『存在と時間』を読む Part.55

 前回の続きとなります。

 第4の特徴は、先駆において現存在は、みずからの死を確実なものとすることです。

Die eigenste, unbezügliche und unüberholbare Möglichkeit ist gewiß. Die Weise, ihrer gewiß zu sein, bestimmt sich aus der ihr entsprechenden Wahrheit (Erschlossenheit). Die gewisse Möglichkeit des Todes erschließt das Dasein aber als Möglichkeit nur so, daß es vorlaufend zu ihr diese Möglichkeit als eigenstes Seinkönnen für sich ermöglicht. (p.264)
このもっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことのできない可能性は、”確実な”可能性である。それがどのような意味で確実なもので”ある”かということは、その確実さに対応した真理(開示性)によって決まる。しかし現存在が死のこの確実な可能性を可能性として開示するのは、現存在がみずからのこの可能性に向かって先駆しつつ、それをみずからにもっとも固有な存在可能として、この可能性をみずからに”可能にする”ことによるのである。

 死はすでに〈確実な〉可能性であることが確認されてきましたが、この確実性は特殊な性格のものであり、「先駆」という形でしか実現できないものです。そのことを理解するためには、自己の死が確実なものであるという確信をもつことがどのようなものであり、それはどのようにして可能になるかということを考えてみる必要があります。
 これまでにも指摘されてきたように、現存在の死の確実さは、現存在が出会うさまざまな死亡事例をみることによっては算定することができないものです。こうした確実さは、眼前的な存在者の真理とは別のものです。眼前的に存在するものには、その存在者そのものをただ純粋に眺めやることによって出会うことができますが、このような純粋な事象的なありかたを獲得するには、現存在はその事態のうちで自己を喪失している必要があります。眼前存在者の絶対的な明証性には、特定の実存に依拠しない無関心さが含まれているからです。このように存在者を露呈することは、気遣いの1つの課題ですが、死にたいする確信は、このような性格をそなえてはいないのです。しかしだからといって、死にたいする確信が絶対的な明証性よりも次元が低いものであることを意味するのではありません。そもそも死にたいする確信は、眼前的な存在者についての明証性の段階に属さないものであるのであり、死の確実さに純粋な事象性を期待してはならないのです。

Das Für-wahr-halten des Todes - Tod ist je nur eigener - zeigt eine andere Art und ist ursprünglicher als jede Gewißheit bezüglich eines innerweltlich begegnenden Seienden oder der formalen Gegenstände; denn es ist des In-der-Welt-seins gewiß. Als solches beansprucht es nicht nur eine bestimmte Verhaltung des Daseins, sondern dieses in der vollen Eigentlichkeit seiner Existenz. (p.265)
死はそのつどみずからに固有の死として”ある”のであり、この死を〈真なるものとみなす〉ことは、世界の内部で出会う存在者や、形式的な諸対象についてのいかなる確実性とも異なる種類のものであり、そうした確実性よりもさらに根源的なものである。というのはそれは、世界内存在というありかたを確実なものとするからである。そのために死を真とみなすことは、現存在にたいして”ある”特定の態度を決めることを要求するだけではなく、現存在が実存の完全な本来性のうちにあることを要求するのである。

 現存在は開示性であり、世界内存在です。すべての〈露呈されてあること〉が開示性に基づいており、死がそうした存在者と出会う世界内存在の不可能性の可能性であるなら、「死を〈真なるものとみなす〉ことは、世界の内部で出会う存在者や、形式的な諸対象についてのいかなる確実性とも異なる種類のものであり、そうした確実性よりもさらに根源的なもの」だと言えるでしょう。死を〈真なるものとみなす〉ことは、「世界内存在というありかたを確実なものとする」のです。
 先駆において現存在は初めて、みずからが追い越すことのできない全体性において、みずからにもっとも固有の存在を確信できるようになります。そして先駆に含まれるこの確実さは、体験や自我や意識などに直接に与えられたものの明証性と比較すると、根源的なものだと言うことができます。

Und zwar nicht deshalb, weil die zugehörige Erfassungsart nicht streng wäre, sondern weil sie grundsätzlich nicht das für wahr (erschlossen) halten kann, was sie im Grunde als wahr >da-haben< will: das Dasein, das ich selbst bin und als Seinkönnen eigentlich erst vorlaufend sein kann. (p.265)
こうした明証性が遅れをとるのは、それにそなわる把握様式に厳密さが欠けるからではなく、それによって真なるものとして「現に保持」しようと根底において望んでいるそのものを、すなわちわたし自身がそうで”ある”現存在を、また存在可能として本来的に先駆しつつありうる現存在を、”真とみなして”(開示して)、保持することが根本的にできないからである。

 この死の先駆だけにおいて、現存在は自己の死を「真なるものとみなす」ことにおいて、開示性としての自己のありかたを確信し、「真のうちに身を処する」(Part.53)ことができるようになるのです。

 第5の特徴は、先駆において現存在は、死の可能性が無規定性に直面することです。

Die eigenste, unbezügliche, unüberholbare und gewisse Möglichkeit ist hinsichtlich der Gewißheit unbestimmt. Wie erschließt das Vorlaufen diesen Charakter der ausgezeichneten Möglichkeit des Daseins? Wie entwirft sich das vorlaufende Verstehen auf ein gewisses Seinkönnen, das ständig möglich ist, so zwar, daß das Wann, in dem die schlechthinnige Unmöglichkeit der Existenz möglich wird, ständig unbestimmt bleibt? Im Vorlaufen zum unbestimmt gewissen Tode öffnet sich das Dasein für eine aus seinem Da selbst entspringende, ständige Bedrohung. (p.265)
このもっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことができず、確実な可能性は、その確実さについては”無規定な”可能性である。先駆は現存在の傑出した可能性にそなわるこの性格をどのように開示するだろうか。先駆しつつ理解することは、不断に可能であるようなある確実な存在可能に向かって、どのようにみずからを投企するのだろうか。しかもこの実存の端的な不可能性が、〈いつ〉可能になるかは、不断に無規定なままにとどまるのである。確実でありながら無規定な死へと先駆することで、現存在はみずからの〈そこに現に〉そのものから生まれてくる絶えざる”脅威”に、みずからを開いているのである。

 現存在は死の可能性が無規定なものであることに直面して、単独化され、自己の死を自己に固有なものとして引き受けることを強いられます。そして現存在はこの死への直面によって、不安に駆られるのでした。この不安が、死への先駆によってさらに明確なものとして登場します。というのも「確実でありながら無規定な死へと先駆することで、現存在はみずからの〈そこに現に〉そのものから生まれてくる絶えざる”脅威”に、みずからを開いている」ことになるからです。

Das Sein zum Ende muß sich in ihr halten und kann sie so wenig abblenden, daß es die Unbestimmtheit der Gewißheit vielmehr ausbilden muß. Wie ist das genuine Erschließen dieser ständigen Bedrohung existenzial möglich? Alles Verstehen ist befindliches. Die Stimmung bringt das Dasein vor die Geworfenheit seines >daß-es-da-ist<. Die Befindlichkeit aber, welche die ständige und schlechthinnige, aus dem eigensten vereinzelten Sein des Daseins aufsteigende Bedrohung seiner selbst offen zu halten vermag, ist die Angst. (p.265)
〈終わりに臨む存在〉はこの脅威のうちにとどまらねばならないのであり、それを遮断してはならず、むしろ確実性の無規定性を完全なものに作りあげていかねばならないのである。この絶えざる脅威を真正に開示することは、実存論的にどのようにして可能になるのだろうか。ところですべての理解は情態的な理解である。現存在は気分によって、みずからの「現存在がそこに現に存在しているという事実」の示す被投性に直面させられる。”しかし端的で不断の脅威が、現存在のもっとも固有な単独になった存在から立ちのぼってくるのであり、その脅威をそのままでみずからに開いたまま保持することができる情態性は、不安である”。

 死へと先駆する現存在は、〈死に臨む存在〉として、この脅威のうちにとどまりながら、「むしろ確実性の無規定性を完全なものに作りあげていかねばならない」のです。そのために自己の絶対的な孤独を感じながら、不安という根本的な情態性のうちに存在しつづけなければなりません。
 不安のうちで現存在は、みずからの実存の不可能性の可能性の前に立たされています。不安が開示するのは、現存在のもっとも極端な存在可能です。現存在は先駆することでみずからの存在可能の全体性を確実なものとします。そして「すべての理解は情態的な理解である」のですから、みずからを根拠とする自己理解には、不安という根本的な情態性が属することになります。死への先駆は、不安という情態性において死の可能性を理解し、その可能性にたいして不断にみずからを開いたままにしておくことで、確実性の無規定性を完全なものにするのです。

 このようにハイデガーは、死の実存論的な考察における5つの特徴を確認しながら、死への先駆においてこれら5つの特徴が、現存在の開示性としてのありかたによってさらに強められることを明らかにしてきました。現存在が自己の死にたいして向かう姿勢は、他者の死を目撃するようなものではありえず、自己の死の可能性へと先駆することでしかありえません。そのため死の先駆は、世界の事物を目撃するような確実さとは明確に異なる「真とみなすこと」に支えられているのです。〈死に臨む存在〉の特徴は、次のように概括されます。

Der Charakteristik des existenzial entworfenen eigentlichen Seins zum Tode läßt sich dergestalt zusammenfassen: Das Vorlaufen enthüllt dem Dasein die Verlorenheit in das Man-selbst und bringt es vor die Möglichkeit, auf die besorgende Fürsorge primär ungestützt, es selbst zu sein, selbst aber in der leidenschaftlichen, von den Illusionen des Man gelösten, faktischen, ihrer selbst gewissen und sich ängstenden Freiheit zum Tode. (p.266)
このように、実存論的に投企された本来的な〈死に臨む存在〉の性格は、次のように要約することができるだろう。”先駆することで現存在に、みずからが世人自己のうちに自己喪失していることをあらわにする。そして現存在は先駆によって、配慮的な気遣いに基づいた顧慮的な気遣いに第1義的に依拠することなく、自己自身でありうる可能性に直面させられる。この自己自身とは、世人の幻想から解放され、情熱的で、事実的で、みずからを確信し、不安にさらされた〈死への自由〉のうちにある自己自身なのである”。

 死への先駆によって、現存在は「実存論的に投企された本来的な〈死に臨む存在〉」となります。現存在は自己の死に直面することで、「”みずからが世人自己のうちに自己喪失していること”」を自覚することができ、それによって自己の真の可能性と向き合うことができるからです。この自己をハイデガーは、これまでの5つの特徴をふまえながら、「”この自己自身とは、世人の幻想から解放され、情熱的で、事実的で、みずからを確信し、不安にさらされた〈死への自由〉のうちにある自己自身なのである”」と要約します。
 第1の特徴によって、現存在が自己を世人から切り離されて存在していることを認識します。「”世人の幻想から解放され”」とは、このことを意味します。
 第2の特徴によって、現存在は他なる現存在との絆から解放されて、「本来的に自己自身として存在する」ようになり、そして「第1義的に自己のもっとも固有な存在可能に向かって投企」することができるようになります(Part.54)。「”情熱的で”」とは、現存在が自己の死の可能性に先駆することで、自分の生涯において実現すべき重要な可能性に向けて専心することができるようになり、その実現に情熱を傾けることができるようになることを意味していると考えることができるでしょう。
 第3の特徴によって、現存在は死への先駆によって自己の追い越すことのできない可能性としての死に直面し、「偶然に押し寄せてくるさまざまな可能性のうちに自己喪失することから解放される。そしてこれによって、追い越すことのできない可能性の手前にあるさまざまな事実的な可能性を初めて本来的に理解し、選択することができるようになる」のでした(同Part)。「”事実的で”」という規定は、このことを意味します。
 第4の特徴によって、現存在は自己の死の確実性を確信するようになり、自己の死の確実さという真理のうちに存在するようになります。現存在は死へと先駆することで、自己の喪失から立ち戻り、自己についての確信を強めます。「”みずからを確信し”」とは、このことを意味します。
 第5の特徴によって、現存在は死への不安が、現存在の実存の源泉そのものであることを自覚するようになります。現存在は死ぬものであるからこそ、実存することができるのであり、現存在は実存するからこそ、落命するのでも息絶えるのでもなく、死ぬことができるのです。そして同時に現存在は、〈死に臨む存在〉としてつねにこの死への脅威に直面しつづけるのであり、本質的に不安な存在となります。「”不安にさらされた〈死への自由〉のうちにある自己自身なのである”」という規定は、このことを意味しています。

 この死への先駆によって、現存在の実存と自由についてさらに深く掘り下げられました。しかし、この死への先駆がどのようにして行われるのかは、まだ明らかにされていません。この死への先駆が不安によって刻印されており、不安を本質的な特徴としていることが示されただけです。現存在はどのようにして死へと先駆けるのか、この不安はどのようにして生まれるのかは、まだ明らかではないのです。
 これまでハイデガーは、〈死に臨む存在〉にかかわる死という現存在のもっとも極端な可能性について、その内容を十分に特徴づけてきました。そして先駆がこの死を〈可能なもの〉として露呈し、展開し、保持するはたらきをしていることも示されてきました。

Die existenzial entwerfende Umgrenzung des Vorlaufens hat die ontologische Möglichkeit eines existenziellen eigentlichen Seins zum Tode sichtbar gemacht. Damit taucht aber dann die Möglichkeit eines eigentlichen Ganzseinkönnens des Daseins auf - aber doch nur als eine ontologische Möglichkeit. (p.266)
このように実存論的に投企しながら先駆のありかたを画定することによって、実存的で本来的な〈死に臨む存在〉のもつ”存在論的な”可能性が明らかにされたのである。これによってさらに、現存在の本来的な〈全体的な存在可能〉もまた浮かび上がってきたー”ただし、たんに存在論的な可能性としてにすぎないが”。

 死への先駆によって、「現存在の本来的な〈全体的な存在可能〉もまた浮かび上がってきた」のはたしかですが、それは「”たんに存在論的な可能性としてにすぎない”」と指摘されています。たしかに先駆の実存論的な投企は、すでに獲得しておいた現存在の諸構造に依拠して行われるのであり、現存在に、みずからこの可能性に向かって自己を投企させます。この際、現存在に何か実存の理想を提示して、外から強制したわけではありません。

Und trotzdem bleibt doch dieses existenzial >mögliche< Sein zum Tode existenziell eine phantastische Zumutung. Die ontologische Möglichkeit eines eigentlichen Ganzseinkönnens des Daseins bedeutet solange nichts, als nicht das entsprechende ontische Seinkönnen aus dem Dasein selbst erwiesen ist. Wirft sich das Dasein je faktisch in ein solches Sein zum Tode? Fordert es auch nur aus dem Grunde seines eigensten Seins ein eigentliches Seinkönnen, das durch das Vorlaufen bestimmt ist? (p.266)
それでもこの実存論的に「可能な」〈死に臨む存在〉は、実存的にはまだ空想的な無理な要求にすぎない。現存在の本来的な〈全体的な存在可能〉が存在論的に可能であることが示されたとしても、現存在のうちに、それに対応した存在者的な存在可能があることが証明されないかぎり、意味のないことである。現存在はそのつど事実的に、こうした〈死に臨む存在〉に向かってみずからを投じることがあるのだろうか。現存在は、先駆によって規定されているような本来的な存在可能を、みずからのもっとも固有な存在の根拠だけからでも、”要求する”ことがあるのだろうか。

 このようにして、ここで新たな問いが生まれます。第1の問いは、現存在のうちに、こうした死への先駆によって可能となる全体的な存在可能を実現するような存在可能がありうるのだろうかという問いです。死への先駆が現存在の存在可能の全体性を実現するとしても、それはいかなる根拠もなしに可能となるものではないでしょう。あらかじめ現存在のうちに、それを可能にするものが存在していなければなりません。それはどのようなものなのでしょうか。
 第2の問いは、現存在が「そのつど事実的に、こうした〈死に臨む存在〉に向かってみずからを投じることがあるのだろうか」という問いです。わたしたちは実際に、どのような場合に、死への先駆を実行するのでしょうか。
 第3の問いは、「現存在は、先駆によって規定されているような本来的な存在可能を、みずからのもっとも固有な存在の根拠だけからでも、”要求する”ことがあるのだろうか」という問いです。わたしたちはどのような理由で、死への先駆をみずからに求めるのでしょうか。
 これら3つの問いはどれも、現存在はどのようにして死へと先駆するのかという問いを軸として形成されたものです。これらの問いに答えるためには、予備的な問いが必要になるとハイデガーは考えています。

Vor der Beantwortung dieser Fragen gilt es nachzuforschen, inwieweit überhaupt und in welcher Weise das Dasein aus seinem eigensten Seinkönnen her Zeugnis gibt von einer möglichen Eigentlichkeit seiner Existenz, so zwar, daß es diese nicht nur als existenziell mögliche bekundet, sondern von ihm selbst fordert. (p.267)
これらの問いに答える前に探究しておくべきことがある。現存在は”そもそも”、みずからの本来的な存在可能のうちから、みずからの実存に可能な”本来性”をどこまで、そしてどのような方法によって、”証しする”のだろうか。しかもこれは”実存的に”可能なものとして告げられるだけでなく、みずからに”要求する”ものでなければならないだろう。

 予備的な問いとは、現存在がこのように実存的に自己の死へと先駆するためには、現存在がその「可能的な本来性」のうちに存在しているのでなければならないが、そのような本来性を証すことができるだろうか、そしてそこにおいて証されたものを現象学的にあらわにすることができるだろうか、という問いです。

Die schwebende Frage nach einem eigentlichen Ganzsein des Daseins und dessen existenzialer Verfassung wird erst dann auf probehaltigen phänomenalen Boden gebracht sein, wenn sie sich an eine vom Dasein selbst bezeugte mögliche Eigentlichkeit seines Seins halten kann. Gelingt es, eine solche Bezeugung und das in ihr Bezeugte phänomenologisch aufzudecken, dann erhebt sich erneut das Problem, ob das bislang nur in seiner ontologischen Möglichkeit entworfene Vorlaufen zum Tode mit dem bezeugten eigentlichen Seinkönnen in einem wesenhaften Zusammenhang steht. (p.267)
現存在の本来的な全体存在と、その実存論的な機構についてのわれわれの問いは、まだ答えられないままである。これらの問いを吟味に耐える現象的な地盤の上に据え直す必要があるのだが、そのためには現存在がみずから現存在の存在の可能な本来性を証しすること、そしてこれらの問いをこうした可能的な本来性に依拠させることが必要である。そしてこのような可能的な本来性が証され、そこにおいて証されたものを現象学的にあらわにすることができれば、そこで新たな問題が発生してくる。それは”これまではたんにその〈存在論的な〉可能性において描かれてきた死への先駆が、そこで〈証された〉本来的な存在可能と、何らかの本質的な関連のうちにあるかどうか”という問いである。

 以下の第2章では、良心の呼び掛けという概念を軸として、これらの問いに答えることになります。


 第53節は以上になります。この節は比較的長く、内容も難解な節であったと思いますが、いかがでしたでしょうか。ご質問等ございましたら、お気軽にコメントしていただければと思います。次回から第2章に入っていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?