『存在と時間』を読む Part.60
第58節の続きです。
無であること、負い目を負っていることは、現存在の存在を規定する根本的な概念です。現存在の根拠のうちにはこのような否定性がそなわっているのであり、現存在は実存することにおいてすでに〈負い目ある存在〉です。
これは同時に、他者にたいしてもつねに〈負い目ある存在〉であるということです。わたしたちは生きているだけで、他者にたいして何らかの責任を負っているのです。他者が物質的あるいは精神的に苦しんでいるとき、わたしたちはその責任の一端を負っているのではないでしょうか。
先進国が豊かであるのは、後進国が貧しくあることによってであるという現代の世界の一面について考えてみましょう。日々の生活に必要なさまざまな安価な商品は、労働コストの低い国で働く低賃金の労働者たちの労働によって生産されたものであることが多いです。わたしたちが豊かであることは、他者の貧困によって初めて可能になっていることかもしれないのです。
他者が精神的に苦しんでいるときにも、わたしたちはその苦しみにたいしてまったく責任がないとは言えません。わたしたちの精神的な健康は、生活の安定と豊かさによって生まれたものであり、そうしたものを奪われたとき、わたしたちが同じように心的な苦悩から免除されるようになるとは考えられません。わたしたちの心的な健康は、他者の心的な苦悩の裏面であるかもしれないのです。
このように考えると、わたしたちは現存在することにおいて、すでに他者に負い目を負っていることになります。世界において現存在することは、まったく無辜であることはありえません。わたしたちはそのことに責任と負い目を負わずにいることはできないのです。
〈負い目〉は現存在の実存を根本的に規定するものであり、これを欠陥や欠落によるものと考えることはできません。それが悪であるとすれば、その悪は現存在のうちの欠如によってではなく、現存在の存在の積極性によって作りだされたものだと考えるべきでしょう。
伝統的な形而上学では、悪を善の欠如として考えてきました。こうした考え方において悪の概念の根底にあるのは、善というものを満月のように完全なものと想定しておいて、悪というものは、その完全性が欠如したものであると考えようとする思考方法です。これまでの考察からわかるように、これは眼前的な存在者の存在論から生まれたものです。欠如という概念は、実存する現存在には適用できないものです。だからこそ、現存在の「負い目」について考察する際には、欠如という概念を利用することはできないのです。
それではこのような善の欠如として悪ではなく、現存在にふさわしい道徳的な善悪の概念はどのようなものでしょうか。それはもちろん、実存する現存在の存在に基づいたものとなっているはずです。
現存在の存在は気遣いであり、現存在は実際に何らかの罪を犯したりして〈負い目〉を負うことがありうるだけでなく、その根底においてすでに負い目を負って存在しています。〈無であること〉が気遣いに本質的に含まれている以上、現存在が負い目ある存在であることそのものが、現存在が事実として〈負い目〉を負って実存することができるようになるための存在論的な条件なのです。ですから道徳的な善悪の概念が生まれるようになるのは、現存在のこの根源的な〈負い目ある存在〉からであって、その逆ではありえません。
例をあげて考えてみましょう。乱世において、ある人が戦士になることを望み、実際に戦士となり、数多くの敵を倒して英雄と呼ばれるようになったとします。しかしこの人は後に敵国に捕らえられ、捕虜になってしまいました。そこでみずからの罪を問われたこの人は、どのように弁明することができるのでしょうか。
この人はみずからの国を守るため、戦士となり、国が命じる敵を滅ぼしてきました。自分の行いは国のためであり、自分は国に従っただけだと主張します。自分は国の1つの戦力として、その運命にしたがったまでというこの人の主張は、たしかに嘘ではないですし、戦士として国に服従することそのものは咎められるべきことはありません。この主張は「負い目」という観点からみると、どのように判断できるでしょうか。
まず現存在は「負い目の根拠である」というこれまでも論点から考えてみましょう。この人は世界に被投された存在者であり、その存在を引き受けるしかない者です。乱世において戦士になることは、この人に開かれていた選択肢の1つでした。しかしこれは乱世に生まれるという被投性がもたらした受動的なありかたであると同時に、実際に戦士になると決めたその人の能動的な選択の結果です。乱世に生まれても、戦士の道を選ばない人もいるでしょう。この人は自分の周りの環境と運命のうちに流されながらも、それぞれの機会ごとにみずから選択して、英雄と呼ばれるような戦士になっていったのです。その意味でこの人は、国の1つの「戦力」として、その命令に従っていた完全に受動的な存在ではありませんでした。「戦力」であるということは、みずからは自由に選択する意志をまったくもたないということ、すなわち人間として実存していないということです。この人が、自分が国の戦力にすぎなかったと主張して責任を逃れようとしても、そうした主張は自分が選択する力のある実存する現存在であることを否定することです。この人はいつでも、戦士であることをやめるという可能性に開かれていたのであり、実際にそれを選ぶこともできたはずです。この人が他国に侵略し、そこで多くの人を殺めたのは、「戦力」としてそのように行動したのではなく、みずからの意志で選択して、そのような人間として振る舞ったのです。
環境に規定された受動的な存在者として「負い目ある存在」であると同時に、みずからの選択によってその責任を引き受けたという意味で「負い目ある存在」であるという2重の意味に基づいて、その人の行動の善悪が判断されます。戦士として国の命じるところに従うことそのものは、道徳的に善でも悪でもないでしょう。しかし「負い目ある存在」としての現存在は、戦士としてのみずからがもたらす結果を引き受ける責任があるのであり、そこにおいてその選択をしたことの善悪が問われるのです。ですから、戦士になるという選択そのものが、その人の道徳性を決定したということになります。そして戦士になるかどうかという選択は、自分の責任と自分の非力をどこまでうけいれるかという態度によって規定されています。その意味では、戦士になるということがもたらす「負い目」とその帰結について考えることをせず、あたかも意志のない戦力として求められる行為をなしつづけたことに咎があるのです。
しかし、戦士になることを選択することの「負い目」については、乱世においてはふつう認識されることではありません。戦いに満ちている時代においては、戦士であることがもたらす道徳的な帰結について認識することは、とき困難でありえます。それはどうしてでしょうか。
それは世人がそのことを認識することを妨げるからです。乱世においては、戦士になり武功を立てるということは、世間的に名誉のあることです。そのような優れた戦士は英雄であり、その社会において好ましいことです。世人はそのように語るのです。
この人が実存する現存在として、みずからを負い目ある存在者として認識し、自己にもっとも固有な存在可能に直面していたならば、そのような国家の戦力となることは、実存を放棄して道具的な存在者になることであると自覚できたでしょうし、そのような選択を拒否したかもしれません。しかし社会において人々は、世人の言葉に耳を傾けます。敵国に侵略するとき、この人は良心の声にたいして耳を塞ぐ必要はなかったでしょう。それはこの人を尊敬する人々が、世人としてこの人を英雄と呼び、戦士としてのこの人のありかたが名誉あるものであると語っていたからであり、その大きな声が良心の声を覆っていたからです。
そのように世人は人々に、みずからが〈負い目ある存在〉であることを認識することを妨げます。
そのときに良心の呼び掛けが大切な役割を果たすことになります。現存在がみずから〈負い目ある存在〉を認識できず、頽落しているときにこそ、良心の呼び掛けが現存在にたいして、その負い目ある存在を告知することができます。現存在が世人の声に耳を傾けていて、自己を忘却しているからこそ、良心が語り掛けるのであり、ここに良心の可能性があると言えるでしょう。
ハイデガーはこの良心の呼び掛けは、「呼び出し」と「呼び戻し」という循環的なプロセスで行われることを指摘しています。この循環構造はすでに、「呼び掛けが〈どこから〉訪れるかというと、それはその呼び掛けが相手を呼び戻そうとしている〈どこへ〉である」として語られていたものです(Part.59)。
「呼び出す」というのは、現存在が世人のうちに頽落している状態に良心が呼び掛けて、「みずから実存しつつ引き受ける可能性のもとに」現存在を呼び出すということです。「呼び戻す」というのは、現存在は自己の存在可能のもとに呼び出されることによって、自分が被投的な存在者であることを自覚するようになり、そこに立ち戻るようになるということです。それによって現存在は「この被投性こそが、現存在が実存のうちに受け入れねばならない〈無である〉根拠であることを、理解する」ようになるのです。
現存在は頽落した状態では、みずからが頽落していることを自覚できません。しかし良心が呼び掛けることによって、現存在は自己の存在可能に眼を開くことができます。そしてみずからが被投性のうちで頽落していることを改めて自覚し、そこから、すなわち「世人のうちに自己を喪失した状態から、みずからのもとに立ち戻るべきであることを理解するようになる」のです。このことを自覚することが、「”負い目あり”」ということです。
この循環構造は、「負い目」についても確認できます。現存在は気遣いという存在様態において、もともと〈負い目ある存在〉です。すでに確認したように、負い目ある存在であるということは、現存在が過去に何らかの過誤を犯して、罪ある存在となっているということではありません。世人は身近な規則や公的な規範が満たされれいるかどうかという意味での負い目については詮索し、こうしたものへの違反を数えあげ、その償いを求めます。しかし世人がこのように現存在の過失や違反を咎めるのは、現存在がその「負い目ある存在」に眼を向けることを妨げるためです。世人は現存在のもっとも固有な〈負い目ある存在〉からは逃げ出しているから、それだけうるさく過失について口にするのです。
しかし現存在はもともと〈負い目あり〉の存在なのですから、こうした実際の過誤についてことさらに自覚する必要はありません。ただし世人のうちに頽落した現存在は、みずからがそのように根源的な〈負い目ある存在〉であることは自覚しておらず、忘却しています。そこで良心がこのように頽落している現存在に呼び掛けて、現存在が「”もっとも固有の”本来的な〈負い目を負って存在しうること〉に向かって、自己を投企する」ことを求めるのです。
良心がこのような頽落した現存在に呼び掛けるときに、現存在は初めて自由になります。「現存在は呼び掛けを理解しながら、”みずからのもっとも固有な実存の可能性に、耳を傾け”」るようになります。それが自由ということであり、現存在はこの呼び掛けに応じて、良心をもとうと意欲し、もっとも固有な〈負い目ある存在〉にたいして自由に開かれていることを選択するのです。このように自己に固有の負い目へといたることで初めて、現存在はみずからの根源的な負い目の意味を理解し、そこに立ち戻ることができるようになるのです。
このような良心の概念のもとでは、疚しい良心と疚しくない良心とはどのようなものになるでしょうか。一般的に疚しい良心とは、現存在が何らかの罪を自覚していることであり、疚しくない良心とは、現存在がみずからの無辜を確信していることです。しかし「負い目あり」こそが現存在の原初的な状態であるというハイデガーのこの良心論の文脈では、こうした一般的な良心についての理解には難点があります。
まず疚しい良心とは、疚しくない良心の欠如として考えられていることが指摘できるでしょう。これは自己の過失に疚しさを感じている良心であり、罪のない状態の欠如していることから生じる良心の概念です。この考え方が欠如態についての眼前的な存在論に依拠しているのは明らかでしょう。
次に疚しくない良心ですが、現存在が原初的に〈負い目ありの存在〉であることを認識するなら、みずからの負い目を自覚していないこの良心とは、自己の負い目への自覚の欠如を示すものであり、世人として頽落している状態を告知するものにほかなりません。その疚しくない良心の持ち主は道徳的に良き人間であるのではなく、みずからの根源的な〈負い目〉について無自覚な人間であるにすぎません。
自分が無辜であることや、そのような状態の欠如としての罪を自覚するのではなく、みずからの存在に本質的な〈負い目〉を自覚するようになることこそが、現存在が本来的に実存するために必須の条件なのです。
この現存在の実存的な良心の特徴は、それが人間の善悪を判定するためにあるものではないということにあります。伝統的に、良心的な人間であるということは、善き人間の1つの現れでした。この伝統的な考え方では、良心は所有していたり、所有していなかったりする特質のようなものとみなされていました。
これにたいしてハイデガーは、良心は所有物ではないし、道徳的な人間性を示す特質でもないと主張します。呼び掛けられた現存在は、「”みずからのもっとも固有な実存の可能性に、耳を傾け”」るようになるのであり、これは現存在が実存の可能性に直面することを選択するということです。
現存在は良心を選択するのではありません。現存在が選択することができるのは、「”良心をもとうと意志すること”」だけです。所有物としての良心をではなく、選択を迫る「呼び掛け」のもとで、「良心をもとうと意志」し、「もっとも固有な〈負い目ある存在〉にたいして自由に開かれていること」を選ぼうとすることが大切なのです。
ところで、現存在のすべての行為は、事実的には必然的に、道徳的な過誤を避けることができないものです。先にも指摘されたように、わたしたちは日常的に生きているだけで、他の存在にたいして実際に負い目を負っているからです。わたしの快適な生活が、誰かの不幸に基づいているのであれば、現存在は他者との共同存在においてすでに、事実的に負い目を負っているのです。これは現存在の投企が>Nicht<(無であるもの)としての性格をおびており、投企の根拠もまた>Nicht<としての性格をおびていることに起因します。
わたしは現存在として、みずからの存在を重視しなければなりません。また、わたしは自分の愛する少数の他者の存在を、自己の存在と同じように大切に思っています。しかしわたしには>Nicht<という無力さの性格がそなわっているために、その他の無数の他者の存在を無視してでも、自己とこうした少数の他者の存在を優先しなければなりません。究極のところわたしたちは、自分が無力であるために、他人はどうなろうと、自分と自分に親しい人々が生き延びることを願っているのであり、自分と直接に関係のない他人の幸福などは顧慮しようとしていないのです。これは他人の幸福を無視しているということであり、善悪で言うなら他人にたいして悪を行っていると言えるでしょう。
また、良心の呼び掛けによって本来的に実存することになったとしても、わたしが行動するときには、その行動はつねに他者の幸福につながるかもしれませんし、不幸につながるかもしれません。わたしがあるものを選択するとき、その選択から排除される人々が出てくるのはやむをえないことです。行為の意図は本来的なものであれ、その帰結がもたらすものについては、是非を問うことはありません。
このようにハイデガーの良心論は、自己との関係を中心と死、他者のことは考慮にいれず、行為の帰結を考慮にいれないという特徴をそなえています。「〈良心をもとうと意志すること〉は、その本質からして没良心性を引き受けること」であるというのはこのような意味であり、もし現存在に善悪を問おうとするなら、こうした没良心性を理解していなければならないでしょう。
これまでの分析から、本来的な存在可能の「証し」として良心を理解できるようになりました。良心をそのようなものと理解したうえで、本来的な存在可能は実存論的にさらに具体的に規定する必要があるでしょう。しかしこの問いに答える前に、まだ未解決の疑念に取り組まなければなりません。それはこの考察によって与えられた良心の解釈は、通俗的な良心の解釈を素通りして、良心を一方的に現存在の存在機構にひきつけて解釈しているのではないかという疑念です。
第58節は以上になります。この節は難解ですがそれだけに内容の濃い節だったのではないでしょうか。何か疑問点等ございましたら、お気軽にコメントしていただければと思います。
それでは、次回もまたよろしくお願いします。
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