『存在と時間』を読む Part.58

  第57節 気遣いの呼び掛けとしての良心

 良心の呼び掛けで、呼び掛けられる者は現存在ですが、呼び掛ける者は誰でしょうか。この問いにはすぐに答えられるように思えます。呼び掛ける者もまた、呼び掛けられる者と同じように、現存在です。この現象では、現存在が良心においてみずからに呼び掛けるのは明らかだからです。
 しかしこのように答えることは、存在論的に十分なものではありません。良心において呼び掛ける者は現存在であり、この現存在は呼び掛けられる者としての現存在とは存在者としては同じでしょうが、存在論的には異なる存在なのではないでしょうか。この呼び掛ける者がどのような性質の存在であるのか、調べてみる必要があります。

 呼び掛ける者について考察するために、この者が呼び掛けたときに、どのような事態が起こるかを考えてみましょう。

Das Gewissen ruft das Selbst des Daseins auf aus der Verlorenheit in das Man. Das angerufene Selbst bleibt in seinem Was unbestimmt und leer. Als was sich das Dasein zunächst und zumeist versteht in der Auslegung aus dem Besorgten her, wird vom Ruf übergangen. Und doch ist das Selbst eindeutig und unverwechselbar getroffen. Nicht nur der Angerufene wird vom Ruf >ohne Ansehen seiner Person< gemeint, auch der Rufer hält sich in einer auffallenden Unbestimmtheit. (p.274)
良心は現存在の自己を、世人自己のうちに喪失しているありかたから呼び覚ます。呼び起こされた自己は、みずからが〈何であるか〉については、無規定のまま、空虚なままにとどまっている。現存在はさしあたりたいていは、自分が”何であるか”については、配慮的に気遣っているものを基準にした解釈のうちで理解しているが、良心の呼び掛けはそれを素通りしてしまう。それでもその呼び掛けは紛れもなく、自己を射とめている。呼び起こされている者は「その人格を考慮せずに」呼び掛けによって目指されているだけではなく、呼び掛ける者もまた、顕著なほどの無規定なありかたにとどまっているのである。

 良心に呼び掛けられるまで現存在は、日常性において「世人自己のうちに喪失している」のでした。現存在は世界内存在として、世界のうちでさまざまな役割と地位を占めており、こうした役割や地位が現存在を規定しています。現存在はたとえば刀鍛冶であり、妻の夫であり、父親であり、茶の会の会員です。このように現存在はさまざまな「顔」をそなえて暮らしており、それらの「顔」によって日常生活を送っています。それが現存在にとってのふつうの生活であり、場合によっては一生です。
 ところがそこで良心が呼び掛けます。現存在はふと、自分がみずからに固有の存在可能を目指しているかどうかをみずからに問い掛けます。その途端に、現存在は自己のさまざまな役割や地位を忘却し、こうしたもののうちに専念していたことが、自己の真のありかたを忘却し、自己を喪失していたことに気づくのです。
 この呼び掛けを聞いた現存在は、それまで自分が「何」であったかを忘却してしまいます。日常性のうちに生きていた現存在は、それまでは自分が「何」であるのかについては、刀鍛冶であるとか、父親であるとかいうように、日常の生活における役割と地位に基づいて、「配慮的に気遣っているものを基準にした解釈のうちで理解して」いたのです。しかし呼び掛けによって、それらのすべてが意味を失います。この呼び掛けをうけた現存在は、自己がまったく無規定なものであることを自覚するのです。
 このような力をもつ呼び掛けをする良心も、同じように無規定なものであり、「それ(>es<)」としか言いようのないものです。

Der Ruf wird ja gerade nicht und nie von uns selbst weder geplant, noch vorbereitet, noch willentlich vollzogen. >Es< ruft, wider Erwarten und gar wider Willen. Andererseits kommt der Ruf zweifellos nicht von einem Anderen, der mit mir in der Welt ist. Der Ruf kommt aus mir und doch über mich. (p.275)
しかし呼び掛けは、決して”わたしたち自身が”計画したことでも、準備したことでも、意図して実行したことでもない。いかなる期待にも、いかなる意志にも反して、「それ」が呼び掛けるのである。他方では、この呼び掛けはわたしとともに世界内存在している他者から到来するものではないことも、疑いようのないことである。良心の呼び掛けは、わたしの”うちから”、しかもわたしを”超えたところから”到来するのである。

 この「それ」は、良心の呼び掛けとして、「わたしの”うちから”、しかもわたしを”超えたところから”到来する」という固有の性格をそなえています。呼び掛けてくるものは、わたしたちのうちに潜んでいる良心ですが、それはどこから生まれ、どこから呼び掛けてくるのか、わたしたちには理解できない性格の呼び掛けを行うのです。

 良心の呼び掛けはこのように無規定な性格であり、「それ」としか呼びようがないために、さまざまな誤った解釈が行われがちです。たとえばそれをキリスト教の「神の声」のように神秘的な性格のものと考えたり、フロイトの「超自我」のように生物学的なものとして考えたりすることですが、ハイデガーはこのような解釈は誤ったものだと考えます。さらにハイデガーは、このように良心をある実体的なものとみなす傾向が生じるのは、哲学のうちに存在する伝統的な過誤のためであると指摘しています。

Beide Deutungen überspringen vorschnell den phänomenalen Befund. Erleichtert wird das Verfahren durch eine unausgesprochen leitende, ontologisch dogmatische These: was ist, das heißt so tatsächlich wie der Ruf, muß vorhanden sein; was sich nicht als vorhanden objektiv nachweisen läßt, ist überhaupt nicht. (p.275)
どちらの解釈も、この現象についての確認事項をあまりに性急に飛び越えようとするものである。このような手続きが採用されがちなのは、その背後に存在論的には独断的なテーゼがひそんでいて、それが暗黙のうちにこれを導いているからである。すなわちすべての”存在するもの”は、すなわち呼び掛けのように実際のありかたとして”存在する”ものは、”眼前的に”存在するものでなければならない、そして”眼前的に”存在することが客観的に証明されないものは、そもそも”存在しない”ものであるという独断的なテーゼである。

 このように「それ」としての良心は、神的なものの「声」として神秘化されるか、超自我のようなものとして生物学的に説明されるかのいずれかの道が好まれる傾向があります。しかし良心の呼び掛けは、そのように説明できるものでも、説明すべきものでもありません。良心はすでに考察してきたように、現存在の実存カテゴリーである「証し」の1つです。この良心の性格については、現存在の実存論的な分析によって考察すべきなのです。

 ところで良心の呼び掛けが「それ」という無規定なものとして感じられ、「それ」に呼び掛けられた現存在が無規定なものとなってしまうのは、現存在の実存という特別な存在様式のために生まれると、ハイデガーは考えます。そこから良心の実存論的な分析の道が開けるのです。
 現存在は宙に浮いたような自己投企ではなく、被投性によって、みずからそれである存在者として、事実として規定されています。これが意味するのは、現存在は世界のうちに投げ込まれた被投的な存在者でありながらも、不断に実存に委ねられている存在者であるということであり、つねに自己から逸脱するものとして、自分の存在のしかたを選択する存在者だということです。

Als geworfenes ist es in die Existenz geworfen. Es existiert als Seiendes, das, wie es ist und sein kann, zu sein hat. (p.276)
現存在は被投されているのだが、それも”実存へと”被投されているのである。現存在は、存在者として実存しているが、この存在者は、現存在が存在しているとおりに、そして現存在が存在しうるがままに、存在せざるをえない存在者なのである。

 このような被投性と実存性という矛盾した性格のために、現存在は矛盾した存在様式のうちにあります。現存在は世界に投げ込まれたという被投性の事実を前にして、世人自己の安楽さのうちに逃走しますが、実存するものとして、みずからが存在する存在者として、存在可能において存在しなければならないことに直面させられます。この矛盾した存在様式のうちにある現存在は、こうした矛盾のために、開示性としての情態性のうちで不安を感じるようになります。というのも、逃走している現存在は、単独者になった世界内存在を根本的に規定している不気味さから逃走しているのですが、これを完全に拭い去ることはできず、その不気味さが現存在にたいしてつねに自己の虚無を、自己の死の可能性を自覚させるからです。

Die Unheimlichkeit enthüllt sich eigentlich in der Grundbefindlichkeit der Angst und stellt als die elementarste Erschlossenheit des geworfenen Daseins dessen In-der-welt-sein vor das Nichts der Welt, vor dem es sich ängstet in der Angst um das eigenste Seinkönnen. (p.276)
不気味さは本来的には、不安という根本的な情態性においてあらわにされるのであり、被投的な現存在のもっとも基本的な開示性として、現存在の世界内存在を、世界という虚無に直面させるのである。この虚無を前にして現存在は、もっとも固有なみずからの存在可能のために、不安のうちで不安を感じる。

 この不安こそが、良心として現存在に世人自己からの脱却を促し、自己の存在可能に直面することを求める呼び掛けを生み出します。このように現存在の実存分析によってハイデガーは、現存在が虚無に直面して不安に襲われることで、良心の呼び掛けを自己のうちに生み出すことを指摘します。
 この「世界という虚無」は、原文では>Nichts der Welt<であり、>Nichts<(虚無)と>Welt<(世界)のあいだの>der<は、>Welt<の冠詞である>die<が、その属格に変化したものです。ですからこれは「世界”の”虚無」というようにも訳することができ、このことは>Nichts der Welt<を2つの意味で考えることができることを意味します。
 1つは現存在が世界に被投されて、世界のうちで自分の役割や地位を演じながら、世界に向けた「顔」をもつ存在となっていることの空しさから生まれる虚無です。これは現存在にとっては自己を忘却すること、自己を喪失することであり、現存在が実存して自己の存在可能に立ち帰ったときには、これは「世界という虚無」として、現存在に実感されることになるでしょう。
 もう1つは現存在は実存する者として、自己の死の可能性に先駆することを求められるために感じられる虚無です。死とは可能性の不可能性であり、その時点において現存在がそなえていた潜在的なすべての可能性が無に帰する瞬間です。現存在は世界内存在として、世界をもつ存在です。現存在の可能性は世界のうちで実現されるものですが、死によってこの存在が消滅するとともに、可能性を実現する場である世界もまた消滅します。そのために死は現存在にとっては「世界の虚無」と受けとめられるのです。
 この2重の虚無を前にした現存在に、良心は呼び掛けます。この良心の呼び掛けによって、現存在は初めて自己に固有の存在可能に直面することを促されるのです。このように考えると、呼び掛ける者がどのようなものであるかを提示することができるでしょう。

Wenn das im Grunde seiner Unheimlichkeit sich befindende Dasein der Rufer des Gewissensrufes wäre? (p.276)
”良心の呼び掛けにおいて呼び掛ける者が、みずから感じている不気味さの根底において情態的に存在する現存在だとしたら、どうなるだろうか”。

 この呼び掛ける者として、根源的に被投された世界内存在として、世界という虚無に直面しながら存在していることをあらわに示す者です。呼び掛ける者は、世人として存在している現存在にとっては馴染みのないもの、「見知らぬ声」のようなものです。

Was könnte dem Man, verloren in die besorgte, vielfältige >Welt<, fremder sein als das in der Unheimlichkeit auf sich vereinzelte, in das Nichts geworfene selbst? >Es< ruft und gibt gleichwohl für das besorgend neugierige Ohr nichts zu hören, was weitergesagt und öffentlich beredet werden möchte. (p.277)
配慮的な気遣いの対象となった多様な「世界」のうちに自己を喪失している世人にとって、不気味さのうちで単独化され、虚無のうちに投げ込まれている自己よりも、見知らぬものがあるだろうか。「それ」が呼ぶ。それにもかかわらず「それ」は、何かを語り伝えて公共的な場で話題にすることができるようなものを、配慮的な気遣いのうちで好奇心に満ちている耳に、何ひとつ言い聞かせることはないのである。

 それでは現存在は、みずからの被投的な存在の不気味さのうちから、何をどのように告げ知らせるのでしょうか。そのことを、良心の呼び掛けのもついくつかの性格から確認してみましょう。

 良心の呼び掛けのもつ第1の性格は、「沈黙」です。

Der Ruf redet im unheimlichen Modus des Schweigens. Und dergestalt nur darum, weil der Ruf den Angerufenen nicht in das öffentliche Gerede des Man hinein-, sondern aus diesem zurückruft in die Verschwiegenheit des existenten Seinkönnens. (p.277)
呼び掛けは、”沈黙”という不気味な様態で語る掛ける。それというのも、この呼び掛けは、呼び起こされた者を、世人の公共的な世間話のうちに呼びだすのでなく、まさに世間話から”呼び戻し、実存的な存在可能の沈黙のうちに呼び込む”のだからである。

 すでに確認されたように、呼び掛けは「”沈黙”という不気味な様態で語る掛ける」のであり、この呼び掛けは現存在を、「世人の公共的な世間話のうちに呼びだすのでなく、まさに世間話から”呼び戻し、実存的な存在可能の沈黙のうちに呼び込む”」のです。この呼び掛けは、現存在にとって唯一の重要なものである存在可能を呼び起こすことだけを目指しています。
 第2に、この呼び掛けは「確実さ」という性格をおびています。

Und worin gründet die unheimliche, doch nicht selbstverständliche kalte Sicherheit, mit der der Rufer den Angerufenen trifft, wenn nicht darin, daß das in seiner Unheimlichkeit auf sich vereinzelte Dasein für es selbst schlechthin unverwechselbar ist? Was benimmt dem Dasein so radikal die Möglichkeit, sich anderswoher mißzuverstehen und zu verkennen, wenn nicht die Verlassenheit in der Überlassenheit an es selbst? (p.277)
また呼び掛ける者は呼び起こされた者を、不気味で冷たい確実さをもって捉えるのだが、この自明なものではない確実さは、何によるのだろうか。それがみずからの不気味さのうちで単独化された現存在が、みずからにとって端的に取り違えようのないことに基礎を置くのでないとすれば、どこに基礎を置くことができるのだろうか。現存在は、みずからを何か別のものとして誤解したり、自分を取り違える可能性を徹底的に奪われているのであるが、それは現存在がみずからに委ねられたままで見捨てられているためにほかならないのではないだろうか。

 良心の呼び掛けは、「不気味で冷たい確実さ」をもって現存在を呼ぶのですが、この確実さがどのようにして生まれるかを考えてみるのは興味深いことです。心の中で良心が呼び掛け、語り始めた瞬間に、現存在はそれが語り掛けるのが誰であるかを確実に知っています。呼び掛けられた現存在は、「自己はみずから自身に、すなわちそのもっとも固有な存在可能に向かって、”呼び起こされている”」ことを熟知しているのです(Part.57)。良心は〈わたし〉のうちで、もっとも大切な〈わたし〉に向かって、語り掛けます。
 この確実さが生まれるのは、「みずからの不気味さのうちで単独化された現存在が、みずからにとって端的に取り違えようのないことに基礎を置く」からです。呼び掛けられた現存在は、自分が「みずからに委ねられたままで見捨てられている」ことを、心の奥底ですでに知っているのです(この原文である>Verlassenheit in der Überlassenheit an es selbst<は、少々訳しづらい箇所です。>Verlassenheit<には「見捨てられていること」の他に「孤独、寂しさ」という意味をもち、>Überlassenheit an es selbst<は「みずからに委ねられていること」を意味します。「見捨てられていること」というニュアンスがわかりづらければ、「みずからに委ねられていることにおける孤独さ」というように読むことができるでしょう)。
 第3に、良心が呼び掛けるのは、不気味さのうちで不安に襲われた現存在を目指してです。現存在は世界内存在として世界のうちのさまざまな役割と地位を演じながらも、その根底において、それが2重の意味で「虚無」であることを自覚しています。その虚無の自覚が現存在に不気味さを感じさせるのであり、現存在は不安のうちに置き去りにされます。

Der durch die Angst gestimmte Ruf ermöglicht dem Dasein allererst den Entwurf seiner selbst auf sein eigenstes Seinkönnen. (p.277)
不安という気分をおびたこの呼び掛けによって現存在は初めて、もっとも固有なみずからの存在可能に向かって、みずからを投企することができるようになる。

 現存在は不安という情態性のうちで、良心によって呼び掛けられます。そしてこの呼び掛けは現存在に、「もっとも固有なみずからの存在可能に向かって、みずからを投企すること」を可能にするのです。

 これらの考察から結論されるのは、良心は現存在の世界内存在の存在様態である「気遣い」から生まれたものであるということです。

Das Gewissen offenbart sich als Ruf der Sorge: der Rufer ist das Dasein, sich ängstigend in der Geworfenheit (Schon-sein-in) um sein Seinkönnen. Der Angerufene ist eben dieses Dasein, aufgerufen zu seinem eigensten Seinkönnen (Sich-vorweg ...). Und aufgerufen ist das Dasein durch den Anruf aus dem Verfallen in das Man (Schon-sein-bei der besorgten Welt). Der Ruf des Gewissens, das heißt dieses selbst, hat seine ontologische Möglichkeit darin, daß das Dasein im Grunde seines Seins Sorge ist. (p.277)
”良心は、気遣いの呼び掛けであることをみずから打ち明けたのである”。呼び掛ける者は現存在であるが、現存在は被投性、すなわち〈すでに~のうちに存在すること〉において、みずからの存在可能について不安に駆られている。そして呼び起こされる者も同じこの現存在であるが、この現存在はみずからにもっとも固有な存在可能としての〈自己に先立って〉に向かって呼び覚まされている。そしてこの現存在は、この呼び起こしによって、世人への頽落から、すなわち〈配慮的に気遣う世界のもとにすでに存在すること〉から呼び覚まされたのである。良心の呼び掛け、すなわち良心そのものの存在論的な可能性は、現存在がその存在の根底において、気遣いであるということにある。

 気遣いのもとにある現存在は、受動的な存在として被投性のうちにありながら、実存する存在者としてみずからの可能性に向けて投企する能動的な存在です。そして現存在は呼び掛ける能動的な主体であると同時に、良心によって呼び掛けられる受動的な存在でもあります。現存在がつねにこの2重の存在様態において存在するものであるために、呼び掛けの様態もまた2重性をおびたものとなります。
 現存在は世界のうちで被投性のもとで「〈すでに~のうちに存在すること〉において、みずからの存在可能について不安に駆られている」のですが、良心の声は世人へと半ば頽落した現存在の自己に呼び掛けます。しかし同時に呼び掛ける現存在は、被投性のうちにありながら不安に駆られて、自己の存在可能に直面するために能動的に投企する現存在でもあります。この良心の声に呼び掛けられた現存在は、自己の存在可能へと受動的に呼び覚まされます。どちらにしても、この「良心の呼び掛け、すなわち良心そのものの存在論的な可能性は、現存在がその存在の根底において、気遣いである」ことにあります。

 ハイデガーはこのように存在論的な気遣いに基づいて、良心の理論を展開したのでした。良心がなぜ、どのようにして現存在に呼び掛けるかを分析した後に、ハイデガーは一般に語られているさまざまな良心論を批判する作業を始めます。

So bedarf es denn keiner Zuflucht zu nichtdaseinsmäßigen Mächten, zumal der Rückgang auf sie die Unheimlichkeit des Rufes so wenig aufklärt, daß er sie vielmehr vernichtet. Liegt der Grund der abwegigen >Erklärungen< des Gewissens nicht am Ende darin, daß man schon für die Fixierung des phänomenalen Befundes des Rufes den Blick zu kurz genommen und stillschweigend das Dasein in einer zufälligen ontologischen Bestimmtheit bzw. Unbestimmtheit vorausgesetzt hat? (p.278)
このようにしてみると、現存在ではない別の力に逃げ道をみいだす必要はまったくないのである。さらにこうした力へと後退して良心を説明しようとしたところで、呼び掛けの不気味さが解明されることはまったくないし、むしろ不気味さが失われてしまう。良心についての「説明」がこのような邪道に陥ってしまうのは、結局のところ、呼び掛けの現象を確認するさいに、あまりに”近視眼的な”見方をしてしまうからではないだろうか。存在論的に規定されていたり、規定されていなかったりする何らかの偶然的なありかたにおいて、現存在を暗黙のうちに前提としているためではないだろうか。

 ここでハイデガーが「現存在ではない別の力」と言っているのは、神学的な良心論で考えられている神のことであり、良心を神のような超越者から与えられた恩寵のようなものとみなすのは、良心の現象を解釈するためには不適切であると指摘されています。良心という現象は、世界内存在としての現存在が、自己の存在可能に向けて実存するという存在様式に基づいて解釈することができるものであり、超越者という概念は不要なのです。良心を神が与えた恩寵というように、外部からの贈物と考えることは、この現象を現存在の存在から考察する道を閉ざしてしまうのです。
 良心を神学的に解釈するなら、現存在について存在論的に考察することができなくなります。こうした解釈の背後には、現存在を実存する存在者としてではなく、被造物として眼前的に存在するものとみなすという考え方が控えているとハイデガーは考えます。これは現存在を存在論的に十分に考察していないことに起因します。こうした解釈では、実存する存在者に固有の「不気味さが解明されることはまったくないし、むしろ不気味さが失われてしまう」のです。

 この神の声としての良心論と関連して、ハイデガーはフロイトの良心論を批判します。フロイトにとっては良心は神の声ではなく、心の構造の一部を構成する超自我の声でした。この超自我は、父親などの自己を超越した他者の命令を、内的なものとして取り入れることで作りだされた審級とされており、この超自我の命令が良心です。この超自我の審級は、神のように超越的なものではなく、人間の心に内在するものですが、この審級は外的な超越者を内面化したものであるために、外的な由来をもつものです。

Die genannte Auslegung des Gewissens gibt sich aus als Anerkennung des Rufes im Sinne einer >allgemein<-verbindlichen Stimme, die >nicht bloß subjektiv< spricht. Mehr noch, dieses >allgemeine< Gewissen wird zum >Weltgewissen< aufgesteigert, das seinem phänomenalen Charakter nach ein >es< und >Niemand< ist, also doch das, was da im einzelnen >Subjekt< als dieses Unbestimmte spricht. (p.278)
良心のこのような解釈は、この呼び掛けは「たんに主観的に」語るのでは「なく」、「普遍的な」拘束力をもつ〈声〉であると考えて、その呼び掛けを承認するものだと称している。さらにこの「普遍的な」良心は「世界の良心」にまで昇格させられるのであるが、この「世界の良心」というものも、その現象的な性格からみるならば1つの「それ」であり、「誰でもないもの」である。だからやはり個々の「主観」のうちにおいて、無規定なものとして語るものにすぎないのである。

 ハイデガーは、このような良心の解釈もまた、良心が「〈普遍的な〉拘束力をもつ〈声〉であると考えて、その呼び掛けを承認するものだと称している」ものとみなしています。こうした良心論には次のような欠陥があります。
 第1に、このような良心は現存在の外部にある超越したもの、普遍的なものとして想定されています。良心は個人の主観を超越した「〈普遍的な〉良心」とみなされているのであり、こうした良心はその普遍性のために「〈世界の良心〉」にまで昇格させられたり、あるいは「〈誰でもないもの〉」としての「それ(>es<)」とみなされることがあります。フロイトが考えるエスは超自我の審級とは別のものですが、ハイデガーの観点からは、超自我が普遍的な世界の良心と同じものとして、個人の主観を超えたものとして語るという意味で、無人称のエスの声とみなされるのです。
 第2に、良心をこのように普遍的なものとみなすということは、現存在の実存が各私性をそなえていることを無視するものとなります。

Aber dieses >öffentliche Gewissen< - was ist es anderes als die Stimme des Man? Auf die zweifelhafte Erfindung eines >Weltgewissens< kann das Dasein nur kommen, weil das Gewissen im Grunde und Wesen je meines ist. Und das nicht nur in dem Sinne, daß je das eigenste Seinkönnen angerufen wird, sondern weil der Ruf aus dem Seienden kommt, das ich je selbst bin. (p.278)
しかしこの「公共的な良心」というもの、これこそが世人の声にほかならないのではないだろうか。現存在がこのような「世界の良心」なる怪しげなものを捏造しうるようになるのは、良心がその根拠においても本質においても、”そのつどわたしのもの”である”から”にほかならない。そのことが意味するのは、良心によって呼び起こされるのが、そのつどもっとも固有な存在可能であるということであり、さらに呼び掛けはいつもわたし自身がそれである存在者から訪れるということである。

 良心の呼び掛けは外部から普遍的なものとして語り掛けるのではなく、このわたしに、このわたしだけの固有な存在可能へと向けて語り掛けるのです。良心を普遍的なものとみなす解釈では、「良心によって呼び起こされるのが、そのつどもっとも固有な存在可能であるということであり、さらに呼び掛けはいつもわたし自身がそれである存在者から訪れる」ということを認識できないのです。
 第3に、良心をこのような「世界の良心」と考えることは、良心の主観性を無視して、それを公共的なものとみなすということです。しかし「この〈公共的な良心〉というもの、これこそが世人の声にほかならない」のではないでしょうか。現存在がこのように世界の良心としてうけとるものが、実は世人が語るものでないとみなすことはできません。この世人の声に耳を傾けることは、日常性への頽落のうちに逆戻りすることでしょう。

 このように、神学的な良心論と心理学的な良心論には、現存在の存在論的な分析という観点が欠如しているために、世界のうちに生きる現存在にとっての良心という意味が捉えられないとハイデガーは考えます。ところで良心の理論については、哲学の分野でもさまざまな議論が展開されています。こうした哲学的な良心の理論からみると、ハイデガーの現存在の良心論にはいくつかの視点から異論が提起される可能性があります。こうした哲学的な良心論は、「自然の経験」に基づいた哲学的な考察によって、たとえば次のような異論を提起するでしょう。

Wie soll das Gewissen als Aufrufer zum eigensten Seinkönnen fungieren, wo es doch zunächst und zumeist nur rügt und warnt? Spricht das Gewissen so unbestimmt leer über ein eigenstes Seinkönnen und nicht vielmehr bestimmt und konkret mit Bezug auf vogefallene oder vorgehabte Verfehlungen und Unterlassungen? Entstammt das behauptete Anrufen dem >schlechten< Gewissen oder dem >guten<? Gibt das Gewissen überhaupt etwas Positives, fungiert es nicht eher nur kritisch? (p.279)
良心はさしあたりたいていは、”叱責したり警告したりする”ものにすぎないのに、それがもっとも固有な存在可能に向けて”呼び覚ますもの”としての役割をはたすと言えるのだろうか。良心はもっとも固有な存在可能については、このように未規定で空虚に語るのではなく、実際に犯した過誤や不作為について、あるいは犯したかもしれない過誤や不作為について、明確かつ具体的に語るのではないだろうか。この解釈で示された呼び起こしというものは、「疚しい」良心から生まれたものなのか、それとも「疚しくない」良心から生まれたものなのか。むしろ良心は一般に、何か積極的な指示のようなものを与えるのではなく、たんに批判的に働くものにすぎないのではないだろうか。

 ハイデガーは良心とは現存在をその「もっとも固有な存在可能に向けて”呼び覚ますもの”」と規定していますが、実際には良心はたんに「”叱責したり警告したりする”ものにすぎない」のではないでしょうか。言い換えると、「良心は一般に、何か積極的な指示のようなものを与えるのではなく、たんに批判的に働くものにすぎないのではないだろうか」という異論です。
 また、ハイデガーは、良心が語り掛けるのは、現存在の「もっとも固有な存在可能」についてであると規定しましたが、この規定はあまりに「未規定で空虚」なものではないでしょうか。それよりも良心は、その持ち主を「叱責したり警告したり」しながら、その人が「実際に犯した過誤や不作為について、あるいは犯したかもしれない過誤や不作為について、明確かつ具体的に」語るものではないでしょうか。
 さらに良心の種類についての異論もあるでしょう。良心には「〈疚しい〉良心」、「〈疚しくない〉良心」があるはずです。しかしハイデガーのこの理論では、こうした良心の分類についての考察が欠けているのではないでしょうか。
 こうした異論にたいしてハイデガーは、わたしたちが日常的に経験する良心の現象は、ここでの異論が指摘するように語り掛けることが多いことを、一応は認めます。しかし良心をこのようなものとして考察するということは、存在論的な解釈をまず何よりも、こうした通俗的で存在者的な良心の理解から始めるということでしょう。これから本書で良心についての考察を深めるうちで、良心がなぜ批判するのか、なぜ叱責するのか、そしてしばしば疚しい良心として感じられるのかについて検討していくことになります。しかし、今の段階で課題とされているのは、こうした良心のさまざまな現象を個別に考察することではなく、良心を現存在の現象として、現存在の存在論的な機構のうちから読みとれるようにするための準備作業を行うことなのです。この分析は、現存在自身のうちに、みずからのもっとも固有な存在可能がひそんでいることを確認し、良心をそのことを示す「証し」として理解することを目指しているのです。

 ハイデガーはこの作業のうちで、良心の「呼び掛け」と、それを「聞くこと」という側面にとくに注目します。良心は呼び掛ける者であり、現存在はそれを聞く者でしたが、すでに確認されたように、呼び掛ける者も呼び起こされる者も、現存在自身なのでした。この両者の違いは呼び掛けの能動性と受動性だけにあり、どちらも現存在のうちにひそむ、みずからのもっとも固有な存在可能に向けて呼び掛けるのでした。

Was das Gewissen bezeugt, kommt aber erst dann zur vollen Bestimmtheit, wenn hinreichend deutlich umgrenzt ist, welchen Charakter das dem Rufen genuin entsprechende Hören haben muß. (p.279)
良心が何を証しているかを完全に規定するためには、〈呼び掛けること〉に真の意味で対応した”聞くこと”がどのような性格をそなえていなければならないかを、明確かつ十分に規定する必要がある。

 良心という現象には能動性と受動性がみられるのであるから、この現象を適切に把握するには、呼び掛けに「真の意味で対応した”聞くこと”」についても考察する必要があるでしょう。完全な良心体験は、この〈聞くこと〉において呼び掛けにしたがう本来的な理解に基づいて、またそうした理解とともに考えることで、初めて把握することができるのです。真に聞くことについては、もっとも固有な存在可能に向かう投企に関連して、次節で取りあげられることになります。

 それでは良心はなぜ、どのようにして、何を目指してこのような呼び掛けをするのでしょうか。現存在は世界内存在として日常生活のうちで世人に近い存在として生きています。その世人として頽落した被投的な現存在に、実存へ向けて投企する同じ現存在が呼び掛けるのです。その良心はなぜ呼び掛けるのでしょうか。これまでの分析において、良心の一般的な存在論的な性格が規定されてきました。今こそ、良心の呼び掛けが呼び掛ける内容において「問い質されるもの」について、考察する準備ができたのです。


 今回は以上になります。次回、〈負い目〉についての考察に入ります。

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