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副業研究チャンネルDポンの光と影/様々な選択肢を与えてくれた親父


様々な選択肢を与えてくれた親父

岡山県の小さな町にある
建設業を営む家の長男として生まれた僕。


なにひとつ不自由のない生活。
小さな町で、
誰からも可愛がってもらえる
お坊ちゃまとして育ちました。


自由奔放で好奇心旺盛な僕。

両親、特に親父は
そんな僕に
色々な選択肢を与えてくれる存在でした。


夏はジェットスキーにウェイクボード。
冬はスノーボードにスキー。


休みのたびに、親父は

「お前も行くか!」

と、僕を連れていってくれたのです。


時には真冬の山頂で

「滑って降りてこい!」

と無理矢理放り出されて
泣きながら滑ったこともありましたw


また、
遊びだけではなく

習字教室、
剣道、
スイミングスクール、
サッカー

と毎日習い事にも行きました。


小学3年生の頃、
日本でプロサッカーリーグが誕生し

「僕もJリーガーになりたい!」

とサッカーを始めました。


他の習い事は全て辞め、
サッカーひとすじのサッカー小僧に。

小学校時代は
フットサルの全国大会に出場したり
地域選抜にも選ばれたりしましたし、

サッカーを通して生涯の友達にも恵まれ
とても充実した日々を送りました。


中学時代のすべてをサッカーに注いできた僕。



そんな僕に
今でも忘れらない思い出があるのです。



県ベスト4をかけた試合。

その試合は接戦で
最後PK戦にまでもつれ込んだのです。

2番目のキッカーを務めたのが僕でした。

狙いを定めて心を落ち着けようとしましたが
何かが頭をよぎり
心を落ち着けることができませんでした。


そして悪夢は現実のものとなりました。


そう、
僕はPKを外してしまったのです。


全国大会への出場が叶わず
涙が止まらなかった事は
今でも忘れられません。

チームメイトやその家族がかけてくれた
優しい言葉。

あまりにも愛に溢れたその言葉が
僕の涙腺を崩壊させました。



毎週のように
サッカーの試合があれば応援に来てくれた両親。

僕以上に
僕が試合に出る姿を
楽しみにしてくれていたのかもしれません。


今でも嬉しいのは
僕が出た試合が掲載された新聞記事を
両親はずっと大事に持ってくれている事。

両親が現在も大切に保管してくれている
当時の記事


そう、
僕は愛されて育った子供だったのです。



真剣に悩んだ人生の選択、その結末は

高校の進路を考える年齢になった僕は

大学進学を見据えて
地元の進学校を目指すのか

サッカーをするために
遠く離れた強豪校を目指すのか

という選択に迫られました。


サッカーを真剣にやっていたからこそ
苦悩があったのです。

サッカーは大好きです。

しかし僕には
サッカー選手として
突出した武器といえる強みがなかったのです。


僕より上手なチームメイトさえいるのです。


世の中には
僕より上手い人はいくらでもいるし、

それを乗り越えて
トッププレーヤーになるイメージが
どうしてもできなかったのです。

張り詰めた緊張感の中、
ミスしないようにプレーするのに必死だった僕。

大切な場面でPKを外した
あの悪夢が甦ってきました。

そんな僕が
強豪校に行ってスタメンが取れるのか?!

活躍できるのか?

その才能があるのか?

そもそもまた辛い練習の日々を過ごすのか?



そう、
気づいたのです。

僕にとってサッカーは

「楽しい」

ものではなくなっていた事に。

進学校に行ってもサッカーはできる。

しかし
サッカー経験者がいない弱小チームでは
県大会すら目指せないかもしれない。


しかしそこには

「楽しいサッカー」
「自分らしさ」

があるのかもしれない。

悩んだ結果
僕は地元の進学校を選択したのです。

そして
地元の進学校は難なく合格し
入学の日を迎えました。


そう、
僕は逃げたのです。


厳しい中で勝ち上がっていく選択よりも
楽な道を選択したのかもしれません。

それが正しかったか
間違っていたかはわかりません。

しかし
そう、僕は苦しい道から逃げたのです。


逃げた高校生活はというと
僕が思い描いた高校生活がそこにはありました。

そう、
高校生活は本当に楽しかったのです。

予想通りの弱小チームで
一際目立つ存在になった僕。

そう、僕はスターになっていたのですw


極めつけは
高校入学し3ヶ月で初めて付き合った彼女が
美人なサッカー部の先輩マネージャー!

親父でさえ

「お前の歴代の彼女でダントツ」

と認めるほどの美人でしたw


楽しいに決まってるw


男性なら誰しも思い描くような、
華々しい高校生活を送る順風満帆なぼくでした。


そんな順風満帆な僕の頭をよぎったのです。

このまま
サラリーマンになるのか?

それとも
建設会社の3代目か?

僕の実家は鉄筋屋で、
親父は2代目。


それなりに裕福だったかもしれません。


でも
内情はというと

「3K=危険、汚い、キツい」

と呼ばれる仕事でした。


高校時代に
何度かアルバイトをしたことがありました。

朝早くに起きる。

現場では
ラジオ体操から始まる重労働。

・・・これが一生続くのか。

僕は幸せな未来が描けなかったのです。


一方
「よいこちゃん」の僕。

そう、
僕は人一倍空気が読める

「良い息子」

だったのです。

ある日、
母に尋ねました。

「親父はオレにこの会社を継いで欲しいのかな?」

するとオカンは

「パパは自由にしなさいって言うと思うよ」

と答えました。

親父にも尋ねました。

「鉄筋屋はやめとけ。
今の景気が続くわけでもない。」

とぶっきらぼうに僕に言ったのでした。

親父の真意はわかりません。

その時ホッとした僕がそこにいました。

正直、
未来が描けない仕事だと。

しかし、

親を喜ばせたい、親の希望を叶えたい

と思っていた葛藤があったのです。

だから
「鉄筋屋」が選択肢から消えたことで
心の底からホッとしたのを覚えています。

なら、サラリーマンになるのか?

・・・イヤだ。
裕福になれない。

サラリーマンの延長線上に
自分の未来はどうしても見えなかったのです。

なんとなく。



そんなふうに思い悩む僕に
ある日親父がこんな提案をしてきたのです。

「ボート選手になりゃあええがな」

そう、
僕の親父はコテコテの岡山弁ですw

いわゆる競艇選手、
ボートレーサーにならないかって話だったのです。

僕は小さな頃から何度か親父に連れられて
岡山県にある児島競艇場に
連れていってもらった記憶がありました。

みなさんはご存知でしょうか?

競艇選手の平均年収は1600万円!
サラリーマンよりも圧倒的に稼げるんです!

一時は本気で目指した僕がそこにはいました。

しかし
思わぬところで
断念せざるを得ない理由があったのです。

軍隊のような競艇学校に入る
当時の条件の一つに


身長170センチ以下体重55キロ以下


という項目を超えてしまったのです、
ギリギリ。

高校入学時168センチだった身長が
高校2年の身体測定では
170.5センチになってしまっていました。

そう、
ギリギリOUTだったのです。


ボートレーサーになる夢は
成長と共に夢で終わりを告げたのです。


「競艇選手になって稼ぐ」
という選択肢を失った僕は

サラリーマンになるかはわからないけど
大学に行ってもう少し遊んでいたい


そんなふうに感じていました。

そう、僕はまた逃げたのです。

そんな僕は
近畿大学経済学部に合格を果たし
進学しました。



推薦入試で近畿大学に進学した僕。

人生ではじめての一人暮らし。
人生ではじめてのアルバイト。
人生ではじめての違う地域から集まった友達。


はじめて尽くしの大学生活が
スタートしたのです。


親から仕送りをもらい
家賃や生活費をやりくりし、

アルバイトで稼いだお金は
全て浪費に使いました。


友達と朝までお酒を飲み、
ゲームをし、
お昼まで寝て、
大学の学食でまた友達と会い
夕方からバイト。

こんな堕落した毎日がとても楽しかったのです。



この楽しさは一生続くと信じ

僕は
堕落した道を
一直線に転がり落ちていったのです。




ある日、僕を
奈落の底に突き落とす出来事が起こりました。



そう、

「留年」

したのです。

大学には単位というものがあり
これだけの単位を取得しないと
進級できません、みたいな制度があったのです。

2回生の時点で、
最低でも80くらいの単位がないと
3回生に上がれません的な制度です。

まったく大学の講義を受けてなかった僕の単位はどのくらいだったのか?

「18」

・・・その時人生で初めて走馬灯を見ました。笑


しかし、
それは
後に僕が大学を辞めて
ネットワークビジネスという
闇多き業界に足を踏み入れる
大きなきっかけの一つになったのです。


良かったのか、悪かったのか。

良かったに決まっています。笑


足を踏み入れたきっかけは
親父でした。

そう、
僕の親父はネットワーカー。

しかも
成功しているネットワーカーだったのです。



<第2話>副業研究チャンネルDポンの光と影/人生を大きく変えた出来事

<第3話>副業研究チャンネルDポンの光と影/YouTubeを始めたきっかけ


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