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表現者であること

始めに、私は表現のプロとかではない。まして、表現の権威でもない。ただ大抵の人間がそうであるように、生きて、その一部を何らかの形として垂れ流している。ざっくばらんに言えば、ツイッタラーである。

そのため、お前の意見は間違っているとか、根拠はありますかとか、福井は今日も雪ですかとか、聞かれても困るため、そう思うんすね程度に聞いてほしい。ちなみに積りはした。

さて、人間は脳を日常的に数%しか使っていない。とはいえ一切使われない部位があるわけでない。リレーのバトンのように、どこかが働き、どこかが休んでいるのである。似たものに半球睡眠というものがあって、イルカの脳は半分だけ睡眠に入る。これによって、イルカは常に周囲を警戒することができるのだ。

時折「脳の全域をフル活動すれば天才になれるんじゃね?」と抜かす輩がいるが、それは「八門遁甲の陣で五影に勝てるじゃん」と理屈は同じである。負荷が回復し切ることはなく、結果脳は活動を停止し死に至る。

表現者であることは、脳を酷使することであるように思う。それは主に、認知の点においてである。人間は普段、見えているものをすべて認識している訳ではない。例えば自販機で缶コーヒーを買うとき、他のラインナップが何であったか思い出せないし、彼女のネイルが変わっていることに気づけず「もういい」と言われる。ちなみに女性の言う「もういい」はもう良くないし、私の言う「そうなんだ」はそうなんだである。

表現者は現実を受け取り、自分の中で再構築する必要性がある。そのため、表現をしない人間より、現実から受け取る情報量は必然的に多くなる。絵を描けば色や小物に目が届き、写真を取れば瞬間に目ざとくなり、ラノベを書けばステータスアイコンが表示されるようになる。中でも、風景画を描けば、現実の構成要素の多さに驚くかもしれない。

私は、私が現実を再解釈するために文章を書いている。みんなが見落としている、或いは忘れているものを、「こんなんあったぜ」って提示するのが、表現者の役割であると思う。別に、表現者は人に驚きを与えなさいという話ではない。ただ、音楽でも映画でも写真でも、表現をした瞬間、そういった機能が生まれるのである。

数多の創作物があふれる現代で、一秒でも「おっ」と思わせられたら、勝ちでいいと思う。そしてこの瞬間、文末で、私が勝っていることを願う。



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