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 九月の下旬,つい先日まで続いていた殺人的な暑さというものが収まってきた頃,薄い毛布をかぶって眠りこけている男がいた.いや,実際には彼は眠っておらず,目を開けて静かに項垂れていた.彼は名前を杉田京作と言った.平均より少し背が高く,その帳尻を合わせるように身体を丸め,その様子ときたら,万年床に腐りはてて,危ない成分の含まれて怪しく光る茸でも生えてきそうなほどだった.彼は日中の殆どをぺたんこになった敷布団を毛布の隙間で過ごし,食事も十分に摂らなかったから,このように貧相な五十キログラムにも満たない質量の身体が出来上がった.彼の住んでいるアパートは高速道路の真下にあったから,いつも車の通過する音が聞こえてきて,過度な沈黙よりもかえって都合がよかった.ぼうっと壁の方を眺めているばかりその男の前へ一匹の蜘蛛が歩いてきて,彼の目の前でちょうど止まった.小さくて,特に問題になることもなければ寧ろ害虫駆除のために役立ちそうな蜘蛛だ.しかし彼は本日初めて動くものを見かけたので,それを捕まえようと上体を起こし,枕元のティッシュケースに手を伸ばした.彼が肘の関節を湾曲させると紙箱との擦る音が聞こえた.蜘蛛は先ほどから鳴り響いている車たちの走行音にはびくともしなかったのにも関わらず,その音に驚いたようにして走り去ってしまった.京作の手はそれで行き場を失ったが,それ以上蜘蛛を追いかけようとはせず,ちり紙を丁寧に四つに畳みまた使えるようにティッシュケースに挟み込んだ.
 彼はこの一連の動作をきっかけにしてやっと起き上がることを決心したようだった.時刻は正午を回っていたが特段焦る様子も見せず,ベランダに続くカーテンを開けた.続いて,曇って灰色に調光された太陽光が部屋の中に侵入する.朝方に降った雨は止んで外のアスファルトもところどころ乾いてきていた.毛布を少し横へ片付けて立ち,顔を洗おうと思い立った.ここはワンルームだから物を完全に整理するには収納スペースが不十分だった.キッチンのあたりなどはあまり使っていない食器には埃が溜まっていたし,調理台の上は最早物置と化していた.バスルームは玄関の方面に位置していたがそれはベランダとは反対方向にあったため,狭い空間ながらも徐々に暗くなっていくのが分かったし,輪郭の鮮明でない自らの影が一歩歩くごとにゆらゆらと動いた.そして,「パキ」と音が鳴った.何かを踏んだようだ.それは額装された一枚の絵であった.少女が一人描かれていたが,丁度顔の部分が割れて表情が見えなくなってしまっていた.彼はやっと思い出したようにその絵を拾い上げた.裏面には,ましろ,とこの絵の作者であろう人物の名前が書きこまれていた.
 ましろというのは,以前この部屋に住んでいた女のことだ.だからこの部屋には彼女の私物も残されていた.水道の蛇口を捻ると,京作は自分の喉が渇いていたことをその水音によって思い出した.鏡を見たが顔とも似つかないような黒い塊がそこに映っていて,しかしそれを特段不思議にも不気味にも思わず手に水を掬って数回にわたって飲み,顔を洗い,歯も磨いた.タオルで余分な水気を取り除くと本棚から彼女のノートを取り出した.その最初のページには,見出しに(手紙でそうするように)女性らしいきれいな文字でこう書き込んであった.
「京作へ」
それから彼は窓の前に座り,膝の上にそれを広げ,ぎっしり書き込まれたページをぱらぱらめくって最後までそれをやった後,もう一度最初のページを開いて,そして今度は読みだした.

 京作へ
 この部屋が開いたままだといいね.すぐには私のことが見つかりませんように.随分前から,私がどんな風に暮らしたいと夢見ていたか,それは以下の通り.ベランダに柔らかい背もたれ付きの椅子を置いて,お昼ごろ,それに腰かけて長々と身を伸ばし,この下を流れている川のほとりに咲く桜,それがひらひらしているのを,子供たちが一生懸命に捕まえようとしてジャンプしていて,私はお日様が入ってくるのを身体で精いっぱい受けながら煙草を吸うの.そうして,向こうに橋が架かっているでしょう,あの下には菜の花がいっぱいに咲いていてね,そんな景色の中で転寝をする.それとも,私は光の方に向きなおして,きみの顔が良く見えるような具合にね.四時になると,もっと平らに寝そべるか,まあそれも,日が低くなるか,それとも日差しがきつくなったとしての話.その時刻には,太陽は斜めになって,部屋の中へ柔らかい光を届けようとする.私はそれがまんまるなのを見つめて,また,橋の上に部活帰りの学生たちがジャージで自転車を転がすのを見つめる.うんと気持ちのいい春の陽気が彼らを包んでいる.私は殆どの時間を(それは煙草を吸うためでもあるけれど),このベランダで過ごしたい.そうして,それらの瞬間が,私のものであると言い切るの.悪くないでしょう.どこでも,私が死んでしまったと思われているのはありがたい.こんなに理想的な場所があると知らなかった.とっても幸運なことだと思う.
 ここに住むと決めたとき,私は出かけるふりをして必要な画材などを全部持ち出してここへ置いておき,夜になって帰ってきて,それから遺書を書いて,その指定した海のほとりの崖のところに靴を置いてきた.こうして,自分が死んだものだと思わせて,おかげでみんなに,私が生き延びて山ほどやらなくてはならないことがあるって信じてもらう必要もなくなって,こっちはぴんぴん生きていればいいというわけ.
 面白いのは初めから,誰も注意を払わなかったこと.幸い私は友達が多いわけじゃなかったし,ましてや男の子の知り合いも居なかった.と言うのも友達とか男の子というのは,いつだって真っ先にやってきて,ばかな真似はやめようぜ,町へ帰ろう,前と同じように,何もなかったような顔をして,また全部はじめからやり直せ,全部というのはつまりカフェや映画館に通ったり,汽車に乗ったりすることだけど,そういうことを言うものだからさ.
 ときどききみは私が餓死してしまわないように食べ物を持ってこの部屋を訪ねてくる.何しろ私が生きているということは(皆が私の顔をわからなくなるまでは)ばれてはいけないことだからね.人から何か話しかけられることもないし,こっちの方でも大して話すことはない.そんなことはちっとも苦にならない.だって,何年も前から私は黙っていることにならされているし,おかげで私は耳が聞こえないというふりだってできたわけだからね.

 京作は数秒間読むのをやめ,目をまるで休ませるかのように宙に泳がせた.数か月伸ばしっぱなしでだらしなく伸びた髪を携えた頭蓋をぽりぽり掻きながら,もう一度ノートの上に身をかがめた.ページをめくると,ましろ,彼女の文字で以て,またしても,京作へ,と書かれていた.これは彼女なりの,ここから新しい文章が始まりますよ,という合図なのだろう.

 京作へ
 きみのおかげで,京作,つまり,きみが存在し,私はきみのことを信じてるから,私はやっとこの世界との接触を保っていられるんだ.きみは仕事をして,しょっちゅう街のなかに,つまりは交差点だの大量の街灯だの,その他なんだかんだにかこまれて暮らしてる.きみはたくさんの人たちに向かってこう言う,あの団地の空き部屋の一室は鍵が壊れてしまっていて,そこに勝手に住み着いているいかれた女を知っているとね,すると連中はきみにたずねる.どうしてそんな奴を病院に閉じ込めてしまわないんだ?言っとくけど,私はきみに反対する気は毛頭無いんだ.私の身体はいたって健康だし,こぎれいな池付きの庭園があって,お手伝いさんを雇っているような家で静かに人生を終えようなんて欲求もない.他のことなんかどうでもいいんで,何がどうなろうとこっちは想像力に満ち満ちているし,こんな絵も描ける.
(そこには空を駆けるパステル色の鯨の姿がクレヨンで何度も塗り重ねられたみたいに描かれていた.少し反対のページにそれが写ってしまっていたが,文字は問題なく読める程度のものだった)
 きみはといえば,幸いなことに,きっと記憶のうず高い堆積の間から見分けられるはずだ.丁度かくれんぼをしていて,きみの黒い瞳がに光が反射したのを葉の茂みの間から覗いているのが見つかり,いっぺんにそれを分かった私が,もう葉っぱなんかに騙されず に甲高い声で〈見つけた〉と叫ぶときみたいに.

 彼はましろのことについて何か思い出そうというように頭をかしげる素振りをしたが,不思議と,なんともない気持だった,彼は未だ,待つことができた.そのときが来れば,彼は彼女に,山ほどいろんなことを言ってやるだろう.例えば,地球はまるくなく,宇宙の中心にあり,あなたは紛れもなく今までもこれからも万物の中心なのだと言って聞かせてやるだろう.そうすれば彼女は,もう自分のことを見失うこともないだろうし,またそこらの街角で見かけた,ぶつかりそうになってはっと驚き,こちらと同じように少し恥ずかしそうにはにかんだ後に慌ててすました表情をして燦然と立ち去っていったあの女性のように,上手に溶け込んでやっていくチャンスを九十九パーセント手に入れることができるだろう.彼女にはまた,恐ろしいのはただ一つ,地球が逆様になり,彼女の足は上,頭は下になり,太陽が六時頃海に落ちてきて魚は茹でられ,陸の生物は視界が真っ白になるほどの蒸気に肺を満たされて窒息死してしまうことだけだと言ってやるのだ.
 彼は網戸を開けるとベランダへ出た.そこにはノートに書かれたような川も桜の木も大きな橋も見当たらず,インターチェンジのらせん状になった道路の曲線がひしめいていた.それとは対照的に背もたれのある椅子は置かれていて,その上にはクッションが敷かれてあった.京作には何もかもが見えていたわけではなかったが,どうも電信柱などが無数に生えていて,その向こうの景色などは想像してみるほかなかった.ときには,自分が推測していたのかどうかあやふやになり,下まで降りていく必要があった.下へ下へ降りていくのにしたがって直線と曲線の錯綜というのか,硬直していたものが次第に解けていき,あらゆるものが物質特有の光機を以て煌めく様子が見て取れた.だが,それと同時に霧がまた生まれてきた.こういう類の風景の中では,何事についても確かであると明白に言い切ることは可能ではない.そこでは人というのは多少なりとも奇妙と称するしかかなわない未知の人であり,それが都合が良くないとしてもそれは仕方のないことなのだ.他の部屋に灯っていたいた明かりも,そこに住んでいる人たちの表情ですら,さらには下を通っている車の様子も京作が下りていくのに合わせるように暗くなっていった.地面にすぐ近いあたりでは,さっき降りやんだはずの雨のペトリコールが,いまだにびっしりとこびり付いているようだった.
 太陽光線は分厚い雲に遮られているのにも関わらず幾つかのものをゆがめていた.道路はまるで白っぽい液体でできた板のようなものと化していたし,時折,自動車が数珠つなぎになって通り過ぎて行き,そして突然,大した理由らしき理由もないのにも関わらず黒い金属の表面は爆発し,らせん状の稲妻がエンジンカバーの隙間からほとばしり出てあたり一面を炎上させ破壊し尽くし,その一方でそのまばゆい後光は大気を数ミリ移動させるのだった.
 彼女があの部屋に住み始めてから,はじめのうちはずっと持ち込んだキャンバスに絵を描く生活をしていた.それは,ほんとのはじめの間だけのことだった.というのも,その後,彼女は孤独という怪物,それが何を意味するかが分かり始めたからだ.彼女はおもむろにノートを開き,最初のページに見出しとしてこう記入した.
 京作へ

 また,ましろにはピアノを弾く趣味があった.あの空き部屋の元住人は音楽家だったようだ.部屋にはそこら中に楽譜が散らばっていたし,中古品であろうアップライトピアノが設置されていた.そこで彼女は,時々それを拙い手つきで奏でるのだった.それが人々の注意をひくことをちょっと恐れながら,というのも日によって下の階から住人の声が聞こえてきたりすることもあったからだ.彼女は音量を落とし,無限の優しさを込めて,音がほとんど聞こえぬほど,鍵盤を押し込むか押し込まぬかに,指を柔らかに動かすのだった.
 ましろの生活,それはまさにこうしたものだった.夜ともなれば,いつものようにベランダへ出て,遠くから来る微かま風に吹かれながら,まひるどきには埃っぽい光にやられてなくなっていたあの瘴気に侵されて,完全にすっくと立つ.蛾が舞い始め,空っぽの穴である空のスクリーンの前でもんどり打ち,ためらい,静かになり,と思うと突然,彼女が吸っている煙草の先の黄色い煌めきにきちがいのようになって,攻撃に突進するのを,長い間,身動きせず,待っている.それを京作は眺めていた.昆虫どもはますます増え続け,天蓋を覆い尽くし,焔の上に崩れ落ち,灰の花弁と共にパチパチと音を立て,やすりで花崗岩の壁をこするように空気をこすり,ありとあらゆる光の痕跡をひとつひとつ窒息させながら,あわただしく蠢くさまを.
 京作のような境遇にある者,しかも大学での数年と読書にいそしんだ生活のおかげで物事を反省する習慣を十分身に付けている者にとって,することは何もなかった.今言ったようなことに思いを馳せ,神経衰弱を回避する以外には.きっとその際,恐怖(一例を取れば太陽に対する恐怖)だけが彼をして均衡の限界内に彼を留まらせてくれ,また,時至れば,あの川辺に戻らせてくれることが出来たに違いない.こう考えながら,京作は今や,彼女が使っていた椅子に腰かけていた.上半身を背もたれに預け限界まで傾け,じっとしていた.壁を見つめていたのだ.左の肩越しにぼんやりと日光を眺めながら,太陽が巨大な金の蜘蛛であり,空を敵うその光線は,まるで触手のようにねじれ,Wの形になって,それが地表の急斜面の,風景の高みのひとつひとつの,いくつかの固定点の上に引っ掛かっているのだと想像することに努めていた.残りの触手はみな,ゆるやかに,怠惰に波打ち,小枝に分かれ,多様な支脈に分岐し,ポリプ虫の往復運動のように,また二つに開いてはすぐに合わさった.彼はそれを一層確かにするために,向かいの壁の上に鉛筆でデッサンを描いた.彼はそういうわけで,触手の絡み合い,もはや彼の理解を超えた猛烈なもつれ合いの前で,危惧の念に刻々と捉えられていくのを感じていた.甲虫のように涼しげなこの空気,それが囁き,流動しているのを除けば,そこにあるのはただ,いやらしくも不吉な蛸,馬の臓腑にも似た幾万ものねばつく腕を持つ蛸だった.自分を安心させるために,彼はデッサンのちょうど真ん中にあって,触手がそこからまるで太古の時代に石灰化した,或いはオパールになったその球の上に視線を据えて話しかけた.こんないささか子供っぽい言葉をかけていた.
「おまえはきれいだな,きれいな,きれいな獣だぞ」
お前はきれいなお日さまなんだよ,真っ白できれいなお日さまだ」
彼には自分が正しい道をたどっていることが分かっていた.
 事実,だんだんに,彼は子供の恐怖の世界を再構成することに成功した.空は,ベランダから見える範囲の長方形の枠を通してみると,今にもぽろりと剥がれて頭上に墜落してきそうに見えた.太陽,それも同じ.彼は顔を地面に向け,それが突然,融け,沸騰し,足元を流れるのを見た.インターチェンジの二重らせん構造は大蛇へと変貌し,それはどんどん膨張し,その目はこちらを確実にとらえていて,彼を飲み込もうと,彼の方めがけて,ずんずん昇ってきた.彼はどこかで,化石となった怪物どもが生まれるのを感じた.巨人のような足を鳴らし,異形のまわりをうろついている.恐怖は抗いようもなく増大し,彼は妄想をも激情をもとどめる術を失っていた.
 人間たちでさえも,敵意を抱いた野蛮人になって,手足は毛におおわれ,頭は小さくなり,そうして彼らは,人食い人種か卑怯者か凶悪漢のようにがっちりと隊列を組み,支柱をなぎ倒してやって来た.蛾はしつこく彼に襲い掛かり,その大きな顎でかみつき,一面にけばだった翅のようなヴェールで彼の身体を身体を覆った.海からは異様ないでたちの一隊が出現した.やどかりや小えび,荒々しく神秘的な甲殻類で,彼から肉の破片を齧り取ろうとがつがつしている.辺りは奇怪な連中に蔽いつくされていたが,奴らは道の上を唸ったり泣いたりしながら徘徊していた.種々雑多な色をした奇妙な動物どもで,甲冑を日に輝かせていた.あらゆるものが,突如,水の野獣のように強力な,内臓的な,集中された,重い,突拍子もない生命をもって動いた.これに応えて,彼は椅子の真ん中へその身を縮め,この動物どもがついには彼を捕食しようと襲い掛かってくるに違いないと思い,それに備えて,いつでも跳躍し,身を守る構えでいた.彼はノートを手に取り,壁の上に描いた,一度は太陽を表していたデッサンをさらにもうしばらく眺めてから,鉛筆でノートに書き加えた.
 ましろへ,
 僕は,打ち明けると,ここで家の中にいるのがちょっとばかり怖い.あなたの,ずっとキャンバスに向き合っている背中を確認できたなら,そんなことは全く要らない心配なんだけど.僕にとって,地球はなんだか一種の混地か何かに変貌してしまって,そこの道路が大きな蛇になって僕を呑みこみやしないかと気が気でないんだ.僕はここの外に住んでいる人たちが怖い.太陽はその触手を伸ばしだすし,子供たちは小えびに変貌する.
 京作は素早くノートを閉じて外を眺めたが,歩道には誰も居なかった.下まで降りていって散歩でもしようかと考えを巡らせてみたが,すぐにやめた.もうどれくらい部屋を出ていないのか,二日かそれ以上か,よくわからなかった.
 一見したところ,彼は食パンとか,徳用と書かれた角切りのベーコンとか,そうでなければ箱買いしたようなレーションの類だけで栄養を取っていた.時折,胃に痛みを感じたし,声門の周囲は酸っぱくなってきていた.彼はベランダのふちに寄りかかって,煙草に火をつけた.いちばん最近に外出したとき,まとめて買ったカートンのうち最後のものの一本だ.彼はひとりごとをぼそぼそ言い始めた.
「何の役に立つんだ,街に行ったって.僕が,あの人がやってるみたいに,こういう浮世離れした気違いじみたなんやかんやに精を出すってことは,大いに意義がある.
 僕の方から出かけなきゃ,奴らの方で僕らのことを殺しに来ると思う.そうだ,わかった,僕は心理反応を失くしてしまったのかもしれない.
 だけど前には?前には,僕だってあれこれやれたんだ,ところが今や何を見てもそういう状態はお終いだってことが分かる.ねえましろ,聞こえるかな,奴らが叫んだり喘いだり理屈をこねることを聞くこと,下に降りていくこと,ひとりぼっちで耳をすませていなくちゃいけないことが僕には辛いんだ.遅かれ早かれ,何か口に出さなくちゃならない,こんな風にひとりごとをぼやかなきゃいけないんだ,はい,ありがとう,今日は素晴らしい天気ですね,とはいうものの昨日の天気ときたら,僕は,僕はね,最近中学を出たばかりさ,とかなんとか,こんな馬鹿げたことはみんなお終いになって然るべきだ,そうあるべきだ,こんなことはみんな役に立たない,洒落てないおしゃべりで,おかげで僕はこんなところで,たばこをもこもこと炊いて,栄養不足に脅かされ,いったいなんだって世の中には,想像を超えたことがもう少しばかり余計にないんだろうっていぶかってる始末なんだ」
 彼は一歩後退し,鼻の穴から煙草のけむりを出して,さらに自分だけの為に言った(だけど幸いやりすぎはしなかった,そう,彼もしゃべるのが特段好きだった傾向はなかったから).
「」

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