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【42】動作学的 幸福論(3)

幸せを感じて生きるための動作学的な知恵をお伝えしていくシリーズ、題して「動作学 幸福論」、第3弾です。

これまでの(1)(2)では、知恵として以下の二つのことをお伝えしました。

一. 幸せを選択する主導権は自分にあると知ること、その主導権を取り戻すこと

二. 「全ては最善である」という前提を持つこと

今回は、二の「全ては最善である」という前提を持つことについて、それがどう幸せにつながるのかを、解説したいと思います。

前提によってインプット情報が変わる

おさらいになりますが、幸せを感じるかどうかは、あなたから出てくるアウトプットで、アウトプットを変えるためにあなたができることは、その前のインプットかプロセスを変えるしかありません(関連記事:【22】 【23】 【24】 【28】 【29】 【30】 )。

これはインプット・プロセス・アウトプット(知覚行為循環)という生命の仕組み。この仕組みで見ていくと、「全ては最善である」という前提を持つことは、インプットを変えることにつながります。

さっそく具体例を見ていきましょう。

信頼して仕事を依頼した相手からの納品のクオリティーに満足できないという出来事が発生したとします。

あなたは、「このクオリティーで納品するなどプロフェッショナルでない!」と腹を立てたり、「信頼を裏切られた気分だ」とがっかりしたりします。

これらの反応は、いわばあなたから出てきたアウトプット。ですから、もう変えようはありません。

一方で、この出来事をどう捉えるかはあなたの選択で変えられます。

おそらくですが、多くの方は「起こってしまったことは仕方ない」とすぐに気持ちを切り替える努力をし、「同じことがまた起こらないように原因を究明して改善しよう」というような前向きな対応をなさるのではないでしょうか。

その結果、「こちらの注文の仕方が不明瞭だったかもしれない」という改善点が見えてくるかもしれませんし、「お互いの満足のためには取引を解消することが前向きな解決策かもしれない」という思いが出てくるかもしれません。「なぜあんなにクオリティーが悪かったのか、向こうの状況を理解するために食事にでも誘ってみよう」と考えるかもしれません。

いずれももちろん素晴らしい考えだと思いますが、ここで一つ着目していただきたいことがあります。

それは、どの対応も全て「納品クオリティーに満足できなかった=良くなかった」という前提に基づいていないか、ということです。

その場合、一連の出来事を「良くないことだった」とネガティブに捉えていることになります。さらに言うと、思いついた全ての対応策は「良くないことだった」という一つの視点から出てきたものです。

ここで、冒頭に述べたインプット・プロセス・アウトプットの話に戻ります。

アウトプットを変えるためには、インプットを変える必要があるのですが、インプットを変えることは、より具体的にはインプットをポジティブにすること、そして、インプットの視点を増やすこと、です。

そこで、役に立つのが「全ては最善である」という前提を持つことなんですね。

というのも、この前提を持てば、起こった出来事を肯定的に見てみる、つまりポジティブにインプットすることが簡単にできるからです。

また、起こった出来事をポジティブに見てみることは、視点を一つ増やすことにもなります。

そもそも生命は生き延びるためにあらゆることから不安要素、つまりネガティブなことを見つけようとするのが本能です。ですから、起こった出来事をネガティブに捉えることは誰でも自然にやっています。そこに、あえてポジティブに見るという視点を加えることで、同じ物事をネガティブとポジティブ、両方の視点から見ることができるようになるのですね。

インプットをポジティブにすると何が起こるか

もちろん、起こった出来事を「失敗だった」とネガティブにインプットしたとしても、多くの人は前向きであろうとし、「次は失敗しないようにしよう」と奮起することと思います。

ただ、その場合、「失敗しないように」と、常に自分で自分を監視している状態に陥りやすく、再挑戦の道中は気が張ってストレスでいっぱいになるということが起こり得ます。

仮に再挑戦で望み通りの結果を出せたとしても、あなたが感じるのは達成感や幸福感ではなく、むしろ「失敗せずにできてよかった」という安堵感だけかもしれません。

対して、起こった出来事が最善だという視点でポジティブにインプットしたら、「そもそも自分が満足できなかっただけで、他の人から見たらいい出来なのかもしれない」と考えられるかもしれませんし、「最初に目指していたものとはもっと違うものを生み出せるチャンスかもしれない」と思うかもしれません。

何を思いつくかは人それぞれなので、これらはあくまでも例ですが、いずれにしても、「失敗しないように」ではなく、「よりよくするために」というポジティブなマインドセットができやすいので、結果的に、湧き上がってくる活力が全然違ってくるはずなのです。

インプットの視点を増やすと何が起こるか

一方、インプットの視点を増やすことは、どう幸せと関わるでしょうか?

これについては、視点の違いを表すのによく使われる下の図を参照してみしょう。

これはどこから見るかによって6にも9にも見えるわけですが、Aの視点しかなく「これは6だ」という認識しかないのと、AとBの視点、両方を持っていて「これはある地点からは6に見え、反対からは9に見えるものだ」という認識しているのとでは、この6・9という対象物に対するインプットの情報量が違ってきます。

当然、より多くの視点で見れば見るほどインプットの情報量は増え、対象物をより事実に近い姿形で認識できるようになるんですね。そうすると、何が起こるかというと、脳が、より事実に即した最適解を出しやすくなるんです。

事実に即した最適解が出せると、それだけで物事はずいぶんスムーズに、楽になります。でも、それ以上に、生命のシステムにとっては、情報が足りないことは生き抜くために何をすればいいかわかりにくいということですから、不安要素なんです。ですから、情報が足りている方が安心できるんですね。

安心できることはイコール幸せではないですが、そもそも不安ではなく安心の状態にないと幸せは感じにくいので、インプットの視点を増やしてインプット情報の精度をあげることで安心が増えるほど幸せを感じやすくなるとは言えます。

「全ては最善であるという前提を持つ」。その言葉だけだと、精神論のように聞こえますが、動作学のレンズを通してみると、その奥には生命の仕組みという本質が関わっていることが見えてくるのが面白いところ。

生命の仕組みは、生きている全ての人が自然に備えているものですから、その仕組みの本質を理解し、自らの幸せのために使えるようになることが動作学的な幸福論である、と言えるかもしれません。