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特集 富木謙治の目指したもの

競技理論の原点を探る―

日本古武術を心から愛し、その保存・伝達に生涯を捧げた富木謙治。
富木が“試合のある合気道”を唱えるに至った背景には、二大武術家・嘉納治五郎と植芝盛平の存在があった。富木の目指した合気道とは――

日本合気道協会(富木合気道)は、そのカリキュラムの中に試合を導入したことで、これまで合気道界から異端視されてきた感がある。柔道家であり教育者でもある富木謙治師範は、嘉納治五郎、植芝盛平という二大武道家を師として仰ぎ、嘉納からは教育学、植芝からは武術の面で大きな影響を受けた。競技合気道を唱えた富木師範の目指したものは何か、今一度富木理論の原点に戻り、彼の日本武道への思い、その取り組み方を考えてみたい。

本特集では、まず富木の生い立ちから合気道競技創案に到るまでの足跡を述べ、さらに富木の理論を受け継ぎ指導にあたっている昭道館・成山哲郎師範会見の掲載、さらに合気道競技の稽古体系の紹介、最後に武道研究家であり早稲田大学教授である志々田文明師範と本誌編集長の、合気道競技の是非をめぐる忌憚のない対論をお届けする。

本記事により、富木師範が目指したものが、“技の保存、自己啓発のための試合”であることを理解するならば、合気道における試合の是非について、より建設的な思考ができるのではないだろうか。共に考える一助となれば幸いである。
※所属や肩書きは、季刊『合気ニュース』に掲載当時のものです。

(1)1、第二の嘉納治五郎” 文:スタンレー・プラニン
   2、合気道と柔道――富木謙治
   3、合気道競技の練習体系

(2)富木謙治先生と競技合気道 
   日本合気道協会 中央道場 昭道館 成山哲郎師範に聞く

(3)対論 なぜ、合気道に試合が必要か
    日本合気道協会師範 志々田文明 
             VS スタンレー・プラニン&本誌編集部


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富木師範(左)と大庭師範

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(1)-1 “第二の嘉納治五郎”
             文:スタンレー・プラニン

合気道開祖・植芝盛平の数ある傑出した弟子たちのなかで、合気道を含む古流柔術を歴史的、教育的面から理論化した業績とその学識において、富木謙治の右に出る者はいない。開祖は、生涯を(ということは彼の武道も)主として宗教的な観点からとらえたのに対し、富木は競技性も含んだ合気道を考え、日本武道史の大きな流れのなかに位置付けた。すぐれた柔道家であり学者でもある富木は著作も多く、一般人にも理解できるよう合気道を理論的に説明した。
本論では富木の生い立ち、嘉納治五郎や植芝盛平とのつながり、そして今日の合気道に富木が果たした貢献について述べてみたい。
《【】内は富木謙治著『武道論』(大修館書店)からの引用である》

幼少時代

 1900(明治33)年3月15日、秋田県角館の地主の家に生まれた富木は、初等中等教育を生地で受ける。幼少より勉学にも柔道にも才能を発揮した。1919(大正8)年11月、柔道初段となる。高校卒業後大学入試のため上京。しかし、病に倒れ3年半の療養生活を送る。この間彼を励ましたのは、当時有名な画家であった叔父の平福百穂だった。
 数年の療養生活の後1923(大正13)年、早稲田大学へ入学、政治経済学を専攻する。当時その名を馳せていた早稲田柔道部へ入部し、卒業年には4段となる。この大学時代に講道館をしばしば訪れ、偉大な教育家であり、柔道創始者である嘉納治五郎と出会う。嘉納治五郎の思想(とくに柔道を自己啓発と体育の手段としてとらえる)は、若い富木に多大な影響を与えた。

【柔道とは、心身の力を最も有効に使用する道である。その修行は、攻撃防御の練習によって、身体精神を鍛練修養し、斯道の真髄を体得する事である。そうしてこれによって、己を完成し、世を補益するが、柔道修行の究竟の目的である。
――中略――
(嘉納)師範が大正4年にこのように述べたが、その後、大正11年には、これを要約して、「精力善用 自他共栄」の八字を示して、柔道の「みち」を説いた。】

 後年、富木はこの嘉納の教育理論を推し進め、独自な方法で合気道へ応用する。大学時代、柔道に精力を傾けたとはいえ、富木は学業をおろそかにすることはなく、その学力は“運動部の勉強家”と呼ばれるほどであった。


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嘉納治五郎(1860~1938)

合気道開祖・植芝盛平との出会い

 1926(大正15)年、富木は柔道部の先輩久保田(のちに西村)秀太郎から植芝盛平を紹介される。久保田は大本信者でもあり、大本を通して植芝を知っていた。富木は植芝の柔術技に深い感銘を受ける。
 1927(昭和2)年、早稲田大学卒業後、富木は経済学を専攻するため大学院へ進む。その夏1ヵ月ほどを京都綾部の大本本部において植芝から集中的に大東流合気柔術を学ぶ。同年、植芝は東京に住居を移す。富木は植芝との稽古を続け、演武では植芝の受をしばしば務めた。当時としては上背もあり体のがっしりした富木を小柄な植芝が容易に捌く光景は見ている者に深い印象を与えた。富木にとって植芝の技(当時はまだ大東流合気柔術だった)は、重要な柔術技の凝集であり、それは彼にとって非常に興味深いものであった。
 学業を終えると、富木は宮城県電気局に就職。そして1929(昭和4)年の天覧武道大会に柔道の宮城県代表として参加し、ベスト12に進出したが、怪我のため退場を余儀なくされた。
 その後故郷角館で中学校の教師となる。1931~34(昭和6~9)年、教職期間中夏休みと冬休みには上京し、植芝のもとで修行を続ける。当時富木の関心は日本支配下にあった満州にむけられていた。1934(昭和9)年、富木は教職を辞し、その後2年間、東京で満州行きのための準備をする。若松町の皇武館道場近くに借家をし、道場で先輩弟子として後輩の指導にあたりながら修行を続けた。また、植芝の技術書『武道練習』の編集にも力を発揮したようである。

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