キタノウミ

I will never dial a cliché.

キタノウミ

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最近の記事

ひとりでいるとき、悲しいとき、本当に辛いとき

本当に辛いのは、全部が自分のせいだと思い込むことだ。自分の本質に全ての諸悪の根源を還元してしまう。いったん他人のせいにしよう。環境のせいにしよう。そうなってもしょうがない、私は悪くないんだと無理やりにでも思ってみよう。 それから、反省点は自分の本質ではなく行動に求める。自分がこういう行動を取ったのがまずかったのであって、本質が悪い訳では無い。臆病者の何が悪いんだ?無理にでも自分を肯定する。すると、自分に良いところがないなんてことは有り得ないんだというごく当然のことが分かってく

    • 全てを信じることと何も信じないことは同義だ

      • タイムリミットがあると人は行動的になれるらしい

        私はあと1年と半分くらいしか日本にいれない。 1年半後、国外へ出て、最低でも6年は日本に帰って来れない。これは自分が選んだことだ。だけどぼんやりと思い描くこととそれが決定事項になることは違う。 あと1年半。長いようで短い。家族や友人と、あとどのくらいの時間を過ごせるんだろう。自分はどのくらい彼らに感謝を示せてるんだろう。 そう思うと次の1年は身の回りの人と過ごす時間を大事にする年にしたいと思った。疎遠になってあた人にも連絡を取ってみよう。だって私にはタイムリミットがあるのだ

        • 「普通/普通でない」をグラデーションで捉え直してみた

          私は変わっている人間が好きだ。 なぜなら自分がありのままでいても"普通"で居られるから。小中学校時代はだいたい人から変人だと言われてきた。それが嫌で高校の時はと何とか"普通の女子"に溶け込もうと、自分の個性を消して愛想笑いばかりしていた。そこで気づいたのが、"普通の女子"というのは何も個性がない女子ではなく、常識の範囲内でキャラクター性があってそれが受け入れられている女子なのである。だから高校生の頃ひたすら空気を読んで目立たないようにしていた私は、たまに変なことを言って変なと

        ひとりでいるとき、悲しいとき、本当に辛いとき

          「努力すれば誰でも可愛くなれる」なんて言葉、私は絶対信じない。それでも、自分の醜さを忘れ、少しでも楽しく生きることは出来ると信じている。

          「努力すれば誰でも可愛くなれる」なんて言葉、私は絶対信じない。それでも、自分の醜さを忘れ、少しでも楽しく生きることは出来ると信じている。

          「わたしに無害なひと」の感想メモ

          だから私は、いつも交換日記を止めていたのかな。いつか終わるのに、永遠の顔をしたそれ。ゆっくりと停滞していくのを見るくらいなら、いっそ自分がきっぱりと止めたかった。 冷蔵庫に残った、賞味期限の切れた最後の卵、チーズ、飲みきれなかった牛乳も。 腐敗、終焉を見るのが怖くて、箱の中に閉じ込めた。 結局私は、どちらを好むんだろう。永遠に回り続けることといつか摩擦で止まってしまうことのどちらを。

          「わたしに無害なひと」の感想メモ

          自分と同類だ、と感じる作家の文章は、切り口からひたひたと入り込んで、深く体の奥で傷を広げていく。 そういう自我に籠った人間、自意識から逃れられない人間の文章は私を惹き付け、傷つけると同時に癒す。 私にとっての、湊かなえの文章であり、チェ・ウニョンの文章だ

          自分と同類だ、と感じる作家の文章は、切り口からひたひたと入り込んで、深く体の奥で傷を広げていく。 そういう自我に籠った人間、自意識から逃れられない人間の文章は私を惹き付け、傷つけると同時に癒す。 私にとっての、湊かなえの文章であり、チェ・ウニョンの文章だ

          「何かを得るためには何かを失わなければならない」の逆的なこと

          「何かを得るためには何かを失わなければならない」 という有名な言葉がある。 しかし私はこうも思う。何かを失っている時、人は代わりに何かを得てもいるのだ、と。例えば受験生が持ちうるすべての時間を勉強に捧げている時、代わりに彼らが得ているのは、レールの上をただ歩けばいいという安心感だ。明日も明後日も、今日と同じように生きればいいという甘美な安心感。 兵士に自主性が求められないように、受験生にとっても自主性なんてものは不要である。 だからすべてが終わったあと、もう自由なんだ

          「何かを得るためには何かを失わなければならない」の逆的なこと

          お金も自由もない小学生のわたしは、2次元のアリンコだった。 束の間の自由を得た大学生のわたしは3次元のお子ちゃまだ。 自我と愛を手に入れたとき、きっと4次元の大人になれるだろう。

          お金も自由もない小学生のわたしは、2次元のアリンコだった。 束の間の自由を得た大学生のわたしは3次元のお子ちゃまだ。 自我と愛を手に入れたとき、きっと4次元の大人になれるだろう。