手話という言語について考える。
今のこのご時世、英語が話せる人や、もしかしたら中国語や韓国語が話せる人も少なくないのかもしれません。
職業によってはそれらが活かせられることもあるのだと思うし、他国の言語を話せることはとても格好良く、羨ましいとさえ思います。
しかし、過去にアパレル販売の仕事をしていたわたしが度々ぶつかった問題は英語が話せないことではなく
「耳が聞こえないお客様に対してわたしでは接客が出来ない。
英語も大事かもしれないけれど、耳が聞こえない方に対しての接し方を考えたことがある人はいるのか?」
ということでした。
耳の聞こえないお客様が一人で来店することはわたしが見てきた中ではほとんどありませんでした。
大体の方は健聴者の方や、耳が聞こえない方の言葉が分かる方と一緒に来店されていました。
そしてお客様自身も、店員のわたしが自分相手に会話が出来ないと初めから分かっているようでそもそも接客を拒否されます。(耳が聞こえないから接客いらないよ、というような動作をしてくれます)
それがとても悔しくて悲しいと思ったのは何故なのか自分でも分かりません。
ただわたしが接客をしたいのは、外国人のお客様ではなく今目の前にいる日本人のお客様だと思いました。(どちらにせよお客様として接するということに変わりはありませんが)
それから手話に興味を持ち始めました。
昔通っていた小学校には障害者施設が併設されており、高学年になるとその施設の方達と交流をする授業が何度かありました。
その際に指文字や、簡単な挨拶の手話を勉強したことが10年以上経った自分の中で色濃く記憶に残っていたのです。
「耳が聞こえないから」
「障害者だから」
ではなく、ひとりの同じ人間として、会話がしたいと思っています。
現時点で指文字と挨拶の手話を覚え直し、小学生の自分と同じラインに立ったところでまだ何も出来ないに等しい状態です。
それでもここで手話の話をしようと思ったのは、手話の勉強がしたい、するべきだと思う自分の強い意志があったからです。
これから少しずつ資格も取って、日常会話が出来るようになりたい、願わくばそれに関わる仕事が出来たら、という夢をここに掲げ、自分を奮い立たせるためです。
今の自粛期間、皆様どのようにお過ごしでしょうか。
わたしは、自分のために勉強をする期間だと思っています。
※万が一、わたしの発言に対して気を悪くされた方がいらっしゃいましたら申し訳ございません。これから勉強していかなければいけないことも沢山あると思いますので、長い目で見ていただけますと幸いです。
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