『存在と時間』を読む Part.21

 ここから第3章のC項になります。

C 環境世界の<まわり性>と現存在の「空間性」

 この項は、現存在について時間性という観点から考察するに先立って、その空間性を考察するという課題を遂行するものとなっています。これまで指摘されてきたように、人間についての考察は、眼前存在者のありかたに基づいて展開されることが多かったのでしたが、ハイデガーはこれを批判しながら、世界のうちに存在する事物の存在様式と現存在の存在様式を対比しながら、世界の世界性を規定しようとします。

Die Untersuchung der Räumlichkeit des Daseins und der Raumbestimmtheit der Welt nimmt ihren Ausgang bei einer Analyse des innerweltlich im Raum Zuhandenen. Die Betrachtung durchläuft drei Stufen: 1. die Räumlichkeit des innerweltlich Zuhandenen (§ 22), 2. die Räumlichkeit des In-der-Welt-seins (§ 23), 3. die Räumlichkeit des Daseins und der Raum (§ 24). (p.102)
現存在の空間性と、世界の空間的な規定性についての探究では、まず世界内部的に空間のうちに手元的に存在しているものの分析から始める。この探究は次の3つの段階で行われる。
1 世界内部的な手元存在者の空間性(第22節)
2 世界内存在の空間性(第23節)
3 現存在の空間性と空間(第24節)

 第1の段階では、「内部性」という存在性格をそなえた事物の空間性を、眼前存在者としてだらに詳細に考察します。
 第2の段階では、現存在の空間性について考察します。現存在の存在様式には、世界内部的な存在者のような空間性はそなわっていませんが、現存在もやはり空間において存在するものです。この段階では、現存在にとって本質的な空間性とはどのようなものであるかを明らかにします。
 第3の段階では、先の2つの段階を総合するものとして、現存在と事物の関係を、現存在の空間性と世界の事物の空間性との関係として考察します。その際とくに、眼前存在者の空間性は、現存在の世界性に基礎づけられていることが明らかにされます。

 それでは、第22節に入っていきましょう。

第22節 世界内部的な手元存在者の空間性

 現存在を取り囲むすべての事物は、現存在の日常的な生活のうちから眺めてみると、眼前存在者としてではなく、手元存在者として存在しています。部屋の中のさまざまな事物は、どれも人間が目的をもってそろえたものです。noteを書くパソコンや、コーヒーを飲むためのカップ、ドイツ語を調べるための辞書、机、椅子など、これらはある目的をそなえた道具として配置されています。
 私の部屋に飾ってある水晶はどうでしょうか。これは何かを製作するための道具というわけではありません。ですが、ただそこにあるだけのようにみえるこの水晶について、私はそれを誰からもらったのかを言うことができるし、それが私にとってどのような意味をもつものであるかも語ることができます。そうしたものは、地質学者が語るような視点からは述べられることがないものです。だからこの水晶もやはり、たんに眼の前に存在するような、自然科学的な視点で捉えられるような眼前存在者ではないのです。
 このように、世界のうちに存在する事物は、まず現存在にとっては何らかの目的や用途で使うべき道具であり、あるいはそれが手元にあることで、かつての記憶を呼び覚ますめじるしのようなものです。このような事物はどのような空間性をそなえているのでしょうか。

 この空間性の特徴は3つあります。第1の特徴は、それが置かれている場所は、現存在が配慮的な気遣いの目配りのうちでその場所に配置したものであり、その目配りのまなざしはすでに、それを使用する目的を考慮に入れていることです。刀匠が使用する槌は、鉄を打つという目的のために、適切な場所に配置されているでしょう。槌は本来の場所にあるべきものなのです。ですが、ときにはそれが散らかっていることもあるでしょう。槌が本来の場所になく、いつもとは異なるところに放っておかれていることもあるかもしれません。しかしそれは本来の場所に納めるべきものが、まだそこにあるというだけであり、空間の任意の位置にたんに現前しているというのとはまったく異なります。それは整頓しなければならないものなのです。この特徴は、道具などの事物が存在する空間を、現存在がどのようなまなざしで眺めているかという点に注目したものです。
 第2の特徴は、すべての道具は、この配慮的な気遣いの目配りのまなざしのもとで配置されているために、現存在にとってある「近さ」のうちにあるということです。

Inwiefern sind wir schon bei der Charakteristik des Zuhandenen auf dessen Räumlichkeit gestoßen? Es war die Rede vom zunächst Zuhandenen. Das besagt nicht nur das Seiende, das je zuerst vor anderem begegnet, sondern meint zugleich das Seiende, das >in der Nähe< ist. Das Zuhandene des alltäglichen Umgangs hat den Charakter der Nähe. Genau besehen ist diese Nähe des Zeugs in dem Terminus, der sein Sein ausdrückt, in der >Zuhandenheit<, schon angedeutet. Das >zur Hand< Seiende hat je eine verschiedene Nähe, die nicht durch Ausmessen von Abständen festgelegt ist. Diese Nähe regelt sich aus dem umsichtig >berechnenden< Hantieren und Gebrauchen. Die Umsicht des Besorgens fixiert das in dieser Weise Nahe zugleich hinsichtlich der Richtung, in der das Zeug jederzeit zugänglich ist. (p.102)
わたしたちは手元的な存在者の性格づけを行ってきたが、その際にこの存在者の空間性にすでにどこまで出会っていたのだろうか。わたしたちの考察では、”さしあたり”手元的に存在するものについて語ってきた。この意味するところは、この存在者は、そのつど他のものに先立って、”最初に”出会う存在者であるということであり、同時に「近いところにある」存在者であるということである。わたしたちが日常的に交渉する手元的な存在者には、”近さ”という性格がある。詳しく調べてみると道具のこの近さは、この道具の存在を示す述語である「手元存在性」という言葉そのものに含まれているのが分かる。「手元に」存在するものには、そのつど異なる近さがあるが、それぞれの近さは、そのものとの隔たりを測定して確認できるようなものではない。この近さは、配慮的な気遣いの目配りのうちで、「勘定にいれる」操作や使用によって規制されるものである。配慮的な気遣いの目配りは、このような形で近さのうちにあるものを見届けると同時に、いつでも手を伸ばせばその道具に届くような方向もまた、見届けているのである。

 こうした道具は手を伸ばせば届くような近い場所に、本質的に道具として設置され、整頓されているのであり、「わたしたちが日常的に交渉する手元的な存在者には、”近さ”という性格がある」のです。この特徴は、道具が現存在とどのような距離にあるかという点に注目したものです。
 第3の特徴は、このように現存在は自分に「近い」場所に、自分の生活の便宜を目指すまなざしのもとで、さまざまな道具を、距離を見計らって配置しているのであり、これによって自分の周囲に、1つの生活空間を作りだしているということです。それをハイデガーは「<辺り>」と呼びます。

Der Platz und die Platzmannigfaltigkeit dürfen nicht als das Wo eines beliebigen Vorhandenseins der Dinge ausgelegt werden. Der Platz ist je das bestimmte >Dort< und >Da< des Hingehörens eines Zeugs. Die jeweilige Hingehörigkeit entspricht dem Zeugcharakter des Zuhandenen, das heißt seiner bewandtnismäßigen Zugehörigkeit zu einem Zeugganzen. Der platzierbaren Hingehörigkeit eines Zeugganzen liegt aber als Bedingung ihrer Möglichkeit zugrunde das Wohin überhaupt, in das hinein einem Zeugzusammenhang die Platzganzheit angewiesen wird. Dieses im besorgenden Umgang umsichtig vorweg im Blick gehaltene Wohin des möglichen zeughaften Hingehörens nennen wir die Gegend. (p.102)
場所とその場所の多様性を、事物が任意に眼前的に存在するどこでもよい場所と解釈してはならない。この場所は、ある道具がそのつど”そこに属するにふさわしい”特定の「あそこ」であり、「そこ」なのである。そのつど<そこに属するにふさわしい>というこの性格は、手元的な存在者の道具としての性格に対応したものであり、それがあるひとまとまりの道具の全体に、適材適所として所属していることに対応したものである。しかしこのように道具の全体が占める場所について<そこに属するにふさわしい>という性格があるのは、それが可能になるための条件として、その根底に全般的な<~への所属>ということがあるのであり、道具連関はこの<~への所属>のうちに、その場所の全体が割り当てられるのである。このように道具として<そこに属するにふさわしい>ものとしての<~への所属>は、すでに配慮的な気遣いによる交渉において、目配りによってあらかじめ視野に入れられているのであり、わたしたちはこれを<辺り>と名づけておく。

 すべての道具は、1つの道具連関を作りながら、「<そこに属するにふさわしい>」場所のうちに、「辺り」に配置されています。この第3の特徴の「辺り」は、さまざまな道具類が、現存在の生活の場でどのような”方面”あるいは”方角”に存在しているかに注目することで確認されるものです。第2の特徴の「近さ」は、現存在と道具との「距離」を問題にするものでしたが、この「辺り」は、道具が現存在にとってもつ「方向」を重視します。
 この距離を示す「近さ」と方向を示す「辺り」によって、現存在が生活する日常空間は1つの組織された場となり、「<身のまわり>」が形成されます。

>In der Gegend von< besagt nicht nur >in der Richtung nach<, sondern zugleich im Umkreis von etwas, was in der Richtung liegt. Der durch Richtung und Entferntheit - Nähe ist nue ein Modus dieser - konstituierte Platz ist schon auf eine Gegend und innerhalb ihrer orientiert. So etwas wie Gegend muß zuvor entdeckt sein, soll das Anweisen und Vorfinden von Plätzen einer umsichtig verfügbaren Zeugganzheit möglich werden. Diese gegendhafte Orientierung der Platzmannigfaltigkeit des Zuhandenen macht das Umhafte, das Um-uns-herum des umweltich nächstbegegnenden Seienden aus. (p.103)
「その辺りに」ということは、たんに「その方向に」ということでなく、その方向にあるものの圏域のうちにということである。場所は方向と遠隔性によって構成されるのであり、近さとはこの遠隔性の1つの様態にすぎないのである。そしてこの場所はすでに<辺り>を目指したものであり、この<辺り>のうちにあってその方向が定められているものである。目配りによって、意のままに利用できる道具立ての全体性のうちでさまざまな場所が指示で気、あらかじめみつけておけるようになるためには、この<辺り>のようなものが前もって露呈されている必要がある。この手元的な存在者の場所の多様性が、こうした<辺り>によって方向づけられることによって、環境世界的にわたしたちにもっとも身近に出会う存在者の<まわり性>が、そしてこうした存在者の<身のまわり>が作りだされるのである。

 現存在は1つの場や「身のまわり」で生活しているのであり、3次元の座標空間の中に存在しているわけではありません。もちろん自然科学的なまなざしから見ると、人間が存在している場所はこうした3次元の空間でしょうが、それは手元的に存在するものの空間性のうちにあって、まだ隠されたままです。手元的な「存在者は、そのつど他のものに先立って、”最初に”出会う存在者」であり、ハイデガーによれば、それは眼前的に存在するありかたに先行するのです。

 現存在は、すべての事物を自分の生活の便宜のために道具として使用する傾向があります。すでに水晶の例で述べたように、その傾向は自然に存在する事物にも及びます。その象徴的な例としてハイデガーがあげるのは太陽です。
 太陽は自然科学的な視点から見れば、銀河系に含まれる無数の恒星の1つであり、地球を惑星としてもつものというように捉えられます。しかし地球に住む人々にとっては、太陽は生活を営む上で重要な役割をはたしている事物です。
 太陽は光と熱を与えてくれます。これなしでは地球の生命は生きられないのであり、人間はこの太陽の与えてくれる便宜に基づいて、太陽をある種の道具として利用しています。人間は住宅を建設しますが、この住宅はその地域での太陽の場所をめじるしにして建てられます。住宅は南向きの日当たりのよい場所に好んで建設され、日当たりの悪い場所は、住宅に適さない場所として事務所や倉庫などにあてられることが多いでしょう。こうした建造物は、太陽の位置を「辺り」とすることで、それぞれに「そこに属するにふさわしい」ところ、<~への所属>が定められるのです。

 このように、現存在がある空間の中に存在していて、その空間のうちで自分の生活場所を作りだすというよりも、むしろ「辺り」としての方向にしたがって住宅が配置されるように、さまざまな場所に適材が適所に配置されるのです。現存在は空間の中にその場をみいだすのではなく、世界の「そこに属するにふさわしい」ところと手元的な存在者の連関にもとづいて、自分たちの生活の空間を自分の身のまわりに作りだしていきます。
 科学的な観点からみると、あるいはカントの認識論からみると、すべての人類に共通した抽象的な空間がまずあって、そのうちに人間が生きる環境世界が形成されるようにみえるかもしれません。しかし反対に、まずわたしたちの生きる世界のうちに、「辺り」としての空間が形成され、そこから抽象的な空間が考えだされたのです。

Die >Umwelt< richtet sich nicht in einem zuvorgegebenen Raum ein, sondern ihre spezifische Weltlichkeit artikuliert in ihrer Bedeutsamkeit den bewandtnishaften Zusammenhang einer jeweiligen Ganzheit von umsichtig angewiesenen Plätzen. Die jeweilige Welt entdeckt je die Räumlichkeit des ihr zugehörigen Raumes. Das Begegnenlassen von Zuhandenem in seinem umweltlichen Raum bleibt ontisch nur deshalb möglich, weil das Dasein selbst hinsichtlich seines In-der-Welt-seins >räumlich< ist. (p.104)
ある空間のようなものがまず与えられていて、その内部に「環境世界」が姿を現すのではない。むしろ環境世界に固有の世界性のもとに、目配りによって割り当てられたさまざまな場所からなるそのつどの全体の適材適所な連関が、その有意義性を示しながら構造化されているのである。それぞれの世界が、それに帰属する空間について、そのつど空間性を露呈する。わたしたちは手元的に存在するものに、それぞれに固有の環境世界的な空間において出会うが、この出会いが存在者的に可能となるのは、現存在自身がこの世界内存在というありかたのために「空間的」であるからにほかならない。

 こうした空間において現存在が手元的な存在者に出会うのも、「現存在自身がこの世界内存在というありかたのために<空間的>であるからにほかならない」のです。次節では、現存在の空間性に注目して考察が進められることになります。


 第22節は以上になります。それでは、また次回よろしくお願いします。

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