蓬莱同楽社、今までとこれから

聴雪

1. はじめに

蓬莱同楽社は、酔翁と他編集部四名を中心として活動している、漢詩文系の同人グループであります。「とにかく楽しもう」をモットーとし、漢詩や漢文を投稿して蓬莱同楽集として製本しているのです。そして本集が、その最新の第四集目となります。結成以前から今に至るまで、その主な活動場所はツイッター、文フリであり、漢詩についての話題を各々つぶやいたり投稿しあっては、刺激を共有し合っています。そこで編集部や、本集にご寄稿下さる詩友のみなさまとも緩やかに繋がっているのです。誰か特定の個人が権威主義的な振る舞いをする訳でもなく、主には野に在り、緩やかに各々が関係し合う面を考慮すると、図らずも我が社の影が、江湖詩派のそれと重なる部分が割かし小さくないように思えるのは、筆者の単なる思い過ごしでもないのではないでしょうか。

さて、本稿では「本社結成から今まで」、又、「本社のこれから」について、二部構成で話を書き進めてみようかと思案しております。以下、少時お付き合いお願い致します。

2. 本社結成から今まで

早速ではありますが、今に至るまでに、社としてはどのような活動をしてきたのか。と、このように話を進めて参りたいのですが、本題へと入る前に、今の日本に於ける漢詩を取り巻く現況を、ここで少々確認しておきたいと存じます。

どの時代に比しても一番その数が少なくなってしまってはいるものの、所謂漢詩という中国文言を用いた詩をものす人は、今も確かに細々と存在しています。では、今この時代に漢詩を作る人々が作品をどこに発表するのか、ご存知でしょうか。中には俗塵を絶ち、一人詩嚢を佳句で膨らませる、勿論そのような処士の如き方もおられるのでしょう。但し、強半の詩作者には、発表の場が設けられていることが大事なのではないかと筆者は考えております。先ずは発表し、切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如く詩詞に向き合わなければ、上達するのもなかなか難しい、とは使い古された言葉ではありますが、矢張り的を射ているのです。

では、メディアの中でも比較的手近なところで新聞を広げてみましょう。短歌や俳句欄は設けられておりますが、ああ嘆くべき哉、漢詩欄はどこにも見当りありません。この時点で、年齢層を問わず、広く一般の方々の目に映る所からは姿を消してしまっていることがお分かりになるかと思います。あまり引き伸ばしても紙幅の都合上余裕が無くなってしまいますので結論から申しますと、「各地域の吟社・ネット上の桐山堂(敬称略)」が挙げられます。ここで活躍する方もおられますし、編集部内にも、吟社や桐山堂にお世話になったことのある者は少なくありません。しかし、換言するならば、それ以外にはほぼ見当たらないのです。

このように、投稿場所、漢詩の土壌が充分に整っているとは言い難い中、編集部員たちは何気無しにツイッター上に集い、漢詩をつぶやいておりました。そのような状況下、先に挙げました本社の酔翁が、「漢詩を投稿して合同集を作成し、みんなで楽しむ場をひとつ設けてみようではないか。」と、声を上げたのです。そうして当時、と申しましても今から然程遡る訳ではありませんが、行き場を無くしていた詩作者たちが一同に会しました。これが本社の源流となります。この一連の流れについては、本社別集内の記事、「インターネット上における漢詩文実作の動向」により詳しく記してあるため、そちらも併せてご覧頂ければ幸いです。

このように、本社は「楽しむこと」を第一のモットーとして設立されました。その社の動向を編集部一委員ながらやや客観的な目線で眺めていると、設立によって得ることができた点の他に、物足りなさを感じたり改善せねばならないような点もまた、露わになってきたのです。漢詩の土壌を新たに設けることができたこの一点については、矢張り充分に評価するに値することなのではないかと存じ上げる次第で御座います。しかしながら、敢えて熱を抑えて現状を表すならば、各自の詩を持ち寄り一つの冊子に纏めている、これだけに留まります。この点以外にも、反省・改善すべき点は、事実枚挙に勝えないほど山積みとなっているのでありますが、それらについては次章に改めて認めさせて頂きます。勿論モットーが第一となりますので、その意味では体裁をしっかりと保っているのですが、果たしてずっとこのままでも良いのでしょうか。次へと進むべき段階まで達したのではないかと、筆者は考えております。

以上、本社結成から今までについて、ごく簡潔ながら述べて参りました。社、組織としての小ささは否めないものの、若し本社の勢いをとって他吟社と比したとして、決して劣りはしないでしょう。若さもあって、寧ろ元気が良すぎる嫌いさえ有ります。読者のみなさまの瞳には、どのように映っておりますでしょうか。

3. 本社のこれから

 本章では、前章の内容を踏まえつつ、これからの展望について述べていきます。
 設立からある程度経った頃より、本社の舵を今後どのように切っていくのか、この点については、酔翁と週に一度うどん屋でよく語らう話の種でありました。その時に出たものを大まかに要約したものが、以下の二案となります。一つ、今まで辿ってきた中で抱えた問題点を改善しつつ、現状のベースを維持・発展させていく案。二つ、「楽しもう」というモットーに比重を置く現体制から転換し、展望を大きく持つ案。前者は筆者が、後者は酔翁が主張していました。ざっくりと纏めてしまえば、この様な話をしていたと記憶しています。どちらにも一長一短があり、一概には決定しかねますが、この状態で良いのではないか、とも最近考えるようになりました。

「とにかく楽しもう」を社の根幹として出発している以上、これを転じて新たに何かを為すことは、同時に「何物でもない何か」に陥る危険性を伴うことに注意せねばなりません。しかし、ベースを維持しつつ、そこに新規性を開拓していくことができうるのであれば、これに超したことはないのです。語らずとも明らかであるような内容ですが、本社にとっては重要な事項であるため、ここに文字として記して留め置く次第です。

では、先ずは筆者の案について、粗末なその中身を提示したいと存じます。楽しむことを基本に据えつつ、今後なにができるのか、したいのか。現時点で、各々個々人が楽しみながら自作の漢詩文を本社集に投稿するフォームは整っており、この意義については前章にて確認致しました。この場はなんとしても残し、今後の活動の場の中心拠点として据え置きたいと考えております。切磋琢磨を宗として、みなで詩作の深淵なる境地にいざ参らん!とか、暑苦しいものを求める訳ではないのですが、今よりもう少し詩友同士の横の交流があるとより楽しいのではないでしょうか。楽しむことばかり考えている筆者は、斯く思うのです。柏梁体で句を連ねたり、「次~韻」と題した詩の贈呈をしたり、その方法は無限に御座います。実の所、初期の頃から声を上げてはいたものの、漕ぎつくところまではたどり着かずに流れて了っておりました。悔ゆらくは呆けて無為に時を過ごししことを。今後、他にも様々な企画を提案していきたいと存じますので、皆様のご参加を心よりお待ちしております。

次に酔翁の案について記していきます。彼は社のリーダー格として、筆者とは違った大きな視点を以て、別の角度からこの問題に対して切り込んでいくのです。曰く、「古典言語を以てする文学、即ち東の中国古典語と西のラテン語を用いた詩による、東洋と西洋による対話の場として、本社集を位置付けられはしまいか。」と。話の大きさに、大盛り肉うどんをかっこむ筆者は咽せそうになるのを堪えつつ、肉うどんではなくその可能性について反芻していました。確かに目指しゆく点としてなんら異存は持ちえない、考えただけで胸が高鳴る提案でした。古典の意義についてとやかく話題に上る昨今ではありますが、そのようなもの、実際に酔翁提案の対話を以てすれば、現代に於いてさえ自ずと意義は付随して生ずるのであります。しかしながら、乗り越えねばならない幾つかの問題も同時に頭に浮かび上がったのです。「とにかく楽しもう」程度では対応しえない漢詩文レベル、例えるならば銭鍾書並みの膨大な読書量と文学への造詣が要求されるのは必至でしょう。また、こちらの動きに応じうる相当な力を駆使する相手方の存在無しには、対話自体そもそも成り立つものではありません。現体制から転換して展望を大きく持つこの案は、大変に魅力的である反面、このようにとかく準備に時間を要するものであることは確かなようです。

纏めとして、本章冒頭に記したことを繰り返すことにはなって了いますが、筆者はこの両意見のどちらかに絞らずとも良いのではないかとの思いでおります。卑近なところ、「先從隗始」とは戦国策燕策にも記されておりまし、筆者の提案するようなところから少しずつ少しずつ楽しみながら全体のレベルアップを図り、その先に酔翁発案の夢をみるのは如何でしょうか。このように社の今後の舵とりについて考えを巡らせた次第に御座います。

(本号のため書き下ろし)


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