幕が開けば、そこは ~ 劇団朱雀復活によせて

「それで、あたし、見つけてしまうの」
「なにを?」
「人は俄か雨とか戦争とか突然なものが、大好きだっていうこと」
「雨やどりと防空壕は違いますよ」
「でもきっとそこではときめいているのよ。そういうことってない?」
(略)
「あなたは、どこでときめくの?」
「オレの場合は、いつも、桜の森の満開の下です。こわいのだけれどときめくんです。頭の上からバクダンでもおちてくるようなすさまじい音がきこえてくるようで」
「それでいて、物音ひとつしないんでしょ」

――贋作・桜の森の満開の下/野田秀樹

わたしにとっての早乙女太一、わたしにとっての劇団朱雀は、桜の森の満開の下だ。”こわいけれどもときめく”もの。胸が潰れるほどにどきどきして、喉が枯れるほどの悲鳴を上げるぐらい、“こわいけれどもときめく”ものを、わたしは他に知らない。

劇団朱雀復活、おめでとうございます。「5年ぶりだねェ」、幕を隔ててこちらに投げかけてくる言葉に、「待ってたよ」とこたえられる日が、ほんとうに来たこと。まだ信じられない。

「お芝居は嘘だから嫌い」なんて言っちゃうような人だから(笑)、いつか戻ってくるというその言葉に嘘はない、それは疑っていなかったのだけれど。5年前のわたしはずっと不安だった。だって、もし、そのときがきたとして、そのときのわたしは果たして「待ってたよ」と言える場所にいるだろうか、と。今はこんなに恋焦がれているけれど、はて、そのときのわたしは、同じ情熱を抱えていられるだろうか、と。お金と時間と気持ちの余裕があるだろうか、と。

まあ全部杞憂だったんですけど(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)。

あんなにあんなに待ちに待った瞬間が本当に訪れたとき。わあ、満開だ、と思った。幕が開いて、パッと明るくなったとき、そこにいたのは人間たちであったのに、わたしの目にはなぜか満開の桜が見えたような気がした。ひらひら舞い散る満開の桜の下に、花魁姿の太一さんが立っているような気がした。不思議な光景だった。ゆっくりとまばたきをする、その目に射抜かれ、背筋が寒くなった。こわいけれどもときめく。この五年の間に出会った戯曲の一節が、脳裏に過ぎった。

はじめて間近で女形をみたときのことを思い出した。めちゃくちゃ怖かった。震えた。ちびった。目の前で銀の髪を揺らしたそれは、昔話に出てくる雪女みたいだった。夜中にこんな人が訪ねてきて、入れてくださいって言われたら、家に上げちゃうよなあ、と思った。箱庭のようなちいさな劇場でおこなわれているのはまるで魑魅魍魎の宴のようで、ここで出されたものを口にしたらもう現世に戻れないんだわ!と思った。千秋楽の日、儀式のような気持ちで、頼んだビールを飲み干した。

太一さんの美しさと朱雀の楽しさには、いつもスリルがつきまとう。その緊張と胸の高鳴りを畏れと取り違えて、わたしたちは彼を神格化してしまう。だってこんな、身体の一部を噛み千切るように心を奪っていく存在が、同じ人間だってこと、信じるほうがよっぽどこわいから。

でも当然ながら、実際は神でも妖怪でも獣でもなく、彼は人間なのだった。だから時折、うれしそうに笑う。客席を見渡しながら、みんなで一緒にユラユラしながら(笑)、弟と刀を合わせながら、自らの手で幕を引きながら。まるで、お茶の間でテレビ見て笑ってるような顔で。それが、おちてくる空の正体だ。

「こわいけれどもときめく?」
「ええ、まあ」
「では、あたしと歩けば、どんな森も桜の森の満開の下ね」

劇団朱雀の幕が開けば、どんなときもそこは、桜の森の満開の下。

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