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日経新聞を再契約したはなし

6月になり日経新聞を再契約した。
もちろん紙ではなく電子版である、もっぱらスマホアプリから閲覧する。

そもそもわたしが日経新聞を購読するようになったのはツイッターにおけるイーロンショックがきっかけだったと思う。
「こんな詐欺師とbotが跋扈するメディアにいられるか、俺は日系メディアに帰らせてもらう!」

つまり、ついついTwitterを眺めてしまう時間を新聞アプリで置換しようという目論見である。案外うまくいった、計量したわけではないが、Twitterを見る時間は半分以下にはなったのではないか?
とはいえ新聞、日刊といえどさすがにコンテンツの量に限界がある。SNSと同じ要領で読んでしまうと新しい記事はだいたい網羅できてしまう。

本来はそこで新聞のアーカイブ的なものに手を出せればいいのだが、アプリUIがいまいち古い記事を閲覧するのに向いていない。まあそこはサービスの重点ではないからね、しかたないね。

購読して体感一年ほどたって思った、「飽きた…」
マスメディアとしては偉い部類かもしれないが、日経はわりと論説やコラムのたぐいがすくない。一面記事を読んでも5W1Hでおわりである。
Twitterは違う、ミニブログであるからにして、どんなカス情報でも誇張モリモリでおもしろ文章として調理されている。

というわけで一旦、一か月ほど新聞を読むのをやめていた。
大きな変化としては、やはり生活から物語が減ったという感覚があった。パレスチナでどんな虐殺があってもテレビやTwitterでの断片的なニュースとして知るのみであった。「増税メガネ」とその一党の醜聞もほぼ耳に入ることはない。

時事ニュースの重要な点は自分自身の生活を俯瞰できることだろう。「俯瞰する」というと、一部の眼鏡クイクイしてそうなお理工さんがエラく大事にしている観念だが、別にそういうつもりはない。
思うにこれは拡張現実であるということだ。目で見て、耳できいたことではない情報を得るということは自然的な肉体へのコントロールとフィードバックに、さらにセンサーを足しているということである。
月々の数千円のセンサーをサブスクすることで「何?スーパーの海外豚肉が高い? それは円安だね。うんぬんかんぬん…」となる。

さて、物語を失うというのは大げさにいえば信念を失うということでもある。蟄居・左遷・軟禁・流刑、どれもひとを物語から切断し、その関心を日々の飢えと渇望へと向かわせる。
大衆化が進んだ現代社会においてはさらに、疎外された孤独な個人は商業資本のコマーシャルに漬け込まれている。おそろしいねえ。

どのようなメディアに触れるかは結局のところ、自分自身をどう拡張するかという問題であり、近未来の自分を形づくる。そういう意味ではほとんど食事と同じことである。
月々4277円、毎日コンビニでおにぎりとお茶を買うより安い値段である。
嫌味なブルジョワ野郎のSNSに悩まされるくらいなら、少しくらいまともなメディアにお金を払ってもいい。


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