『存在と時間』を読む Part.37

  第38節 頽落と被投性

Gerede, Neugier und Zweideutigkeit charakterisieren die Weise, in der das Dasein alltäglich sein >Da<, die Erschlossenheit des In-der-Welt-seins ist. Diese Charaktere sind als existenziale Bestimmtheiten am Dasein nicht vorhanden, sie machen dessen Sein mit aus. In ihnen und in ihrem seinsmäßigen Zusammenhang enthüllt sich eine Grundart des Seins der Alltäglichkeit, die wir das Verfallen des Daseins nennen. (p.175)
世間話、好奇心、曖昧さは、現存在が日常的にみずからの「そこに現に」を存在しているありかた、すなわち世界内存在の開示性を特徴づける性格である。これらの性格は、現存在にそなわる実存論的な規定性であるから、そのあたりに眼前的に存在するものではなく、現存在の存在をともに構成する働きをしている。これらの性格において、さらにこれらの性格のうちにある存在固有の連関において、日常性の存在の根本的な様式があらわになる。わたしたちはこれを現存在の”頽落”と呼ぶことにしよう。

 これまで「語り、理解、情態性」の存在様態が、どのように「世間話、好奇心、曖昧さ」のうちに頽落するかをみてきました。この節では、この「頽落」という概念について検討されることになります。頽落と訳す>Verfallen<は、動詞としては「崩壊する、衰える、陥る」を意味し、マイナスなイメージの強い語ですが、ここでは決して否定的な現象ではないのであり、現存在の「日常性の存在の根本的な様式」が頽落なのです。

Der Titel, der keine negative Bewertung ausdrückt, soll bedeuten: das Dasein ist zunächst und zumeist bei der besorgten >Welt<. Dieses Aufgehen bei ... hat meist den Charakter des Verlorenseins in die Öffentlichkeit des Man. Das Dasein ist von ihm selbst als eigentlichem Selbstseinkönnen zunächst immer schon abgefallen und an die >Welt< verfallen. (p.175)
この頽落という呼び名は、否定的な評価を表現したものではない。現存在がさしあたりたいていは配慮的に気遣っている「世界」の”もとに”存在していることを示すものである。このように「~のもとに」没頭しているということは、現存在は多くの場合、世人の公共性のうちに自己を喪失して存在するという性格をそなえているということである。現存在は本来的な自己の存在可能としての自己から、さしあたりつねにすでに脱落しており、「世界」へと頽落しているのである。

 世間話、好奇心、曖昧さによって共同相互存在に没頭していることが、世界に頽落しているということです。このとき「現存在は多くの場合、世人の公共性のうちに自己を喪失して存在する」と指摘されているように、現存在は非本来的に存在することになります。非本来性(>Uneigentlichkeit<)についてはすでに説明されてきたように、みずからに固有なもの(>Eigen<)を忘却していることです。本来性と非本来性は、現存在が「自己」であるかどうかによって規定されるのです(Part.8参照)。

Un- und nichteigentlich bedeutet aber keineswegs >eigentlich nicht<, als ginge das Dasein mit diesem Seinsmodus überhaupt seines Seins verlustig. Uneigentlichkeit meint so wenig dergleichen wie Nicht-mehr-in-der-Welt-sein, als sie gerade ein ausgezeichnetes In-der-Welt-sein ausmacht, das von der >Welt< und dem Mitdasein Anderer im Man völlig benommen ist. Das Nicht-es-selbst-sein fungiert als positive Möglichkeit des Seienden, das wesenhaft besorgend in einer Welt aufgeht. Dieses Nicht-sein muß als die nächste Seinsart des Daseins begriffen werden, in der es sich zumeist hält. (p.176)
しかし非本来的であるとか、本来的でないということは、あたかも現存在がこれらの存在様態において、みずからの存在をそもそも喪失してしまっているかのように、「本来的に存在しない」ことを意味するのではない。非本来性という言葉で語ろうとしているのは、〈もはや世界内存在ではない〉というようなことではない。非本来性とはそれどころか、顕著な形で世界内存在を構成しているのであり、世界内存在が「世界」と、世人として存在する他者の共同現存在とに、完全に心を奪われているありかたなのである。〈おのれ自身として存在しないこと〉は、存在者の”積極的な”可能性として働くのであり、その存在者は本質からして、配慮的な気遣いにおいて世界のうちに没頭しているのである。この”非としての存在”は、現存在のもっとも身近な存在様式として捉えるべきであり、現存在はたいていは、このようにして存在しているのである。

 非本来性とは、「〈おのれ自身として存在しないこと〉」であり、現存在はたいていは、このようにして存在しています。ではこうして存在している現存在が誰なのかということについては、これもすでに考察されてきたように「世人自己」である答えられます。現存在は「〈世界〉と、世人として存在する他者の共同現存在とに、完全に心を奪われ」ており、そうすることで本来的な(固有の)「自己」を喪失してます。むしろ世人としてのありかたは、現存在の日常性における存在様態であり、だから「非本来性という言葉で語ろうとしているのは、〈もはや世界内存在ではない〉というようなことではない」のです。頽落は、現存在が世界のうちでごくふつうに存在している存在様態を肯定的に考察する概念なのであり、「”積極的な”可能性」としてみるべきなのです。

 頽落は、現存在の根本的な機構について、実存論的に規定するものです。ハイデガーはこの頽落の存在様態をさらに解明するために、「動性」という観点から検討しようとします。頽落は、世間話、好奇心、曖昧さという3つの形態において分析され、非本来性の構造の実存論的な機構の分析として提示されました。この第38節の目的は、その実際の動きや働きを分析することであり、頽落の動的なありかたは「転落」と呼ばれることになります。
 「転落」という語はまた後の引用文で登場しますが、この頽落と転落という2つの用語について、ここで少し検討してしまいましょう。まず「頽落」ですが、これは先にも述べたように>Verfallen<という語を訳したものです。この語は前綴り>ver<と、「落ちる」と意味する>fallen<で作られていますが、この>ver<という語にはさまざまな意味があります。たとえば「~の状態になる」ということを意味することもあれば、「歪曲、失策、逆の行為」を意味することもあり、その場合、頽落は「落ちた状態になる」とか「何らかの歪曲によって落下した」というようなニュアンスをおびることになるでしょう。しかし先にも指摘したように、この歪曲や失策は世界内存在にとって根本的なものであり、たんなる欠陥としてのものではないということに注意しましょう。
 これに対して「転落」ですが、この語は>Absturz<を訳したものです。これは「上から下へ」を表す>ab<という前綴りと、「落ちる、倒れる、転ぶ」を意味する>sturzen<という動詞から作られた語です。ニュアンスとしては、本来の場所からそれよりも低い場所に「転落」したという感じでしょう。
 それでは現存在にとって、その本来の場所であった「上」とは何を意味しているのでしょうか。これについては「理解」について説明した節で語られており、そこでハイデガーは現存在の2つのありかたを明確に対比していました(Part.30参照)。第1のありかたは、「理解が第1義的には<そのための目的>のうちにみずからを投げいれ、現存在が現存在そのものとして実存している」場合であり、このとき理解は「本来的なものとして、おのれに固有の自己そのものから現れている」のでした。
 第2のありかたは、「理解が第1義的に世界の開示性のうちにある”ことができる”のであり、現存在がさしあたりたいていは、自分の世界のほうからみずからを理解しうる」場合であり、このとき理解は「非本来的な理解」となっているのでした。
 この現存在が〈そのための目的〉のうちにあるありかたが、本来的な実存のありかたです。それから「転落」した現存在は、実存する自己からではなく、「世界のほうからみずからを理解する」非本来的な理解のありかたのうちに頽落しているのです。この実存の本来性から頽落の非本来性への「転落」を、ハイデガーは「動性」という概念で考察しようとするのです。

 動性は4つの特徴によって分析されます。第1の動性は「誘惑」です。

Das Gerede ist die Seinsart des Miteinanderseins selbst und entsteht nicht erst durch gewisse Umstände, die auf das Dasein >von außen< einwirken. Wenn aber das Dasein selbst im Gerede und der öffentlichen Ausgelegtheit ihm selbst die Möglichkeit vorgibt, sich im Man zu verlieren, der Bodenlosigkeit zu verfallen, dann sagt das: das Dasein bereitet ihm selbst die ständige Versuchung zum Verfallen. Das In-der-Welt-sein ist an ihm selbst versucherisch. (p.177)
世間話は共同相互存在そのものの存在様式であって、現存在に「外部から」影響する特定の状況のもとで初めて成立するものではない。すると現存在そのものが、世間話と公共的な解釈というありかたで、世人のうちで自己を喪失し、土台を喪失して頽落する可能性を、あらかじめみずからに与えていることになる。すなわち現存在は頽落する不断の誘惑をみずから準備しているのである。世界内存在は、おのずと”誘惑的な”ものなのである。

 世間話と、そのうちに含まれる公共的な解釈は、共同相互存在のうちに構成されるものであり、共同相互存在から分離してそれだけで存在するものではありません。世間話は「現存在に〈外部から〉影響する特定の状況のもとで初めて成立するものではない」のです。すると、現存在の日常的な様態は、この世間話に没頭しているというありかたなのであるから、現存在のうちには、すでにみずから頽落しようとする傾向が存在していることになります。「現存在は頽落する不断の誘惑をみずから準備している」のです。

 第2の動性は「安らぎ」です。

Gerede und Zweideutigkeit, das Alles-gesehen und Alles-verstanden-haben bilden die Vermeintlichkeit aus, die so verfügbare und herrschende Erschlossenheit des Daseins vermöchte ihm die Sicherheit, Echtheit und Fülle aller Möglichkeiten seines Seins zu verbürgen. Die Selbstgewißheit und Entschiedenheit des Man verbreitet eine wachsende Unbedürfigkeit hinsichtlich des eigentlichen befindlichen Verstehens. Die Vermeintlichkeit des Man, das volle und echte >Leben< zu nähren und zu führen, bringt eine Beruhigung in das Dasein, für die alles >in bester Ordnung< ist, und der alle Türen offenstehen. (p.177)
世間話と曖昧さ、そして〈すべてを見ており、すべてを理解している〉という態度が、現存在に次のように誤解させるのである。すなわちこのように自分に手近にもたらされた強力な開示性は、現存在の存在のあらゆる可能性の確実さ、真正さ、完全さを現存在に保証してくれるに違いないと思い込んでしまうのである。世人の自己確信の強さと決然とした態度のために、本来の情態性について理解する必要などはないという気持ちが強くなるのである。世人は、充実した真正の「人生」を育み、送っていると思い込んでいるために、現存在のうちにある”安らぎ”をもたらす。そのことですべては「順調に進んでいる」のであり、この安らぎのうちですべての門戸が開かれていると、現存在に思わせるのである。

 現存在はみずから頽落すべく自己を誘惑するのですが、その誘惑によって導かれた頽落のありかたのうちに、現存在は安らいでとどまります。「世人は、充実した真正の〈人生〉を育み、送っていると思い込んでいるために、現存在のうちにある”安らぎ”をもたらす」のです。

 第3の動性は「疎外」です。

Diese Beruhigung im uneigentlichen Sein verführt jedoch nicht zu Stillstand und Tatenlosigkeit, sondern treibt in die Hemmungslosigkeit des >Betriebs<. Das Verfallensein an die >Welt< kommt jetzt nicht etwas zur Ruhe. Die versucherische Beruhigung steigert das Verfallen. In der besonderen Rücksicht auf die Daseinsauslegung kann jetzt die Meinung aufkommen, das Verstehen der fremdesten Kulturen und die >Synthese< dieser mit der eigenen führe zur restlosen und erst echten Aufklärung des Daseins über sich selbst. Vielgewandte Neugier und ruheloses Alles-kennen täuschen ein universales Daseinsverständnis vor. Im Grunde bleibt aber unbestimmt und ungefragt, was denn eigentlich zu verstehen sei; es bleibt unverstanden, daß Verstehen selbst ein Seinkönnen ist, das einzig im eigensten Dasein frei werden muß. In diesem beruhigten, alles >verstehenden< Sichvergleichen mit allem treibt das Dasein einer Entfremdung zu, in der sich ihm das eigenste Seinkönnen verbirgt. Das verfallende In-der-Welt-sein ist als versuchend-beruhigendes zugleich entfremdend. (p.177)
しかし非本来的な存在におけるこうした〈安らぎ〉は、静止や活動の停止へと誘うものではなく、それとは反対に、とめどない「活動」へと現存在を駆り立てる。「世界」に頽落した存在は、そこで休息することはない。誘惑的な安らぎは、頽落を”深める”。とくに現存在の解釈に関連して、きわめて異質な諸文化を理解し、みずからの文化とそれらを「総合」することによって、現存在がみずからについて、あますところなく、しかも初めて真正に解明できるようになるという見解に導かれることもある。多方面にわたる好奇心と、落ち着きなく何でも知ろうとすることが、現存在についての普遍的な了解が可能になるという思い違いをもたらすのである。しかし本来”何を”理解すべきかということについては、根本的に規定されないままであり、問われないままである。理解そのものが1つの存在可能であること、この存在可能をただ”もっとも固有な”現存在において解放しなければならないことが、理解されていないのである。安らぎをえて、すべてを「理解しながら」、自分とそれらのすべてを比較する営みにおいて、現存在は疎外へと追いやられ、もっとも固有な自己の存在可能は隠蔽されてしまうのである。頽落しつつある世界内存在は、誘惑し、安らぎをもたらすと同時に”疎外する”ものである。

 現存在が手にいれる「安らぎ」は、現存在の活動を停止させるものではなく、他なる文化、自己とは異質な文化を理解することで、自己についての理解を深めることができると思い違いをすることで生まれるものでもあります。「多方面にわたる好奇心と、落ち着きなく何でも知ろうとすることが、現存在についての普遍的な了解が可能になるという思い違いをもたらす」のです。しかしこの好奇心は、「存在可能をただ”もっとも固有な”現存在において解放しなければならないこと」を理解していません。そのために「現存在は疎外へと追いやられ、もっとも固有な自己の存在可能は隠蔽されてしまう」ことになります。これまでの3つの動性をまとめると、「頽落しつつある世界内存在は、誘惑し、安らぎをもたらすと同時に”疎外する”ものである」と要約できます。

 第4の動性は「自己への囚われ」です。

Diese Entfremdung wiederum kann aber nicht besagen, das Dasein werde ihm selbst faktisch entrissen; im Gegenteil, sie treibt das Dasein in eine Seinsart, der an der übertriebensten >Selbstzergliederung< liegt, die sich in allen Deutungsmöglichkeiten versucht, so daß die von ihr gezeigten >Charakterologien< und >Typologien< selbst schon unübersehbar werden. Diese Entfremdung, die dem Dasein seine Eigentlichkeit und Möglichkeit, wenn auch nur als solche eines echten Scheiterns, verschließt, liefert es jedoch nicht an Seiendes aus, das es nicht selbst ist, sondern drängt es in seine Uneigentlichkeit, in eine mögliche Seinsart seiner selbst. Die versuchend-beruhigende Entfremdung des Verfallens führt in ihrer eigenen Bewegtheit dazu, daß sich das Dasein in ihm selbst verfängt. (p.178)
この疎外ということも、現存在が事実的に自己から引き離されていることを語るものではありえない。反対に、この疎外によって現存在は、行き過ぎた「自己分析」を重視するという存在様式のうちに駆り立てられる。この自己分析は、あらゆる可能な解釈によって分析を試みるのであり、こうした分析によって生みだされた「性格学」や「類型学」だけでも、すでにすべてを見通すことができないほどに広範なものになっている。この疎外は現存在からその本来性と可能性を”閉ざす”ものであり、その真正の挫折の可能性すら閉ざしてしまうのである。しかしこうした疎外によって、現存在はみずからと異なる存在者に引き渡されるわけではなく、現存在を”みずからに”可能な存在様式である非本来性へと追い込むのである。頽落は、誘惑的で安らぎをもたらすことによって、疎外する。この疎外の独特な動性によって、現存在は自己のうちに”囚われて”しまうのである。

 現存在は疎外へと追いやられますが、「この疎外によって現存在は、行き過ぎた〈自己分析〉を重視するという存在様式のうちに駆り立てられる」と言われています。これについてはハイデガーは、「性格学」や「類型学」といった個性心理学的な分析の批判を暗示しているのであり、これらは真の自己に向かうものではなく、「現存在を”みずからに”可能な存在様式である非本来性へと追い込む」ものであると指摘します。

Die aufgezeigten Phänomene der Versuchung, Beruhigung, der Entfremdung und des Sichverfangens (das Verfängnis) charakterisieren die spezifische Seinsart des Verfallens. Wir nennen diese >Bewegtheit< des Daseins in seinem eigenen Sein den Absturz. Das Dasein stürzt aus ihm selbst in es selbst, in die Bodenlosigkeit und Nichtigkeit der uneigentlichen Alltäglichkeit. Dieser Sturz aber bleibt ihm durch die öffentliche Ausgelegtheit verborgen, so zwar, daß er ausgelegt wird als >Aufstieg< und >konkretes Leben<. (p.178)
ここに示した誘惑、安らぎ、疎外、自己への囚われ(拘泥)という現象は、頽落に特有な存在様式の性格を示すものである。現存在がその固有の存在において示すこの「動性」を、”転落”と呼ぶことにしよう。現存在は自分自身で自己自身のうちへ、非本来的な日常性の土台喪失と虚無性のうちへと転落するのである。しかし公共的な解釈のありかたのために、現存在にはこの転落が隠されているので、むしろそれを「向上」であり「具体的な生」であると解釈してしまうのである。

 これが、先に語の意味を説明した「転落」です。現存在はこれまでに指摘された誘惑、安らぎ、疎外、自己への囚われという現象において、「自分自身で自己自身のうちへ、非本来的な日常性の土台喪失と虚無性のうちへと転落する」のです。

Die Bewegungsart der Absturzes in die und in der Bodenlosigkeit des uneigentlichen Seins im Man reißt das Verstehen ständig los vom Entwerfen eigentlicher Möglichkeiten und reißt es hinein in die beruhigte Vermeintlichkeit, alles zu besitzen bzw. zu erreichen. Dieses ständige Losreißen von der Eigentlichkeit und doch immer Vortäuschen derselben, in eins mit dem Hineinreißen in das Man charakterisiert die Bewegtheit des Verfallens als Wirbel. (p.178)
現存在は、世人のもとでの非本来的な存在の土台喪失へと転落し、そしてこうした土台喪失のうちへと転落する。そしてその転落の動態によって、現存在の理解は本来的な可能性を投企することから不断に引き離され、すべてを所有し、すべてを実現できるという気楽な思い込みのうちに引きずり込まれる。このように不断に本来性から引き離されながら、しかもそれこそが本来的なものであるという思い込みだけはつねに作りだされることが、現存在を世人へと引きずり込むのであり、この頽落の動性は、”渦巻き”という性格をおびている。

 現存在は頽落のうちで世界へと転落しながら、「その転落の動態によって、現存在の理解は本来的な可能性を投企することから不断に引き離され、すべてを所有し、すべてを実現できるという気楽な思い込みのうちに引きずり込まれ」ます。この「引きずり込み」は「”渦巻き”」と呼ばれています。この節では頽落の動性に注目してきましたが、その動性とはこの渦巻きという概念で表すことができるのです。

 頽落は世界内存在を実存論的に規定しているだけではなく、この〈渦巻き〉は同時に、現存在の被投性の性格を浮き彫りにします。現存在の事実性には、現存在が現存在であるかぎり、〈投げられたもの〉でありつづけ、世人の非本来性の〈渦巻き〉に巻き込まれているということが含まれています。
 しかし、現存在は投げ込まれ存在として、頽落しながら非本来性の様態にありながらも、世界内存在としてみずからにかかわる存在であり続けます。先にも述べたように、非本来性というありかたは自己を喪失していることであり、決して自己とはまったく違うものになることではないからです。ですから、頽落が自己喪失を生みだすからといって、自己にかかわる存在者である現存在の実存性を否定するようなことにはなりません。
 もし現存在を孤立した自我や主観であると想定する場合、つまり現存在は点のような自己であり、非本来性ということで、この点から離れてゆくと考えるなら、世界は客観となるでしょう。そして世界への頽落とは、存在論的には世界内部的な存在者のありかたで、眼前的に存在していることだと解釈されてしまうでしょう。
 しかし現存在の存在が世界内存在であるかぎり、頽落という内存在の存在様式は、むしろ現存在の実存性を証拠だてるものとなっています。

Das Dasein kann nur verfallen, weil es ihm um das verstehend-befindliche In-der-Welt-sein geht. Umgekehrt ist die eigentliche Existenz nichts, was über der verfallenden Alltäglichkeit schwebt, sondern existenzial nur ein modifiziertes Ergreifen dieser. (p.179)
現存在が頽落することが”できる”のは、現存在が理解しつつ情態的に、世界内存在にかかわる存在である”ため”なのである。逆に言えば、”本来的な”実存とは、頽落した日常性の上部に宙に浮いているようなものではなく、実存論的には、この日常性がたんに変容されて捉えられたものにすぎない。

 だから頽落は、宗教的な「堕落」とも関係ありません。「転落」ということは、何か人間が完全な状態にあったところから、不完全な状態へと落ちてきたというようなことではないのです。そもそもわたしたちは、そうした人間の完全な状態というものを知らないし、知ることもできないでしょうから、こうした想定については存在論的に解釈することはできないのです。
 同様に、頽落が道徳的に劣った性格であると考えて、人間が進歩すれば是正できることができるなどとも考えてはいけません。

Das Phänomen des Verfallens gibt auch nicht so etwas wie eine >Nachtansicht< des Daseins, eine ontisch vorkommende Eigenschaft, die zur Ergänzung des harmlosen Aspekts dieses Seienden dienen mag. Das Verfallen enthüllt eine wesenhafte ontologische Struktur des Daseins selbst, die so wenig die Nachtseite bestimmt, als sie alle seine Tage in ihrer Alltäglichkeit konstituiert. (p.179)
頽落という現象は、現存在の「夜の顔」といったものを示すようなものではない。現存在という存在者の無害な概観を補足するのに役立つような存在者的に現前する特性を示したものではないのである。頽落があらわにするのは、現存在そのものに”本質的にそなわる”存在論的な構造である。この構造は現存在のいわば〈夜の側面〉を規定するものではなく、現存在をその日常性において、現存在の〈真昼の〉ありかたのすべてを構成するのである。

 頽落とは、道徳性の進歩によって解消できるような欠陥ではなく、現存在の日常性のありかたそのものです。「頽落があらわにするのは、現存在そのものに”本質的にそなわる”存在論的な構造」であり、それは「現存在のいわば〈夜の側面〉を規定するものではなく、現存在をその日常性において、現存在の〈真昼の〉ありかたのすべてを構成する」ものなのです。

 世界のうちで現存在は、有意義性と道具の適材適所性にたいする配慮や、他者への顧慮のうちに巻き込まれています。この動性の考察は次の2つのことを明確に示そうとしています。
 第1は、世界内存在は、現存在にとって本質的なものですが、それは本来的なありかたからは「転落」したものであるということです。世界のうちに生きる世界内存在のありかたは、本来的なありかたから「落下」してきたありかたなのであり、それは現存在の本来的なありかたではないということになります。
 第2は、現存在の本質は世界内存在として存在することですが、その本質にはつねに渦巻きという運動性が刻印されているということです。この動性は、現存在は非本来的に存在しているということを明確に示すとともに、現存在はつねに本来的な存在可能に立ちかえることができることを示しています。この本来性への可能性が、本書においてこれから重要な意味をもつことになります。


 この節をもって第1篇第5章が完了しました。これまでと同様に、このnote執筆の参考にさせていただいたのは、光文社古典新訳文庫の中山訳の『存在と時間』です。第28節から第38節まではその4分冊目に収録されています。

 次回は第6章、現存在の存在としての気遣いです。

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