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こんなときだから「物語 ウクライナの歴史」に学ぶ

偽情報が溢れる世界の中で何が正しいかを知りたければ,とりあえず歴史を知るくらいはしないといけない.プーチン大統領は2021年7月に発表した論文の中でロシアとウクライナ人は同じ民族だと主張したが,果たしてそうなのか.そもそもロシアとウクライナの関係はどのようなものなのか.これらを学ぶために,本書「物語 ウクライナの歴史」を読むことにした.

本書は,今回のロシアによるウクライナ侵攻の10年前に書かれたものだ.著者の黒川祐次氏は外務省にて駐ウクライナ大使と駐モルドバ大使を兼務した経歴を持つ.

物語 ウクライナの歴史 ― ヨーロッパ最後の大国
黒川祐次,中央公論新社 ,2002

2022年2月21日,ロシアは「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の独立を承認し,ウクライナ東部のドンバスへロシア軍を派遣した.2月24日,ロシア大統領ウラジーミル・プーチンがウクライナでの軍事作戦を開始すると述べた演説が公表され,ウクライナ各地で砲撃や空襲が開始された.ロシア側は国連憲章51条の集団的自衛権を主張したのに対し,ウクライナ大統領ウォロディミル・ゼレンスキーは戒厳令および総動員令に署名し,ロシアとウクライナは戦争状態に突入した.

どうして,こんなことになったのか? ソ連崩壊後のロシアとNATOを巡る駆け引きがあるわけだが,それはともかく,本書で解説されているウクライナとロシアの歴史を見ておきたい.

昔々の黒海沿岸地方に遡る.

黒海北岸地域を支配していたスキタイ人については,ヘラクレスと蛇女の子の後裔であるという話などを,ヘロドトスが著書「歴史」に書いている.スキタイと言えば,勇猛な騎馬民族というイメージだが,実際,必要に応じて女性も戦闘をしたらしく,女人族アマゾンのモデルはスキタイの女性だとする説もあるそうだ.スキタイ人は勇猛なだけでなく,トフスタ・モヒーラ古墳から出土した胸飾りなど,極めて優れた芸術作品を残している.また,遊牧民の王族スキタイが農耕民の農耕スキタイを支配する構造であったとヘロドトスは書いている.スキタイは雑多な集団だったらしい.

現代のウクライナがそうであるように,スキタイの土地は穀物の栽培に適しており,ドニエプル川流域は天然資源に恵まれ,チョーザメなどの魚類,天然塩などが豊富であった.一方,ギリシアでは小麦が不足していた.紀元前4世紀のアテナイでは,輸入穀物の半分がアゾフ海沿岸からのものだったという.このような交易により,スキタイの支配層は豊かになり,大規模な古墳が作られ,豪華な副葬品が埋葬されるようになった.また,スキタイ建国神話では,天から黄金の器物が落ちてきて,それらが王権の象徴になったとされている.これは,日本の三種の神器のようなものだろう.

紀元前に約500年にわたって黒海北岸を支配し,パクス・スキティカと呼ばれる時代を作り,栄華を誇ったスキタイも,その地にサルマタイ人が侵入してきたことでクリミアに追いやられ,さらにゴート人がクリミアに侵入したことで,紀元3世紀半ばには完全に消滅した.

ウクライナとは,そのような地域であった.

時間を進めよう.ウクライナとロシアの歴史を語る上で欠くことのできない,キエフ・ルーシ公国について.

キエフ・ルーシ公国の実質的な建国者は,リューリクの息子イホルの後見人となったオレフとされる.ヴァリャーグ人(ルーシと自称していた)のリューリクは,ノヴゴロド地域の東スラブ人に請われて,862年にその地の公となった.死後,オレフは領土を拡大し,ノヴゴロドからキエフに遷都し,王国を開いた.

は?と思うかもしれないが,ノヴゴロド地域の人々は自分たちで自分たちの領土を治めることができず,外からリューリクを招聘したわけだ.そのリューリクの死後,オレフが実質的な指導者となった.

オレフは有能で,ビザンツ帝国にも恐れられる王国を作ったが,その死後に公位についたイホルは凡庸であった.ところが,イホルが殺害された後,その妻オリハが才能を発揮する.その才智はビザンツ皇帝をも感嘆させたという.当時,キエフ・ルーシ公国では,アニミズム的な多神教が支配的であったが,オリハはコンスタンチノープルで洗礼を受け,キリスト教徒となる.後に,聖オリハとして,ウクライナとロシアで初めての聖人となった.

オリハの後を継いだ息子のスヴァトスラフは勇猛果敢で征服公とも呼ばれるが,遊牧民の奇襲で命を落とす.この奇襲にはビザンツ帝国が絡んでいたとされる.スヴァトスラフの死後,3人の息子の間で血みどろの後継争いが起こるが,三男のヴォロディーミル(ロシア語でウラジーミル)が生き残り,ルーシを支配した.ヴォロディーミルは各地を征服し,当時のヨーロッパ最大の版図を持つ国を作り上げた.

ヴォロディーミルの死後,またしても息子達の間で争いが起こったが,ヤロスラフが大公となった.ヤロスラフは法律を整備し,みずから建設したソフィア聖堂に図書館を設け,キリスト教聖典の翻訳などを行った.このため,賢公とも呼ばれる.ヤロスラフ大公の外交政策で特筆すべきは婚姻政策で,娘をハンガリー王,ノルウェー王,フランス王の妃とし,息子の妻にはポーランド王の娘,ドイツの司教の妹,ビザンツ帝国の王女を迎えた.これにより,ヤロスラフはヨーロッパの義父とも呼ばれる.

ヴォロディーミル聖公とヤロスラフ賢公の時代に,キエフ・ルーシ公国はキリスト教を国教とした.これにより,キリスト教国の仲間となり,キリスト教を通してビザンツ文化を吸収した.ただし,ローマ・カトリックではなく,ギリシア正教を選んだことが,その後の歴史に大きな影響を及ぼすことになる.

キエフにソフィア聖堂と並び建つミハイル聖堂は,ヤロスラフの時代に建立されたものだ.黄金ドームの美しさで知られていたが,1936年にスターリンによって破壊された.ウクライナは,ソ連崩壊と独立の後の困窮期に国家事業としてミハイル聖堂を再建した.キエフのミハイル聖堂は反ソ連の象徴である.

12世紀になると,キエフ・ルーシ公国は解体に向かう.諸侯が分離独立し,10を超える公国ができ,キエフ・ルーシ公国は公国連合体となった.いくつかの有力な公国の一つがウラジーミル・スーズダリ公国であり,ここから分かれたのがモスクワ公国である.

瓦解しつつあるキエフ・ルーシ公国にとどめを刺したのはモンゴルのバトゥ,ジンギス汗の孫だ.1240年にキエフは陥落し,ここからモンゴルによる支配が始まる.モンゴルは,服従と納税の対価として,公国に自治を認めた.モスクワ公国はモンゴルにとても従順であったため,徴税を任され,そのおかげで裕福になった.

そういう事情だから,モスクワ公国に俺がキエフ・ルーシ公国の正統な継承者だと言われると,いやちょっと待てと言いたくなる気持ちはわかる.

それから紆余曲折ありまくりだが,全部飛ばして,第一次世界大戦まで進もう.大戦前にはロシア帝国とオーストラリア・ハンガリー帝国の支配下にあったウクライナだが,大戦時には,ロシアで革命が起き,ポーランド,フランス,ドイツなども巻き込んで,もう訳がわからない戦争&内戦状態に突入した.

ウクライナも,東と西でわかれたりくっついたり,義勇軍や反乱軍が掻き乱したり,ロシアと近づいたりポーランドと近づいたり,プレイヤーが多くてバラバラだったが,最終的にすべてがロシア・ボリシェヴィキ軍に叩き潰された.レーニン率いるロシアが得意な民間人虐殺も行われた.

第一次世界大戦の結果,ロシア帝国の支配下にあったバルト三国とフィンランド,オーストラリア・ハンガリー帝国の支配下にあったポーランド,チェコ・スロバキア,ハンガリーは独立を果たしたが,多大な犠牲を払ったウクライナは独立できなかった.そればかりか,戦勝国の都合で,ソ連,ポーランド,ルーマニア,チェコ・スロバキアに分割統治されることになった.

ただ,ボリシェヴィキが成立させたウクライナ・ソヴィエト共和国は形式上はロシアから独立していた.ソ連においても,ロシアと同様,ウクライナは連邦を構成する共和国のひとつだった.

革命と内戦に最中には,レーニンと共産党は「戦時共産主義」の名の下に,ウクライナで土地の国有化を進め,穀物の強制徴発を行った.穀物はロシア本土へ送られ,ウクライナでは飢饉が起こり,1920-21年には100万人が死んだという.当然ながら戦時共産主義は行き詰まり,レーニンは方針転換せざるを得なくなる.社会主義政策を中断して自由主義経済を復活させ,土地を貧農に分配し,ウクライナ語の使用を認めた.これにより,経済は復活し,文化ルネサンスが興った.

このウクライナ化を終わらせたのがスターリンだ.1927年に権力を掌握したスターリンは,中央集権主義で,民族自治に反対で,農民を敵視し,工業化した社会主義国を作ることに執着した.そこで,1928年から五ヵ年計画を始めた.

五ヵ年計画の重点地域がウクライナで,ザポリッジアの製鉄工場建設など,ソ連全体の20%の投資が注ぎ込まれた.同時に農業集団化(ソフホーズやコルホーズ)が進められ,農民は農地から切り離された.反抗する農民はシベリア送りになるか処刑されるかだった.この混乱が元でウクライナで大飢饉が起こる.

ウクライナで不作が続いたにもかかわらず,ロシアは穀物を強制的に徴収し,穀物を隠した農民は処刑し,穀物を工業化する都市へ送るとともに,外貨を稼ぐために輸出を続けた.ウクライナで300万人以上が死んだとされる飢饉の最中にだ.ロシアでは飢饉は起こらず,この人為的な大飢饉はソ連では公式には存在しないことにされた.

以前なら,ろくでなし国家だと非難したところだが,公文書改竄は日本のお家芸でもあるので,人様のことについて言える立場にない.

この大飢饉に続くのが,スターリンによる粛清である.ロシアでも激しい粛清が行われたが,それに先だって,ウクライナでは粛清が行われ,1933-34年だけで10万人,1938年までには17万人のウクライナ共産党員が粛清されたという.文化のロシア化も進み,ウクライナ文化は絶えた.

こうして,ウクライナはソ連の中に埋没していった.ところが,1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し,グラスノスチとペレストロイカを掲げると,それが民族主義に火をつけ,ソ連の解体にむすびついていった.それでも,ゴルバチョフはソ連の連邦制維持を望んだが,1990年にリトアニアが連邦離脱を宣言した.1991年にはクーデターが起こり,ゴルバチョフは拘禁された.このクーデターを潰したのが,ロシア最高会議議長のエリツィンで,これを機に,主導権はゴルバチョフからエリツィンに移った.

このドタバタ劇の中,8/24にウクライナ最高会議は独立宣言を採択し,クーデターに関与したとして共産党を禁止した.12/1に国民投票が実施され90.2%が独立に賛成した.12/7-8にはウクライナのクラフチューク,ロシアのエリツィン,ベラルーシのシュシケヴィチの3首脳が集まって,ソ連解体を宣言した.12/25に連邦維持を画策していたゴルバチョフが大統領を辞任し,ソ連は名実共に消滅した.これに前後して,各国がウクライナの独立を承認した.日本も12/28に承認した.そして,今に至る.

途中,省略しまくっているが,詳しく知りたい人は本書「物語 ウクライナの歴史」を読んでもらいたい.

本書を読んでみて,ウクライナはロシアのものではないなと思った.ロシアとウクライナ人は同じ民族だという主張にも,侵攻を正当化する力はない.

© 2022 Manabu KANO.

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