適切で適性な「うなぎ」
まずは友人や職場の人、老人会で会うファンキーなマイメン(おじいちゃんおばあちゃん達)に調査して良いうなぎ屋を知ります。
土曜、よく晴れた気持ちの明るい午前11時半に向かって、普段持ち合わせている会社の大事な会議へ行くような真面目な気持ちを全部放り投げて家を出ます。良いうなぎ屋の扉は重くガラガラと開きますのでえいと腰を入れて動かす。ラミネートの剥がれかけたメニューを手に取る頃にはもう香ばしいうなぎの匂いで脳がやられている。
もちろん並より上、特上はたまのご褒美にとっておきましょう。祝いたい誰かの事を思った日のために、人生には余白が必要なのです。
東京に住んで5、6年になろうかとしている友人が青色の頑丈なリュックサックとしばらく歩けば寒さを気にしなくても良さそうな手軽なコートでやってきた。僕は普段なるべく何も持ち歩きたくないと考えながら生活してるのですが彼も、とても日本を歩き回ろうとしているようには見えない小さなリュック一つでやってきます。ひょいと下ろしたリュックサックから文庫がぞろぞろと肩を並べて出てくるので笑ってしまう。なるべく荷物を持ち歩きたくない人間がたくさん文庫本を持ち歩いているのは、目的と手段について明確で強い意思があることと感情による大いなる矛盾が両立していてああ...欲望だな...と思います。
さて、みなさんには親友がいますか。いつの日か親友がいないらしい自分に不安を感じて私にとって親友って誰なんだろうか、きっとあの子なのだろうか、と考えを巡らせていたことを思い出します。彼とはいまだにお互いの気が向いたときにだけ連絡を取ります。突然に音信不通になっても気にかけることはないような感じです。きっとこれは親友ではないような気がする。
彼は大学で興味のある学問に傾倒し大学院を経てついに就職することになりましたが同世代の友人でまだ学生なのは彼と僕くらいなもので一人残されて悲しかったり、もう学生ではいられない彼から妬まれたりします。これをはははと笑いすごしていられるのも今のうちなのですが...。新しい彼の仕事は、なんだか彼にはとても向いているような気がする一方で、きっと誰に頼まれずとも頑張りすぎてしまうのだろうなという気もします。上のうなぎはご飯とうなぎの割合がちょうど1:1なので食べ進めるのに余計なことを考えなくていいのがかなりいい。
ぼくは誰かの作った料理を食べたときこれを自分でも作ってみたいと思ったり、その味がどうやって作られているのかを考えたりしながら食べるのですが、どうしたってうなぎは難しそうだなあと思います。うなぎはなんだか職人にしか手出しのできない食材のような気がするし、タレも簡素であるようで想像もできない深みがあったりする。よくテレビで継ぎ足しのタレを芸能人が「だからこんなに美味しい」とコメントしていますが我が家には継ぎ初めがないのでどうしたらいいのでしょうか。きっとうなぎには、うなぎ屋という適切で適性な、うなぎの居場所があるのです。自分にとってこれから選ぶ道は適切で適性であるだろうか。そんな誰にも分からないことを悩むには誰かとうなぎを食べながらくらいがちょうどいいような気がします。
誰かと食べるうなぎ、一人で食べるうなぎ、それぞれの思い出にあの香ばしいうなぎとタレの匂いが焼きついている。親友かどうかではなくて、まるで昨日が続いているように関係していける友人のこと。次はぼくが奢ってもらおうと思う。
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