あなたが忘れても、わたしが忘れても

これは自らへのオマージュだが、この懐古的かつ憂鬱的な感情というものだった。
何処を向いても、何を見かけても、なんだか懐かしく感じられるというような、午前七時のまだ涼しい風と木漏れ日だった。
その頃の私はあまりにも臆病で、幸福的感情を持て余して、いつか無くなるのが怖い、と、また、精神的孤独が失われたことの寂しさ。
眠れなかった私は飛び起きて逃亡を企てた。ドアを静かに閉め、エレベーターのボタンを押す。私は泣いていた。
まだ日が昇る前だった。駅の方向に照明するのをやめたタワーが見えた。私はそちらへ歩いて行った。

青さの象徴が死んだ。あいつは死んだ。あいつは死んだ。
菜の花をヒールに詰める。あいつは死んだ。
苦しかった。とにかく苦しかった。

記憶に少しでも残りたかった!
忘れてほしくなかった
全てのミーム汚染を

電車に乗る 表彰を受ける。
あなたと同じ格好をした人、
あなたにかまってもらえる人。
私より強い人。

もし
幸福的感情を定義するとすれば
自らの選択を、思想を、生き方を、
過去を、未来を、
これで良かったんだ、これで良いんだと
認める、あるいは信じ込めるという状態のことだろうと思う。

ただ私は私になりたかった。
私が私になれるまで、ずっと私は歩き続けなければいけなかった
だから泣いていた
だから悩んでいた
それは紛れも青いということだったし、
それが失われるのが怖かったし、
二十歳になってしまったとき私は恐ろしくて絶望して泣いて、
それでいいのだ、歳を食うということが、
重ねることが、
朽ちていくことが紛れもなく甘美であると
知らなかったことが幼さとしてそれが
それでしっかりと美しかった

苦悩も、苦しまなくてはいけないと誤解していたこともそれで良かったのだと思えたのであれば、
忘れないように書き留め続けることも、いつか一生懸命に考えたことが、書いたことが幼稚で恥ずかしくて目を覆ったとしても
それでいいのだと

そうして今もちゃんと正しく間違えていけたのならば
何が私にとって魅力的に見えるのかと
陳腐に見えることを覗いては、
覗き込まれて恥をかいても

まだ

生きているうちは

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