【論説】真の合気道の実現に向けて

文・合気ニュース編集長 スタンレー・プラニン 


(2002年10月 季刊『合気ニュース』134号より)
  ※所属や肩書きは、季刊『合気ニュース』に掲載当時のものです。

Ⅰ 武道性を失った合気道

 初めて合気道を目にした人々の多くは、合気道技の美しさと優雅さを口にします。攻撃する者は、無理なくそして傷つけられることもなく投げられています。この、相手の攻撃のみを捌き、相手を傷つけないという合気道の護身性は、哲学的にも道徳的にも魅力的な概念です。この倫理性が人々の心の奥底にある生存本能に訴えると同時に、合気道は、多くの武術に見られる荒々しい技に替わるユニークな技を提供しています。

 また、合気道は健康な身体をつくる上でも多くの利点があります。ウオーミングアップ、ストレッチング、投げや受け身の効果はかなりのものです。

 道場の環境もまた稽古生にとって修業の重要な要素となります。合気道は幅広い年齢層が稽古でき、また主として若者が占める、試合に重点を置く武術よりも長く続けることができます。また、他武道よりも女性の占める比率が大きいとも言えます。

 以上から、道場は一つの共同体という意識が作り上げられ、多くの合気道稽古生にとって、道場は家庭の延長、いや第二の家庭とも言えます。

 しかし、実は“人々の間に和を作る”という合気道の社会的な力はまだ真に発揮されていません。それはおそらく、合気道が武道性を失いつつあることに起因すると思われます。真に有効な技を習得し、かつ稽古を単なる健康作りに終わらせないためには、道場が本来の武道道場としての役割を果たさなければなりません。

 しかし、武道性が軽視されている近年の合気道は、開祖の原点からかなり異なったものとなっています。武道としての外形だけが保たれ、中身はかなり迫力に欠けた稽古が行なわれています。これには以下の要因が考えられます。

① 攻撃の弱さ

 これは今日の合気道道場で一般に見られる現象で、稽古生はほとんど有効な攻撃(打ち込む、掴む、締めや蹴り)の正しい行ない方を指導されていません。それに拍車をかけるのが攻撃中の集中力の欠如です。これはまた仕手側にも影響を与えます。

 仕手も受けもこのような稽古法では、怪我をする確率は小さいということを(無意識にせよ)知っているので、現実的な護身技の習得に必要な集中力がさらに稽古から失われていきます。

② 当身と気合の軽視

 開祖の技を研究すると、開祖は当身と気合を重視されていました。開祖の晩年のフィルムでも、激しい動きの少ない合気道となっても、当身と気合はきちんと入れられているのがわかります。

 当身と気合は共に働いて、攻撃者の気を抑えまたはそらし、首尾よくそのバランスを崩すための重要な手段となります。たとえ実際に当てることがなくても、攻撃の機先を制し混乱させるという精神は、合気道を行なう上で重要な要素です。しかし今日多くの道場では、当身や気合は粗野で荒々しく、“和”の武術には相応しくないもの、と考える指導者により排除されています。

③ 攻撃者を崩せない

 稽古中における弱い攻撃と当身、気合の欠如により、仕手は必然的に最初の段階で攻撃者を崩さずに技を掛けることになります。受けは掛けられる技がわかっていますので、簡単に崩されることはありません。

④ 力を使う、投げられた“ふり”をする

 当然、このような誤った稽古では、だらだらとした不正確な投げや押さえが行なわれ、仕手側は、受けを十分制御することができないため、技を極めるために力に訴えます。このような稽古は衝突、怪我を招くばかりでなく、真剣でない技の“やりとり”は、馴れ合い稽古につながっていきます。さらに憂うべきは、このような稽古環境で指導を受けた者は、自分の技が実戦で役立つという幻想を抱いてしまうことです。

⑤ 受けをとらない指導者

 私はこれまで40年、合気道にかかわってきましたが、その間大勢の師範方が、身体の絶頂期を過ぎて健康の衰えを迎える(中には早すぎる死も)という過程を経ていかれました。師範方の中には、考慮に欠けたライフスタイルのために、老化をさらに早めているというケースがあまりにも多すぎます。身体が老化してくると、指導者たちはしばしば病気や運動力の衰えをカバーするような技を掛けたり、受けと取りを交互に行なうギブアンドテイクの稽古をやらなくなります。そこに見られるのは“先生”に安住した指導者であって、かつての“修業生”の姿ではありません。

 また、指導者たちは自分と同レベルの人とほとんど稽古をしなくなり、主として自分より技術レベルの低い弟子たちを相手にするため、その人の合気道は伸びません。

Ⅱ 合気道復活への道

 上にあげたような稽古の問題点を是正するための具体的な方法を以下に述べました。これらを実行に移すことで、真に“社会に善をもたらす”合気道を復活させることができるのではないでしょうか。

1.攻撃技の指導

 まず、効果的で真剣な攻撃を仕掛けることに最も注意を払って指導をすること。これには指導者が交流稽古をして必要な技術を指導者自身が身に付けることが要求されます。道場では空手やボクシング、そのほか精錬された術技の突きの指導を考えるべきだと思います。

 また稽古生は蹴りに(すくなくとも初歩レベルでも)慣れておくべきです。突きほど頻繁ではないですが、実戦においては蹴りをくらう可能性も十分にあるからです。

 蹴りに対する護りを習うのも、稽古生によく見受けられる“視野の狭さ”を克服するのに役立ちます。たとえば、初心者は最初のはっきり見える攻撃(通常突きか掴み)に注意を向けますが、次にくる攻撃への配慮がおろそかになりがちです。次の攻撃(たとえば蹴りとか)を考慮にいれることを学べば、稽古生の気づきは進歩します。

 蹴りを学ぶことで、合気道生はまた受けも上達します。蹴ってから投げられる(受けをとる)ということは難しくまた危険なものです。怪我の確率が高いのでゆっくり行なうよう注意しなければなりません。

 さらに、武器(刃物および棒杖など)を帯びた攻撃も挙げる方もおられると思います。武器を使った稽古は体術だけではなく、様々な状況の間合いの指導に効果的であり、いろいろな利点があります。

 攻撃の質を高めることによって、稽古中の集中力が増大し、真剣さが培われ、相手を尊敬する気持ちが生まれてきます。武術稽古につきものの危険を察知する、危険を招くような行動を避けるというような注意が払われます。

2.当身と気合の復活

 合気道道場では、当身と気合を取り入れ、その稽古を稽古生に奨励すべきです。当身と気合は非常に重要であり、実戦において自分より体格のいい相手とか多人数を相手にした場合など、そのハンディを克服するのに役立ちます。相手の攻撃を無効にし、相手を崩すには欠くことのできない手段です。

 当身と気合は技の掛け始めだけでなく、ほとんど技のどの段階でも使われるべきです。稽古生は、如何なる状況でも相手の隙を見つける方法を指導されること。

 当身も高度なものになりますと、目に見える形をとらない場合さえあります。熟練した武術家は、攻撃の先手を取る心構えによって、わずかな体の動きだけで効果のある当身を行なうことができます。大先生(合気道開祖)のビデオを注意深く見ると、今述べたことが行なわれており、これがいわゆる“触れずに投げる”の根本をなすものです。

3.攻撃者を崩し続ける

 合気道の教則で基本的でありながら軽視されているのが、取りは受けを崩したら、そのまま投げや押さえなどで極めるまで崩し続けるということです。私は、受けが崩されても、すぐさま投げの直前にバランスをとりもどしている光景を見てきました。

 崩されているかどうかを見極めるには受けの重心を注意深く観察することです。絶えず相手の重心に気を配り、自分の技が効いているかどうかを見極める必要があります。合気道の演武会では、投げよりも受けの動きを見てください。受けが技の始めから終わりまで崩されたままであったら、その取りはまさに名人級だということです。

4.姿勢と呼吸のコントロール

 合気道で見逃されやすい稽古に正しい姿勢と呼吸があります。投げは施技の間、常に正しい姿勢とバランスを保たなければなりません。

 道場における稽古では、呼吸について、注意がほとんど払われていません。呼吸を正しく行なうことによって体内のリズムが整えられ、疲れが減少し、激しい稽古においても平静さを保つことができます。自分自身の呼吸を観察することも相手の呼吸を“読む”力を発達させます。これは、攻撃が仕掛けられる前に攻撃のタイミングと意図を感知するのに役立ちます。

5.指導者は稽古に戻らなければならない

 合気道指導者が道場での稽古を止める理由は一般的に、年齢的な限界とそれまで積み重ねてきた怪我によります。たしかに時の経過と激しい稽古による身体の消耗は誰しも避けられないことです。しかし、個々の限界内で、自分のペースに合わせて稽古をしようと思えばできます。一番肝心なのは、ストレッチングやウオーミングアップを続けること、限界ぎりぎりまで受けを取ることです。要は、やるかやらないかの問題です。

 開祖は80代に達しても体の柔軟さは失わず、開脚さえやってのけました。また、その頃のフィルムには子供を相手に受けをとっている姿が写されています。

 多くの古武道で受けを必要とする内容では、指導者や先輩が攻撃側となり後輩の受けをとることが慣例となっています。それは古武術の演武会を見れば明らかなことです。指導者が弟子を上達させるには、これ以上のものはありません。

6.交流稽古

 指導者も稽古生も最も考えなければならないのは、他武道との交流稽古だと思います。

 再度大先生の例をひきますが、大先生は多くの他武道を研究されました。また娘さんを有名な剣道家と結婚させ、皇武館道場で剣道の稽古が行われるようにしました。また54歳で鹿島新当流に正式に入門しています。大先生の合気剣には、鹿島新当流が大いに参考にされています。

   大先生はまた道場に他武道の師範たちを招き演武をさせました。このように、常に鋭い観察力をもって他武道の名人たちの技を“盗む”心がけをもっていました。 ちなみに、合気道ジャーナル/合気ニュース主催のAIKI EXPO の目的の一つは、異なる武道流派の間の交流稽古を促進し奨励することです。

 以上、いわゆる“現代合気道”なるものが、開祖が創始した頃のものとは変わってしまったことを述べてきました。そして戦後、合気道が日本および海外においてかなり普及され、また50年以上が経過しているため、この変更された合気道が標準型として考えられています。つまり、この新型の合気道が開祖の意図を反映させたものであると。

 ところが、それはまったく違います。さらに言えば、今日の合気道に対する批判のほとんどは、合気道が開祖の教えから離れてしまっていることが原因となっているのです。

 以上、私の提案が、多くの合気道の方々によって採りあげていただければ、合気道の質も合気道以外の人たちの合気道観も改められるのではないかと考えます。そのための方法(たとえば“AIKI EXPO”のようなイベント)を今後も私たちは提案していきたいと思っております。

 ところで、私は去る9月10日、大阪で宇城憲治師範とお会いしました。その際の会談は、この論説で述べてきた点を中心に、また昨今の武道界についての動向にも触れ、お互いに意見を出し合いながら進められました。こうした忌憚のない意見交換は今後、指導者間に広く行なわれていくべきだと考えます。この時の先生との会見模様は次号にて掲載致したいと思います。 

―― 季刊『合気ニュース』 №134(2002年10月)より ――

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