomenal sichtbar zu machen und ontologisch angemessen zu interpretieren. (p.116)
世界内存在の解明が明らかにしたのは、世界のないたんなる主体などというものがさしあたり「存在している」わけではなく、また与えられているわけでもないということである。そして結局のところ同じように、さしあたり他者たちのいない孤立した自我というものが与えられることも決してないのである。たしかに世界内存在にはつねにすでに「他者たち」が、”ともに現に存在している”のであり、そのことは現象的に確認されるのであるが、だからといってこうした「与えられたもの」の”存在論的な”構造を自明なものとみなしたり、探究が不要なものとみなしたりしてはならない。わたしたちに必要なのは、このようにともに現に存在する存在様式を、もっとも身近な日常性において現象的にみえるようにすること、そしてそれを存在論的に適切に解釈することである。

 「さしあたり他者たちのいない孤立した自我というものが与えられることも決してない」のであり、現存在はつねに他者と「ともに現に存在する」ものとして生きています。「わたしたちに必要なのは、このようにともに現に存在する存在様式を、もっとも身近な日常性において現象的にみえるようにすること、そしてそれを存在論的に適切に解釈すること」です。第26節では、まず第2の道で示された共同現存在としての現存在の存在様式を考察した後で、第1の道で示された問題を検討することになります。


 第25節は以上となります。今回は比較的短めでしたが、続く第26節は長くなると予想されます。もし20000字を超えるようであれば、2つのパートにわけて書くつもりですので、よろしくお願いします。

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