『存在と時間』を読む Part.25

  第26節 他者の共同現存在と日常的な共同存在

 すでに確認してきたように、現存在は配慮するまなざしのもとで、自分の周囲の環境世界が道具で満ちていることを発見したのですが、この道具連関は、現存在が単独で作りだしたものではありません。刀匠が槌を振るうとき、その槌は他者が製造したものであり、他者が販売したものです。刀匠は槌を使うことで、無意識のうちに気づくこともなく、それを製造した人と出会い、販売した人と出会っているのです。そして刀匠が槌を振るうのは刀を製作するためであり、それを使う他者がいなければ、そうした行為がなされることもなかったはずです。わたしたちはさまざまな事物に、それらが他者たちにとって手元的なものとして存在しているその世界のなかで出会うのであり、その世界はまたあらかじめすでにつねにわたしの世界でもあるのです。
 このように、世界が世界であるのは、わたしが1人で存在するからではなく、他者とともにあるからであり、世界は、わたしが他者たちとわかちあっているものです。「世界内存在にはつねにすでに<他者たち>が、”ともに現に存在している”のであり、そのことは現象的に確認される」(Part.24参照)と言われていたように、他者たちとともに存在しているという存在様式は、世界内存在と等しく根源的な存在構造なのです。

Die Welt des Daseins ist Mitwelt. Das In-Sein ist Mitsein mit Anderen. Das innerweltliche Ansichsein dieser ist Mitdasein. (p.118)
現存在の世界は”共同世界”であり、内存在とは、他者たちとの”共同存在”である。他者たちの世界内部的なそのものの存在は、”共同現存在”である。

 これはほとんど自明な指摘にみえますが、他者という「共同現存在」が世界内存在と等しく根源的な存在形態であるということは、哲学的にはそれほど自明なことではありません。デカルトが行ったような還元を経た後では、他者は「わたし」と同じような確実性をそなえていることはなく、他者は人間ではなく、自動人形にすぎないのではないかと問うことも可能になります。その際、ここに重要な2つの問いが生じます。
 第1に、そのようにみられた他者という存在は、現存在ではなく、世界のなかに眼前的に存在する<人間という事物>にすぎないものとみなされているのではないかということです。そのように眺められた他者は、「わたし」と同じように世界のうちに実存することは保証されなくなってしまいます。
 第2に、このように<人間という事物>とみなした他者が、「わたし」と同じように現存在であることは、どのようにして保証されるのかということです。この問いを解決するために使用されたのが、「感情移入」という方法です。フッサールは、他者はわたしと同じような身体を所有していることに注目し、他者がその身体のうちでわたしと同じような心的な生を送っていることを「感情移入」によって納得することで、他者がわたしと同じような存在であることを確信しうると考えました。しかしハイデガーは、フッサールのこうした「感情移入」という問題構成を明確に批判します。この批判は、後の段落で詳しく展開されることになります。

 近代哲学の前提に依拠するかぎり、「わたし」はたしかに、その身体と精神の構造に基づいて、他者が他なる<われ>であること、他者がわたしと同じ現存在として世界に実存していることを疑うことができます。この確実なのは「わたし」の存在だけという考え方に則った近代哲学は、方法論的に独我論であることをその本質的な特徴とします。
 この独我論的な観点からみると、世界のうちに確実に存在するのは「わたし」だけであり、この「わたし」は、感情移入によって他者を構成する必要がある孤独な主観だということになります。
 しかしハイデガーのように、他者を共同存在と考えるなら、この「孤独」の意味は違ったものになってきます。

Das Mitsein bestimmt existenzial das Dasein auch dann, wenn ein Anderer faktisch nicht vorhanden und wahrgenommen ist. Auch das Alleinsein des Daseins ist Mitsein in der Welt. Fehlen kann der Andere nur in einem und für ein Mitsein. Das Alleinsein ist ein defizienter Modus des Mitseins, seine Möglichkeit ist der Beweis für dieses. Das faktische Alleinsein wird andererseits nicht dadurch behoben, daß ein zweites Exemplar Mensch >neben< mir vorkommt oder vielleicht zehn solcher. Auch wenn diese und noch mehr vorhanden sind, kann das Dasein allein sein. Das Mitsein und die Faktizität des Miteinanderseins gründet daher nicht in einem Zusammenvorkommen von mehreren >Subjekten<. (p.120)
共同存在は現存在を実存論的に規定しているのであり、このことは、他者が事実的に眼前存在しておらず、知覚されていない場合にも変わりがないのである。現存在は、たとえ孤独であっても、世界のうちで共同存在しているのである。他者が”不在である”ということも、共同存在に”おいて”のみ、そして共同存在に”とって”のみ可能なことなのである。孤独であるということは、共同存在の欠如的な様態であり、現存在が孤独になれるということが、そもそも共同存在の証拠なのである。だから他方では、事実として孤独であることは、わたしの「隣」に人間の2番目の見本が眼の前に登場しても、それが10個になっても、解消されることではない。こうした見本のようなものが10個ほど眼の前にあっても、さらにそれよりも多くなっても、現存在は孤独でありうるのである。このように共同存在と共同相互存在の事実性は、複数の「主体」が集まって現前していることのうちには根拠をもたない。

 孤独であるということは、他者の不在を痛感することであり、これは「共同存在に”おいて”のみ、そして共同存在に”とって”のみ可能なこと」なのです。もしも人間が他者を感情移入によって構成しなければならないのであれば、わたしの孤独は「わたしの<隣>に人間の2番目の見本が眼の前に登場しても、それが10個になっても、解消されることではない」でしょう。重要なのは、「孤独であるということは、共同存在の欠如的な様態であり、現存在が孤独になれるということが、そもそも共同存在の証拠なのである」ということです。他者の存在は、現存在にとって世界内存在のありかたを基礎づける根源的な意味をそなえているのです。

 ところで、実存する他なる人間に対しては、世界の中の事物である道具とは異なる気遣いの方法が必要とされるのは当然でしょう。他者に対するこの気遣いは、「顧慮的な気遣い」と呼ばれます。

Der Seinscharakter des Besorgens kann dem Mitsein nicht eignen, obzwar diese Seinsart ein Sein zu innerweltlich begegnendem Seienden ist wie das Besorgen. Das Seiende, zu dem sich das Dasein als Mitsein verhält, hat aber nicht die Seinsart des zuhandenen Zeugs, es ist selbst Dasein. Dieses Seiende wird nicht besorgt, sondern steht in der Fürsorge. (p.121)
共同存在という存在様式は、世界内部的に出会う存在者に”かかわりあう存在”であるという点では、配慮的な気遣いと同じであるが、配慮的な気遣いにそなわる存在性格は、共同存在にはふさわしくない。現存在が共同存在としてかかわりあう存在者は、手元的な道具という存在様式をそなえておらず、それ自身が現存在であるからである。現存在はその存在者に配慮的な気遣いをするのではなく、存在者を”顧慮的な気遣い”の対象とするのである。

 世界の中の事物に対して現存在は、世界の有意義性のうちでそれぞれの事物の適材適所性をみいだす「配慮的な気遣い」のもとにありました。しかしこのような気遣いのありかたは、同じ現存在である他者に対しては不適切です。他者への気遣いは「配慮的な気遣い」ではなく、「顧慮的な気遣い」の対象とされます。ちなみに「顧慮的な気遣い」と訳した >Fürsorge< は、「配慮、世話、介助」や「福祉手当」という意味で使用される語であり、配慮の対象がより人間的であるような用語となっています。

 ここで「共同存在」と「共同現存在」の区別について、ハイデガーがどのように考えているかを確認しておきましょう。

Mitsein ist eine Bestimmtheit des je eigenen Daseins; Mitdasein charakterisiert das Dasein Anderer, sofern es für ein Mitsein durch dessen Welt freigegeben ist. Das eigene Dasein ist nur, sofern es die Wesensstruktur des Mitseins hat, als für Andere begegnend Mitdasein. (p.121)
共同存在は、そのつどに固有な現存在の規定性である。共同現存在は、共同存在にとって他者の現存在がその現存在の世界によって<開けわたされている>かぎりで、他者の現存在を性格づけるものである。それぞれの固有の現存在は、共同存在という本質的な構造をそなえているかぎりで、他者たちに出会う共同現存在なのである。

 共同存在(>Mitsein<)とは、「そのつどに固有な現存在の規定性である」と指摘されるとおり、現存在を実存論的に規定しているもののことです。現存在は世界内存在であることによって、そして手元的な存在者に配慮することを通じて、すでに他者と結びついているのであり、その意味で「共同存在」なのです。
 これに対して共同現存在(>Mitdasein<)は、このような共同存在として存在している現存在であり、「わたし」でない存在者のことです。他なる現存在が共同現存在であり、これは「共同存在にとって他者の現存在がその現存在の世界によって<開けわたされている>かぎりで、他者の現存在を性格づけるもの」のことです。共同存在は、世界内存在として世界のうちで他者とともに存在する現存在の「本質的な構造」であり、この構造をそなえた現存在は、たがいに「共同現存在」として他者に出会うのです。

 わたしがあなたにとっては共同現存在にすぎないのと同様に、あなたはわたしにとっては共同現存在にすぎません。しかし、「わたし」という切実な意味をもつ現存在は、現存在するその当人だけの事柄です。たしかにわたしは顧慮的な気遣いによって他者に配慮しますが、多くの場合にはわたしは自己の存在だけに注意を注いでいます。そして他者との間では、「たがいに協力しあったり、反目しあったり、たがいを無視しあったり、知らん顔をして素通りしたりするようなありかた」のもとにあるのが通例です。世界内存在は、他なる現存在である共同現存在に対しては、「欠如態や無関心態という諸様態」のうちにあることが多いのです。

Das Für-, Wider-, Ohne-einandersein, das Aneinandervorbeigehen, das Einander-nichts-angehen sind mögliche Weisen der Fürsorge. Und gerade die zuletzt genannten Modi der Defizienz und Indifferenz charakterisieren das alltägliche und durchschnittliche Miteinandersein. Diese Seinsmodi zeigen wieder den Charakter der Unauffälligkeit und Selbstverständlichkeit, der dem alltäglichen innerweltlichen Mitdasein Anderer ebenso eignet wie der Zuhandenheit des täglich besorgten Zeugs. Diese indifferenten Modi des Miteinanderseins verleiten die ontologische Interpretation leicht dazu, dieses Sein zunächst als pures Vorhandensein mehrerer Subjekte auszulegen. Es scheinen nur geringfügige Spielarten derselben Seinsart vorzuliegen und doch besteht ontologisch zwischen dem >gleichgültigen< Zusammenvorkommen beliebiger Dinge und dem Einander-nichts-angehen miteinander Seiender ein wesenhafter Unterschied. (p.121)
顧慮的な気遣いに可能なさまざまなありかたとして、現存在がたがいに協力しあったり、反目しあったり、たがいを無視しあったり、知らん顔をして素通りしたりするようなありかたをすることがあげられる。そして日常的で平均的な共同相互存在の特徴は、後のほうであげたような欠如態や無関心態という諸様態にある。これらの存在様態は、毎日のように配慮的に気遣われている道具の手元存在性や、他者たちの日常的で世界内部的な共同現存在にふさわしい<目立たなさ>や<自明性>と同じような特徴を示している。共同相互存在にみられるこうした無関心な様態のために、存在論的な解釈をする際に、共同相互存在とはさしあたり、複数の主体がたんに眼前的に存在することであると解釈する間違った傾向が生じることになる。任意の事物がたがいに「無関心に」集まって現前することと、たがいに共同存在している存在者たちが<たがいに他者のことを気に掛けずに>いることは、同じ存在様式の些細な変種のようにみえるかもしれないが、存在論的にはこの2つの存在様式のあいだには、本質的な違いがあるのである。

 ハイデガーは、他者に対する無関心なありかたを、「日常的で平均的な共同相互存在」の特徴として規定しています。共同相互存在とはこのように、共同現存在どうしが、世界のうちでたがいに他者に対して無関心のままに存在しているありかたを示すものです。しかし、これは現存在にとっては本質的なものであり、欠陥のようなものではありません。「わたし」が切実な意味をもつのはこの「わたし」だけであることから、必然的に生まれざるをえないありかたなのです。
 このような相互的な無関心が世界を支配しているために、2つの重要な帰結が生まれます。1つは、他者が現存在にとって疎遠なものであり、デカルトが語ったように、自動人形と変わらないものとなりがちだということです。「たがいに共同存在している存在者たちが<たがいに他者のことを気に掛けずに>いる」のは否定できない事実でしょう。そのためにこのように疎遠な他者が存在することとしての「共同相互存在とはさしあたり、複数の主体がたんに眼前的に存在することであると解釈する間違った傾向が生じる」のは避けがたくなります。しかしこれは他なる現存在を、眼前存在者と同列において考えようとするものであり、存在論的には重要な錯誤なのです。
 第2は、共同相互存在が、世界内存在としての現存在の日常的な存在様式の支配的なありかたであるために、すべての現存在にとって他者が1つの顔のない他なる存在となる可能性があるということです。その顔のない他者は、いずれ世人として登場することになりますが、この日常性における世人の概念は、この共同相互存在というありかたにその根をもっているのです。

 現存在は共同現存在に対し、基本的に無関心なありかたをしています。しかし場合によっては、極端なまでに積極的なありかたを示すことがあり、ハイデガーはこうした様態として、「他者の代理になる」顧慮と、「他者に手本を示す」顧慮をあげています。
 「代理になる」顧慮とは、他者が自分のために気遣いすべき事柄を、他者の身代わりとなって引きうけてしまうものです。この顧慮が間接的に害を与えるものであることは明らかでしょう。親がこどもの課題を引きうけてしまったならば、こどもはある種の可能性を失ってしまいます。そして親に身代わりになってもらったこどもは、自分が解決すべき問題に直面したときに、つねに他者を頼るようになってしまうでしょう。ひいては他者の決定に自分の生を委ねることになり、これは他者に依存するようになること、相手に支配されることを意味します。
 これとは反対に、「他者に手本を示す」顧慮は、他者から他者がするべき「気遣い」を奪うのではなく、相手に気遣いを気遣いとして本来の意味で返すことです。これは、相手が本来関心をもつべき相手の実存を尊重し、自分の気遣いにおいて鋭く見通すことができるようにしてあげることであり、それに向かって自由になることができるように手助けをすることです。
 そして日常の生活でみられる多くの気遣いは、この2つの極端な気遣いの中間にあって、さまざまな混合形態を示すことになるでしょう。わたしたちは普段、他者たちとともにそのように生活しています。

 ハイデガーはすでに、手元存在という概念を使って、現存在の世界性の1つのありかたを考察してきました。そして製作された刀は、それを注文した他者のためのものであるように、手元存在者は、実は他者を隠れた目的としていたことが指摘されました。また、刀匠が刀を製作するためのすべての道具は、そもそも他者が製作したものです。製作の過程においても、製作の目的においても、刀匠の世界は他者を目的とし、他者が作りあげた世界なのです。

Die Welt gibt nicht nur das Zuhandene als innerweltlich begegnendes Seiendes frei, sondern auch Dasein, die Anderen in ihrem Mitdasein. Dieses umweltlich freigegebene Seiende ist aber seinem eigensten Seins-sinn entsprechend In-Sein in derselben Welt, in der es, für andere begegnend, mit da ist. Die Weltlichkeit wurde interpretiert (§ 18) als das Verweisungsganze der Bedeutsamkeit. Im vorgängig verstehenden Vertrautsein mit dieser läßt das Dasein Zuhandenes als in seiner Bewandtnis Entdecktes begegnen. Der Verweisungszusammenhang der Bedeutsamkeit ist festgemacht im Sein des Daseins zu seinem eigensten Sein, damit es wesenhaft keine Bewandtnis haben kann, das vielmehr das Sein ist, worumwillen das Dasein selbst ist, wie es ist. (p.123)
世界は、世界内部的に出会う存在者としての手元的な存在者を<開けわたす>だけでなく、現存在をも、すなわち共同現存在する他者たちをも<開けわたす>のである。しかしこのように環境世界的に<開けわたされた>現存在は、そのもっとも固有な存在意味において内存在でありながら、その同じ世界のうちで他者たちと出会い、共同に現存在しているのである。現存在の世界性については、前に有意義性の指示の全体として解釈しておいた(第18節)。現存在は先行的に了解しながらこの有意義性に親しんでいることによって、手元的な存在者と、その適材適所性において露呈されたものとして出会う。有意義性の指示連関は、現存在が自己のもっとも固有な存在にかかわることで、現存在の存在のうちに確保されているのである。現存在のこのもっとも固有な存在は、その本質からして、いかなる適材適所性ももちえない。この固有な存在はむしろ、現存在自身が存在するとおりに存在している”そのための目的”そのものとしての存在である。

 現存在にとって究極の目的である「そのための目的」は、自己の生であり、たしかに現存在はその究極の目的をみずからのうちにおいています。「現存在のこのもっとも固有な存在は、その本質からして、いかなる適材適所性ももちえない。この固有な存在はむしろ、現存在自身が存在するとおりに存在している”そのための目的”そのものとしての存在である」と指摘されるように、現存在は目的そのものです。
 しかし現存在の存在を考察してみるなら、現存在がまた他者のために存在していることも明らかです。刀鍛冶の仕事は他者をめがけたものであり、他者からの評価を求めるものだからです。現存在の「そのための目的」には、その原初的な構造からして、他者の存在が含まれているのです。

Nach der jetzt durchgeführten Analyse gehört aber zum Sein des Daseins, um das es ihm in seinem Sein selbst geht, das Mitsein mit Anderen. Als Mitsein >ist< daher das Dasein wesenhaft umwillen Anderer. Das muß als existenziale Wesensaussage verstanden werden. Auch wenn das jeweilige faktische Dasein sich an Andere nicht kehrt, ihrer unbedürftig zu sein vermeint, oder aber sie entbehrt, ist es in der Weise des Mitseins. Im Mitsein als dem existenzialen Umwillen Anderer sind diese in ihrem Dasein schon erschlossen. Diese mit dem Mitsein vorgängig konstituierte Erschlossenheit der Anderen macht demnach auch die Bedeutsamkeit, d. h. die Weltlichkeit mit aus, als welche sie im existenzialen Worum-willen festgemacht ist. (p.123)
今わたしたちが行っている分析によると、現存在がみずからの存在そのものにおいてみずからにかかわっているその存在には、他者たちと共同存在するということが含まれる。このため現存在は共同存在としては、本質的に他者の<ために>「存在している」ことになる。これは実存論的にみて本質にかかわる言明として理解しなければならない。そのおりおりの事実的な現存在が、他者たちに向かおうと”せず”、他者たちなどいなくてもよいと考えているか、あるいは他者たちなしでなんとか済ませている場合にも、現存在は共同存在というありかたで”存在している”のである。共同存在とは、実存論的には他者たちの<ために>存在するということであり、その共同存在のなかで他者たちは自身の現存在においてすでに開示されているのである。このように共同存在によって、他者たちがあらかじめ開示されるということが構成されているのであり、それが有意義性を作りだし、世界性を作りだすものとなっている。そのようなものとして世界性は、実存論的な<そのための目的>のうちに固定されているのである。

 現存在は、自己の存在とその幸福を最終的な目的として、「そのための目的」として存在します。ところが「現存在がみずからの存在そのものにおいてみずからにかかわっているその存在には、他者たちと共同存在するということが含まれる」のであり、現存在は単独で存在するわけではありません。これはたんに、現存在は事実として1人では生きられないということを言っているのではありません。そうではなく、現存在が世界のうちで生きるということのうちに、他者との共同存在がアプリオリに含まれているのであり、他者との共同存在は、現存在を構成する要素として含まれているということを意味します。これは「そのおりおりの事実的な現存在が、他者たちに向かおうと”せず”、他者たちなどいなくてもよいと考えているか、あるいは他者たちなしでなんとか済ませている場合にも、現存在は共同存在というありかたで”存在している”のである」という指摘にみることができます。
 それゆえ、現存在は「そのための目的」でありながらも、共同存在としては「本質的に他者の<ために>存在している」ことになります。「そのための目的」は自己の存在を目的とするものでありながらも、共同存在が現存在を構成するアプリオリな要素である以上、その究極の目的には他者の存在が含まれることになるからです。実際に「誰々のために生きる」というよりも、これは「実存論的にみて本質にかかわる言明として理解しなければならない」指摘です。このように、自己を目的とする >Worum-willen< と 他者を目的とする >Umwillen< は、世界のうちで解きがたく結ばれており、この2つが「有意義性を作りだし、世界性を作りだすものとなっている」のです。

 現存在の存在は共同存在であるから、他者は現存在にとって本質的なものであり、共同存在のうちには他者の共同現存在がすでに開示されています。このことはつまり、現存在の存在了解のうちに、他者たちについての了解もすでに含まれているということです。

Das Sichkennen gründet in dem ursprünglich verstehenden Mitsein. Es bewegt sich zunächst gemäß der nächsten Seinsart des mitseienden In-der-Welt-seins im verstehenden Kennen dessen, was das Dasein mit den Anderen umweltlich umsichtig vorfindet und besorgt. Aus dem Besorgten her und mit dem Verstehen seiner ist das fürsorgende Besorgen verstanden. Der Andere ist so zunächst in der besorgenden Fürsorge erschlossen. (p.124)
たがいに知り合いになるということは、根源的に理解する共同存在に基づいたことである。共同存在している世界内存在のごく身近な存在様式にふさわしい形で、現存在が他者とともに環境世界的に目配りすることで眼の前にみいだし、配慮的に気遣うものごとについて、理解しつつ識別するときに、このようにさしあたりたがいに知り合うようになるのである。自分が配慮的に気遣っているもののほうから、それを理解することにおいて、顧慮的に気遣いつつある配慮的な気遣いが理解される。このようにして他者はさしあたり、配慮的に気遣いつつある顧慮的な気遣いのうちに開示されている。

 現存在は手元存在者への配慮的なまなざしを通じて、他者と知り合うようになるとされています。道具やそれを用いて行う製作は、他者と関係するものだからです。他者への顧慮は、まず配慮的な気遣いを通じて生まれるのであり、他者は手元的な存在者のほうから姿を現します。「わたし」という現存在が気遣いをすることにおいて、あなたと出会い、あなたという現存在もまたこうした気遣いにおいて、わたしと出会います。人々の出会いの可能性は、こうした配慮的な気遣いのネットワークのうちに生まれ、これを基礎として、顧慮的な気遣いも生まれるのです。すべての現存在は、「自分が配慮的に気遣っているもののほうから、それを理解することにおいて、顧慮的に気遣いつつある配慮的な気遣いが理解され」、「このようにして他者はさしあたり、配慮的に気遣いつつある顧慮的な気遣いのうちに開示されている」のです。
 現存在にとって他者は、道具とは全く異なる性格のものであり、他者についての了解は、根源的に実存論的な存在様式として、現存在の存在構造のうちに含まれています。ただし伝統的な哲学では、この他者についての了解が本質的な課題や問題として取り上げられることがあまりありませんでした。そのことを象徴的に示すのが、先にみた「感情移入」論です。

 ハイデガーは存在論的な見地から、フッサールの「感情移入」論について、3点に焦点をあてて批判します。
 第1は、この「感情移入論」が基盤としている問題構成についてです。この議論は伝統的な主観と客観の対立の地盤の上に構成されているのです。この議論の根底になっているのは、「わたし」は主観として完全に独立した存在であり、この主観がさまざまな対象を認識する権能をそなえているという考え方であり、「わたし」はこの権能のもとで、客観としての他なる主観を認識しますが、この他なる主観もまたそれ自身が現存在という存在様式をそなえているために、事物を認識するために使われる通常の方法とは異なる「感情移入」という手段で、みずからとは異なる他なる主観を構成する必要があるとされます。こうした考え方では、まず単独に存在する自己を想定しておき、次に他者を閉ざされたものとみなしてから、この感情移入という現象によって、2つの主観のあいだに存在論的に<橋>をかけようとするのです。
 第2に、この「<橋>をかける」という方法では、自己と他者との違いがあいまいなままにされます。この議論ではたしかに、他者は主体とは異なる別の現存在であることが認められています。しかし問題なのは、この主体と他者というそれぞれの現存在のありかたが、まったく独立したもののように考えられていることです。このように考えるなら、これら2つは同等な資格をもって現存在として存在していることになり、そして現存在は共同現存在するものであるから、この<橋>がかけられる可能性は、それぞれの現存在の存在様態が同等なものであることを根拠とすることになります。すると、どの独立した現存在も、こうした共同存在というありかたを根拠として、他者に感情移入するという方法で、たがいに結びつくことができることになります。
 すなわち「感情移入」の議論では、現存在がすべて「わたし」であるという形式的な告示の存在様式をごく形式的に採用しているのです。

Das Seinsverhältnis zu Anderen wird dann zur Projektion des eigenen Seins zu sich selbst >in ein Anderes<. Der Andere ist eine Dublette des Selbst. (p.124)
すると、他者たちとかかわる存在関係は、それぞれ自分とかかわる存在を、「別の他者のうちに」投影したものにすぎないことになる。こうして、他者は自己を複製したものだということになる。

 この議論では、それぞれの現存在が自己を感情移入しながら「<別の他者のうちに>投影」するという方法で、他者の存在を確認すると考えられています。しかしこの架け橋というアイデアは、現存在が自己との間で結ぶ関係が不明なままで、それをたんに他者に「投影」しているにすぎないのですから、他者はわたしの別の自己であり、「他者は自己を複製したもの」になるでしょう。この他者は自己とどのように違うのか、自己は他者とどのように違うのかということは、問われないままになってしまいます。
 第3は、こうした考え方では、他者の存在について真の問いが問われないままとなってしまうことです。そもそも感情移入という方法が必要となるのは、現存在が別の自己に投影し、そこに自己を複製するという方法でしか、他者の存在を実感することができないと想定されていたためです。また、世界内存在としての現存在は多くの場合、他者に無関心であることが指摘されていましたが、このような存在様式のもとにあると想定した場合には、独立した存在から独立した存在に橋を架けるように、相手が自分とおなじような存在であることを、感情移入という方法で納得する必要がありました。
 そしてこのようなありかたに基づくかぎり、他者はたんなる「頭数」とみなされることになり、真の意味で、他者との関係が確立されることはないでしょう。ハイデガーはこうした感情移入という方法は、他者の存在について理解する真の方法ではなく、その1つの代用物にすぎないと批判するのです。

 このように感情移入という方法で他者を構築する方法は、世界内存在としての現存在の実存のありかたを適切な形で示すことはできません。この方法が前提としていたことは、絶対に確実な主体は、世界や他者を認識する権能をもつ「わたし」であること、世界のうちに存在する複数の主体もまた「わたし」と同質で同格な主体であること、そして「わたし」は自己を他なる主体に投影することで、他者を構築することができることでした。
 しかしこれらの前提は、世界内存在として実存する現存在という存在論的な観点からみると、どれも破綻しています。第1に、「わたし」はそのように確実な自己を意識した主体ではありません。このことは、これまで指摘された現存在のありかたを考えれば明らかでしょう。
 第2に、現存在はふつうは他者に無関心な存在のしかたをしており、自己を中心とした手元存在者の世界に囲まれています。そのときには、他者は道具の背後に隠れた存在、影のような存在です。またあるときには、「他者の代理になる」顧慮と、「他者に手本を示す」顧慮において、現存在は他者に没頭します。このとき他者は、自己に劣らぬ現実性をもった存在でしょう。
 このどちらにおいても、現存在は自己を意識して世界や他者を認識する絶対的な権能をもつ主体ではありません。さらに、このどちらにおいても、世界のうちに存在する複数の主体は、道具連関の背後に控える「影」のようなものであるか、わたしが過剰にその「代理」となったり、実存することの「手本」を示したりする存在者として、「わたし」と同質で同格の主体とはみなされていません。
 第3に、共同現存在としての他者は、「投影」することで初めて構築されるようなものではありません。感情移入によって共同存在が初めて構成されるのではなく、共同存在という土台があることで、初めて感情移入が可能になるのです。

 本書でハイデガーが一貫して考えているのは、共通の世界がまず最初に与えられているということです。個々の主体が独立して存在し、まずそれ固有の世界をもってから、共通の世界をもつようになると考えるのではなく、さしあたり日常的には、自己的な世界や自己的な現存在は遠くにあるものであり、共同相互存在する共通の世界こそが最初のものであるというのが、ハイデガーの存在論的な構えとなります。そしてこの共同相互存在をひきうける者が<誰>であるのかを考察するのが、この章の課題となっています。

Das eigene Dasein ebenso wie das Mitdasein Anderer begegnet zunächst und zumeist aus der umweltlich besorgten Mitwelt. Das Dasein ist im Aufgehen in der besorgten Welt, das heißt zugleich im Mitsein zu den Anderen, nicht es selbst. Wer ist es denn, der das Sein als alltägliches Miteinandersein übernommen hat? (p.125)
固有の現存在というものも、他者たちとの共同現存在というものも、さしあたりたいていは環境世界的に配慮的に気遣われた共同世界の側から出会うのである。現存在はこのように配慮的に気遣われた世界に没頭しているのであり、これは自分自身ではなく、他者たちとかかわる共同存在のうちに没頭しているということである。それでは日常的な共同相互存在としての存在をひきうけているのは”誰”なのだろうか。


 以上で第26節は終わります。次節ではいよいよ「世人」という概念が考察され、<誰>という問いに1つの回答が出されることになります。

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