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歳をとるということ。心の成長について(2) ー“残念無念と早死にする人生”のためにー

さて、前回の続きである。とは言っても前回を書いたのは一年半も前だ。やれやれ。気を取り直して書いてみましょうか。お付き合い頂ければ幸い。

(1)では、実感としては、精神年齢が30代で停止している気がする、という話から書き始めたのだった。幼少期には肉体と精神は相伴って実際に発達すると考えてよいだろう。肉体の成長は目にも見えやすく、床の間の柱に刻まれた身長の記録のように記録もしやすい。一方、精神の発達・成長も目覚ましく、発話から始まり、語彙が増え、笑い泣き怒る単純な感情表現から次第に豊かな感情表現が為されるようになるなど、明らかな部分も多い。しかし、やがて変化の激しい、幼年期、思春期、青年期を過ぎて、大人と呼ばれる年齢になるにつれ、その変化は穏やかになり、目立たなくなるように思える。それは、極めておおまかな意味で肉体の成長・変化とパラレルと言っても良いのかも知れない。ところが、そのパラレルな関係が崩れる時期がやってくる。明らかに肉体の成長は20代後半にはピークを過ぎて、あとは現状の維持から、やがてゆるやかな下降線を描くに至る。
 つまり、降り始めた、と認めざるを得なくなるのが30代の前半、ないし後半の辺りであり、そこまではなんとか伴走してきた肉体と精神のうち、肉体が少しずつ沈んでいくのを精神は認めざるを得ない、という状況になるのだ。
 いわば、30代に精神は取り残される。
 そして最早、精神は自らがどんな場所に居るのか、測る術を見失ってしまう。それが、実感としての「精神年齢が30代で停止している気がする」ことの実相なのではないか。

 ところで、ぼくは(1)の結びの文として、「心の成長を測る術があれば、家の柱には見えない鉛筆の線が、身長の止まった先に、まだまだ刻みつけれているのではないか。」と書いたのだった。
 つまり、肉体と違って、精神には物理的なピークのようなものはないのかもしれない、という仮説だ。いや、あるのかも知れないが、そうだとしても、肉体の栄枯に精神が付随しているとは限らない。肉体が衰えるのと時を同じくして精神も老いていっている、とは限らない。実際のところ、測る術がない(註)ため分からないが、精神は成長し続ける、あるいは、成熟し続けている、という可能性はゼロではあるまい。
 (註)もちろん、心理学の分野などで心の成長、精神年齢などを計測する、数値化する、試みがないわけではないだろう。しかし、心の領域、概念は広大であり、何らかの意味で心の一部分を数値化する方法はあっても、総合的に心を測るすべは今のところないと言っていいだろう。

 そんなことを思うようになったのは、でも結局のところ我田引水にほかならないのかも知れないのだ。つまり、こんな風に考えてみたのだった。
 今年、ぼくは63歳になってしまった。
 ところで、しばらく前から、上に書いた通り、少なくとも実感としてはぼくの精神年齢はせいぜい30代の後半で止まっている。まぁ、成長しているかどうかは怪しいものの、なんとか現状維持している(と、思いたい)。しかし、もし仮に、少しずつ、本人にも気がつかれない程度にまだ精神の成長があったとしたら、いつかなる筈だった「大人」になり、やがて老人になって、精神が全き「生」を生き抜いて成仏するまでどのくらいの年月が必要になるのだろうか? と考えた時、全くもって何の根拠もなく。
 「そうだな、320歳くらいかな」と思ったのだ。
 ぼくの精神の全過程(生まれて成長して老いて死ぬまで)はおおよそ320年だ、と。
 たぶん、そうであれば、ぼくはいつしか成熟したオトナになるだろう。しかし、残念ながら、現実には「残念無念と早死にする」以外にないだろう、と。仮に、ぼくが100歳まで生きたとしても、320年の精神の生涯に比すれば、31歳を越えたところで死んでしまう計算になる(人生100年と仮定して)。つまり、まだ人生の3分の1も生きずに早死にする、ということだ。

 以上、お読みになったとして、おそらく多くの人は、「ん? 何を言っているんだか分からない。何だか辻褄のあわないへ理屈を聞かされたような気がする」んじゃあるまいか。とは思う。仮定の上に仮定を積み重ねて、何かを言おうとしているのだが、「320年で精神的成熟に到達説」を始めとして、あまりに主観的な、いわばファンタジーに近い文章だからだ。そして、自分で書いて自分でダメ出しをしているみたいで困ったものだが、つまり理屈ではないのだ。というか、まずは自分を何とか説き伏せようとしている文章で、「残念無念と早死にする」というところにたぶん力点があるのだが、それにしても正直説得力はなく、説明として成功しているわけではない。(笑)。

 そう、如何にも無理がある。一体このぼくは何を言いたいのか?(笑)
 つまり、ものごとには終わりがある、ということ。いかに未熟で、何事も為し得ず、子どもも残さず、きれいさっぱり消えてしまうだろう、ぼくの人生にも。
 そんなこと、百も承知に違いないのだが、それでも何とか元気よく生きていくための浅慈慧を絞り出そうとしているわけだ。やれやれ。

 320歳で精神的に成熟してオトナになるって?
 本当に、やれやれだな、いやはや。


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