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【ふしぎ旅】お今ヶ淵

 新潟県三条市に伝わる話である

 昔、三条に生駒六郎左衛門という郷士が住んでいた。
 ここに、お今という女中が奉公していた。
 お今は気立てがよく、そのうえ、非常に美しかったので、望まれて五ノ町の海産物問屋の息子に、嫁入りすることになっていた。
 ところが、お今の玉の輿をひそかに妬むものがいた。
 同僚の、おきらという女中だった。
 おきらは、お今より三年も前から奉公していたが、気立てが悪いため、一度も縁談がなかった。これが悔しかったのである。
 桃の節句の前日、六郎左衛門はお今に家宝の皿を渡し「これを洗って、帰りに餅草をつんでおいで」と言いつけた。
 お今は桐箱に収まった十枚の皿を持って、近くの五十嵐川へ出かけ、皿を洗ってから、近くの土手で餅草をつみ、しばらくたって、もとの場所へ帰ると皿が一枚なくなっていた。
 びっくりしたお今は川をのぞいて見ると、川底に落ちていた。
 お今を失敗させようと思っていたおきらが、こっそりしのんで来て、川へ投げ込んだのだった。
 お今は身の危険も忘れて、川の中へと飛び込んだが、そこは深い淵になっており、たちまち川底に沈んでしまった。 
 一方、六郎左衛門は、夕方暗くなっても、お今が帰らないので、おきらを捜しに出した、
 おきらは万事うまくいったと、内心ほくそえんで土手まで来ると、川の中がかすかに明るくなっていた。
 のぞいて見ると、淵の底に、お今がうらめしそうにおきらを睨んでいた。
 そのうち、お今は手招きした。するとおきらの身体は引っ張られるように、淵の中へと吸い込まれてしまった。
 それから、この淵を「お今ヶ淵」と呼ぶようになった。

小山直嗣、『新潟県伝説集成下越篇』


五十嵐川

 三条市街を流れる五十嵐川は、それほど大きくはないが、水量は豊富で、生活用水として重要な川であった。
 同時に、暴れ川として、水難事故や洪水などの災害も多く、近年でも平成16年の三条市7.13水害などが記憶に新しい。

五ノ町付近の五十嵐川

 五十嵐川を訪れても、当時より何度も護岸補修されており、お今が淵が実際にどこにあるかはハッキリと分からない。
 ただ五ノ町の地名は残っており、そこに嫁ぐということは、遠くないであろうということは想像出来る。


御蔵橋

 嵐川橋、御蔵橋という五十嵐川にかかる橋の名前が、荒れる川と、問屋などの蔵に続く道という名残ではないかとも思えるが、ハッキリとは分からない
 その辺りには、幾つかの社があり、おそらく水死者の供養では無いかと思うのだが、そのような由来書のようなものが無いので、断定はできない。
 ただ、それだけ、水難事故があるということは推測できる。

川付近の社

 さて、新潟版番町皿屋敷などとも呼ばれる、この話であるが、土手の下の五十嵐川で皿を洗い、その後に土手で餅草(ヨモギ)を摘ませるという行為によって、大事な皿からなぜ目を離したのかと、キチンと説明されているあたりが、よく練られているとかんじさせる。

五ノ町近くにあるお地蔵様

 近くに、昔よりの繁華街があることから、より面白く、より怖くといった感じで話を作り込んでいったのだろう。
 語る側としては、お今をおきらが手招きし、淵の中へと引きずり込むシーンあたりがクライマックスなのだろうが、よくよく考えると、お今もおきらも、川に沈んでいるので、誰がそれを見ていたのか、という話になってくるのだが、これについては、他の似たような怪談でも、あまり言及されることは少ない。

五十嵐川(皿を洗うような浅瀬もある)

 ともかくも、「語り継がれることによって、話の整合性がとれてくる」ということは、伝説、昔話、民話などといったものを語ることにおいて、あまり触れられることは少ないが、かなり重要な視点のような気がする。
 「事実として何があったか」ではなく、「どう語られたか」の方が、その時代の空気、雰囲気というものを伝えることに他ならないからだ。
 さらにはブラッシュアップされることにより、「時代が何を伝えたかったのか?」が鮮明になってくる。
 とは言え、私は民俗学者でも文学者でもないので、それ以上は詮索しない。
 ただただ、女性の嫉妬の怖さと、水辺の怖さは、昔も今もそれほど変わらないなぁなどと思うだけである。

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