『存在と時間』を読む Part.29

  第30節 情態性の1つの様態としての恐れ

 実存論的な分析論では、現存在の気分の<聞き取る>必要がありました。この節でハイデガーが分析の対象として取り上げるのは、「恐れ」という日常的な現象です。

Das Phänomen der Furcht läßt sich nach drei Hinsichten betrachten; wir analysieren das Wovor der Furcht, das Fürchten und das Worum der Furcht. Diese möglichen und zusammengehörigen Hinblicke sind nicht zufällig. Mit ihnen kommt die Struktur der Befindlichkeit überhaupt zum Vorschein. (p.140)
恐れの現象は、次の3つの観点から考察することができる。わたしたちは<何について>恐れるか、恐れそのもの、<何のために>恐れるかについて分析するのである。これら3つの観点が可能であり、たがいに連関したものであるのは、偶然ではない。ここから、情態性一般の構造が前面に立ち現れてくるのである。

 ハイデガーは恐れの現象を3つの視点から考察します。すなわち「<何について>恐れるか」という恐れの対象、「恐れそのもの」、「<何のために>恐れるか」という恐れの理由という視点から分析するのです。現存在がある情動をもつときに、その情動について、その現象そのもの、その現象をもたらした対象、そしてその現象が生まれる理由あるいは根拠の3つの契機を問うというこの構造は、「情態性一般の構造」として、すべての情態性の分析に利用されることになるでしょう。

 第1の構造契機は、「<何について>恐れるかというその<恐ろしいもの>」、恐れの対象です。現存在が恐れるその「恐ろしいもの」とは、世界内部的に出会うものです。どのようなものがそなわっているために、そうした恐ろしいものになるのでしょうか。

Das Wovor der Furcht hat den Charakter der Bedrohlichkeit. Hierzu gehört ein Mehrfaches: 1. das Begegnende hat die Bewandtnisart der Abträglichkeit. Es zeigt sich innerhalb eines Bewandtniszusammenhangs. 2. Diese Abträglichkeit zielt auf einen bestimmte selbst aus einer bestimmten Gegend. 3. Die Gegend selbst und das aus ihr Herkommende ist als solches bekannt, mit dem es nicht >geheuer< ist. 4. Das Abträgliche ist als Drohendes noch nicht in beherrschbarer Nähe, aber es naht. In solchem Herannahen strahlt die Abträglichkeit aus und hat darin den Charakter des Drohens. 5. Dieses Herannahen ist ein solches innerhalb der Nähe. Was zwar im höchsten Grade abträglich sein kann und sogar ständig näher kommt, aber in der Ferne, bleibt in seiner Furchtbarkeit verhüllt. Als Herannahendes in der Nähe aber ist das Abträgliche drohend, es kann treffen und doch nicht. Im Herannahen steigert sich dieses >es kann und am Ende doch nicht<. Es ist furchtbar, sagen wir. 6. Darin liegt: das Abträgliche als Nahendes in der Nähe trägt die enthüllte Möglichkeit des Ausbleibens und Vorbeigehens bei sich, was das Fürchten nicht mindert und auslöscht, sondern ausbildet. (p.140)
<何について>恐れるかということには、<脅かすもの>という性格がある。これにはいくつかの条件が必要である。第1に、こうして出会うものは、害をなすものであるという適材適所性の様式をそなえている。こうした適材適所性の連関のうちに、それは現れるのである。第2に、この害をなすものという性格は、その害をこうむる可能性のあるもののうちの特定の範囲を狙っている。それ自身がこうした害をなすという規定のもとで、特定の<辺り>からやってくるのである。第3に、こうした<辺り>そのものと、そこからやってくるものは、「安心できない」ものであることが周知されている。第4に、この害をなすものは脅かすものとして、すぐに対処しうるような近さにはまだやってきていないが、それでも近づいているのである。この接近においてそれは害をなすものであることがますます歴然としてくるのであり、<脅かすもの>としての性格を強めているのである。第5に、その接近はそもそも、<近さ>のうちにある。きわめて大きな害をなしうるものが、たえず近づいてくるとしても、それが遠いところにあるかぎり、その恐ろしさはまだ覆われ、隠されている。しかし<近さ>のうちにまで接近してくると、<害をなすもの>に出くわすことも、出くわさないこともありうるのであり、そのようにしてこの<害をなすもの>は脅かすようになる。接近してくるとともに、この「出くわすかもしれないが、結局は出くわさないかもしれない」ということが強まってくる。そしてそれを恐ろしいことだと、わたしたちは言うのである。第6に、このことから明らかなのは、近さにおいて近づきつつあるこの<害をなすもの>には、あるいは出くわさずに通りすぎてしまう可能性のあることもあらわになっている。しかしこのことは恐れを小さくしたり、なくしたりするのではなく、かえってそれを強めるのである。

 ハイデガーは6つの条件を列挙しています。第1は、その恐ろしいものには「害をなすものであるという適材適所性の様式」がそなわっていることです。幽霊が怖いという人は、真夜中のトンネルでは恐れるでしょうが、真昼の活気のある町中では恐れはしないでしょう。幽霊は暗いところや人気のないところという適所のうちでこそ、恐れを呼び覚ます適材となるのであり、恐れが生まれるのは、その恐れの適材適所性のもとにおいてです。
 第2は、その恐ろしいものが狙ってくる「辺り」と、それがやってくる特定の「辺り」というものがあることです。「狙ってくる<辺り>」はわたしの背中であり、わたしの背中が「その害をこうむる可能性のあるもののうちの特定の範囲」を構成します。そして恐れが「やってくる特定の<辺り>」は、真夜中のトンネルの中でわたしが寒気を感じている背後です。
 第3は、その恐ろしいものも、それがやってくる「辺り」そのものも、主体にとっては「安心できない」ものであることが周知されていることです。幽霊が怖いのは、たんにそれが害を加えるだけではなく、その害が加えられる可能性が「安心できないもの」として周知されているからであり、そしてそれがどの辺りからくるものかということも周知されているからです。幽霊というものをまったく知らない人や、幽霊が出る可能性があるという噂のトンネルのことを知らない人にとっては、そこを通っても恐れたりはしないでしょう。
 第4は、その恐ろしいものは、離れたところから主体のいるところへと「近づいてくる」という性格のものであることです。真夜中にトンネルの中を歩かないかぎり、幽霊に出会う心配がなければ、幽霊もそれほど恐ろしいものではありません。ところがどうしても向こう側に行かなければならない用事ができたら、主体はそこを歩かざるをえません。そのとき幽霊は遠くにあるのではなく、「近さ」にやってきます。それが接近することで、その害と怖さがますます強くなるのです。
 第5は、この接近は曖昧さと不意打ちという性格をそなえていることです。それが必ずやってくることが分かっていれば、主体は心のうちで準備することができますし、何らかの対策をとることができるかもしれません。このような覚悟があれば、幽霊に出会うことがどれほど恐ろしいことであっても、それほど脅かされないものです。「出くわすかもしれないが、結局は出くわさないかもしれない」という曖昧さのうちで不意を打たれることが、恐ろしさを強めるのです。
 第6は、この恐ろしいものには結局は出会わないかもしれないという気持ちがあることです。その予測不可能性と不確実性が、逆にひとの恐れを強めます。まさか幽霊に出会うことはないだろうと思いながら歩いていると、トンネルのなかでわずかな物音がしただけでも、ひとは幽霊ではないかと怖くなるのです。

 恐れの分析について示された第2の構造契機は、「恐れそのもの」であって、これは恐れの性質を問うものです。

Das Fürchten selbst ist das sich-angehen-lassende Freigeben des so charakterisierten Bedrohlichen. Nicht wird etwa zunächst ein zukünftiges Übel (malum futurum) festgestellt und dann gefürchtet. Aber auch das Fürchten konstatiert nicht erst das Herannahende, sondern entdeckt es zuvor in seiner Furchtbarkeit. Und fürchtend kann dann die Furcht sich, ausdrücklich hinsehend, das Furchtbare >klar machen<. Die Umsicht sieht das Furchtbare, weil sie in der Befindlichkeit der Furcht ist. Das Fürchten als schlummernde Möglichkeit des befindlichen In-der-Welt-seins, die >Furchtsamkeit<, hat die Welt schon darauf hin erschlossen, daß aus ihr so etwas wie Furchtbares nahen kann. Das Nahenkönnen selbst ist freigegeben durch die wesenhafte existenziale Räumlichkeit des In-der-Welt-seins. (p.141)
”恐れることそのもの”は、このような性格によって<脅かすもの>に、<おのれを襲わせながら、開けわたす>ことである。わたしたちはまず何か将来の災厄のようなものを確認してから、その後で初めてそれを恐れるわけではない。何かあるものが<近づきつつある>ことを確認してからそれを恐れるのではなく、近づきつつあるものが、それ自身恐ろしいものであることを、あらかじめ露呈させているのである。そして恐れているからこそ、そのものにことさらにまなざしを向けて、恐ろしいものを「はっきりとみとどける」ことができるようになる。<目配り>のまなざしが恐ろしいものをみいだすのは、<目配り>が恐れという情態性のもとにあるからである。恐れることは、情態的な世界内存在のうちに眠っている可能性としては「怖がり」であり、そこから何か恐ろしいものが近づいてくることがありうる場所として、すでに世界を開示している。<近づいてくることがありうる>ことそのものが、世界内存在の本質的な実存論的な空間性によって、<開けわたされている>のである。

 現存在が恐れるとき、それはいまだ来たらざるものを恐れるということであり、しかもそのさまざまな帰結を想像して恐れるのです。幽霊が怖い人は、無意識のうちにも幽霊と遭遇することを恐れていて、幽霊と遭遇したなら、自分は取りつかれてしまうのではないかと心配なのです。恐れる現存在は、さまざまな帰結をあらかじめ考えだし、みずから発見します。この想像力の働きは、目配りのまなざしによるものであり、このまなざしは、恐ろしいのものが到来したときの帰結を確認してからそれを恐れるのではなく、「近づきつつあるものが、それ自身恐ろしいものであることを、あらかじめ露呈させている」のです。そしてこのまなざしによって、その恐ろしいものの帰結を「はっきりとみとどける」ことが可能になるのです。
 このまなざしの働きのために、現存在はその恐ろしいものとともに、世界を新たに発見し、自分の存在とその未来が賭けられている場所として、世界を自分そのものと同じように恐れます。現存在が「怖がり」であることを特徴とする存在者であり、それが怖がることによって世界が開示されます。世界はあたかも現存在の身体とひと繋がりのようなものとして実感してされるのです。

 恐れの第3の構造契機は、恐れが「何のために」生まれるかという恐れの理由です。

Das Worum die Furcht fürchtet, ist das sich fürchtende Seiende selbst, das Dasein. Nur Seiendes, dem es in seinem Sein um dieses selbst geht, kann sich fürchten. Das Fürchten erschließt dieses Seiende in seiner Gefährdung, in der Überlassenheit an es selbst. Die Furcht enthüllt immer, wenn auch in wechselnder Ausdrücklichkeit, das Dasein im Sein seines Da. Wenn wir um Haus und Hof fürchten, dann liegt hierin keine Gegeninstanz für die obige Bestimmung des Worum der Furcht. Denn das Dasein ist als In-der-Welt-sein je besorgendes Sein bei. Zumeist und zunächst ist das Dasein aus dem her, was es besorgt. Dessen Gefährdung ist Bedrohung des Seins bei. Die Furcht erschließt das Dasein vorwiegend in privativer Weise. Sie verwirrt und macht >kopflos<. Die Furcht verschließt zugleich das gefährdete In-Sein, indem sie es sehen läßt, so daß das Dasein, wenn die Furcht gewichen, sich erst wieder zurechtfinden muß. (p.141)
<何のために>恐れるかということは、恐れている存在者自身、現存在のもとにある。みずからの存在において、その存在そのものが心配されている存在者だけが、恐れることができる。恐れることはこの存在者を開示するが、それを危険にさらされている存在者として、自己自身に委ねられている存在者として開示する。恐れは現存在を、みずからの<そこに現に>の存在においてあらわにする(ただしそれがどこまで明示的なものであるかは、ときに応じて変わりうる)。わたしたちが自分の住居の<ために>恐れているとしても、それはわたしたちが<何のために>恐れるかについて規定したことへの反証にはならない。現存在は世界内存在として、いつも<~のもとに>配慮的な気遣いをしている存在だからである。現存在はさしあたりたいていは、自分が配慮的に気遣っている”ものごと”のほうから”存在している”。それらが危険にさらされることは、この<~のもとに>ある存在が脅かされるということである。恐れは現存在は何よりも欠如的なありかたで開示する。恐れは困惑させ、「狼狽」させる。恐れは危険にさらされた内存在を見えるようにすると同時に、そうした内存在を閉ざしてしまう。恐れが遠のいた後になってやっと現存在が正気を取り戻すのはそのためである。

 これは、恐れの対象についての第1の構造契機の観点と、「恐れそのもの」についての第2の構造契機の観点が結びついたものです。主体である現存在が、対象である恐ろしいものを恐れるのは、みずからの生と将来が脅かされているからです。「みずからの存在において、その存在そのものが心配されている存在者だけが、恐れることができる」のです。
 恐れの究極の理由はこのように、自己の存在と幸福が脅かされることです。わたしたちが自分自身のためではなく、たんなる事物にすぎない「自分の住居の<ために>恐れている」としても、それは自分の住む場所がなくなることを心配して恐れているのであって、恐れは、現存在が自己の生をどのように考えているか、自己の生の将来設計をどのようにしているかを露呈します。このことは、他者の代わりに恐れる場合にもあてはまります。他者の生について利他的に恐れているようにみえるとしても、現存在が恐れているのは、その他者との共同の生の可能性が、そしてその共同の生がもたらす自分の幸福が失われることです。こうした恐れは、「みずからの存在において、その存在そのものが心配されている」という規定に反するものではありません。

 恐れは情態性の1つであり、後に詳細に考察される不安と同じように、世界のうちで生きる現存在の存在様態をありありと示すものです。ハイデガーはこのように、恐れという気分を分析しながら情態性の構造契機を考察するが、それだけではなく、恐れの派生形についての考察も行っています。恐れは、「驚愕」「戦慄」「仰天」などのさまざまな形で登場することがあるからです。

Alle Modifikationen der Furcht deuten als Möglichkeiten des Sich-befindens darauf hin, daß das Dasein als In-der-Welt-sein >furchtsam< ist. Diese >Furchtsamkeit< darf nicht im ontischen Sinne einer faktischen, >vereinzelten< Veranlagung verstanden werden, sondern als existenziale Möglichkeit der wesenhaften Befindlichkeit des Daseins überhaupt, die freilich nicht die einzige ist. (p.142)
こうした恐れのすべての派生態は、みずから情態的に存在していることのさまざまな可能なありかたであり、これは現存在が世界内存在として「怖がりであること」を示している。この「怖がりであること」は、事実として「その人に固有の」素質という存在者的な意味で解釈してはならない。これは現存在一般に本質的なものである情態性の実存論的な可能性として理解する必要がある。当然ながらこの可能性が、唯一の実存論的な可能性であるわけではないのだが。

 「恐れることは、情態的な世界内存在のうちに眠っている可能性としては<怖がり>であり、そこから何か恐ろしいものが近づいてくることがありうる場所として、すでに世界を開示してい」ます。この「怖がりであること」は、ある特定の人が怖がりな性格であることを意味するわけではなく、「事実として<その人に固有の>素質という存在者的な意味で解釈してはならない」ものです。「これは現存在一般に本質的なものである情態性の実存論的な可能性として理解する必要がある」のであって、すべての現存在にかかわる言明となっています。


 今回はここまでです。ここで「情態性」についての考察が一段落し、次節では現存在の<そこに現に>の第2の構造契機である「理解」のテーマを考察することになります。

 次回もよろしくお願いします。

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