バトル・ロワイヤルⅡ 鎮魂歌(レクイエム)

https://youtu.be/fltC0rdtCQ8

「911後」の「対テロ戦争の時代」を邦画SFという枠で描いた映画。

 それが、鑑賞した僕の脳裏に、真っ先に浮かんだ言葉だった。

 正直僕は、鑑賞を始める前までは、この映画に対してほぼ期待を抱いていなかった。以前見た前作「バトルロワイヤル」が、僕にとっては退屈こそしないものの期待したほどの映画だとは感じられなかったからである。僕はこれまで、「バトルロワイヤル」という作品のタイトルを、「伝説」として知っていた。例えば僕の最も好きなテレビドラマである「仮面ライダー龍騎」のアイデアの源泉となった作品として、その名前を知っていた。あるいは「龍騎」「Fate/stay night」「魔法少女まどか☆マギカ」といった「バトルロワイヤル系」作品のムーブメントの原点として。あるいは「2006年に佐世保で同級生を殺した小学生が犯行前日にこの映画を見ていた」という逸話や「公開前、国会で公開中止が議論された」という逸話によって語られる「アブナイ作品」としてその名を知っていた。だから、「バトルロワイヤル」第一作目を、僕は好奇心と恐怖の入り混じったドキドキハラハラした気持で鑑賞したのである。しかし、前述したように「退屈はしなかったが、期待したほどの衝撃は感じなかった」端的に言えば、肩すかしを食らったのである。

 そもそも基本設定に無理がある。何故「大人が子どもを恐れた」結果、「毎年一回中学の一クラスを殺し合わせる」という法律ができるのか? 全国の中学校で行うというのならともかく年に一クラスだけでは子ども全体への教育効果などあるわけないし、見せしめとしての効果が期待されているのだとしたら、主人公たちの学級の崩壊状態と整合性が足りない。もし子供たちが本気でBR法を恐れているならもっと大人に従順になるはずだ。またずぶの素人を無人島に隔離して脅したところで、ちゃんと殺し合いなどするかどうかも疑問である。銃や刃物で殺人を行うというのも一つの技術であり、軍隊等で一定の訓練期間を経ることで身につくものだからだ。動く的である人間の体に銃弾を当てるだけならまだしも、絶命させるように的確に発砲するとなればなおさらだ。例えば人間の頭蓋骨は丸いから、弾が弾かれやすいと聞いたことがある。「頭に向かって撃ちさえすれば殺せる」というものではないはずである。銃は発砲に伴う反動に耐える技術も必要だ。もし現実にこのようなイベントを実施すれば、他人を殺害する前に自分自身を傷つけてしまい死ぬものが続出するのではないか?

 そしてそれらの無理な基本設定に目をつむったとしても、シナリオ内容としては「中学生たちの死にざま」をバラバラに羅列するだけであり、主人公である七原以外一本筋が通ったドラマはない。まあそれはそれなりに退屈ではなかったし、陸上選手である少女(若き日の栗山千明が演じていた)が片思いの相手である少年の腕に抱かれながら死ぬ場面とか「泣けた」のも事実だ。また、七原がきっかけで誤解からの殺し合いに発展してしまった灯台の女子生徒たちのエピソードは、その経過があまりにもコメディチックでゲラゲラ笑えた。しかし「それだけ」である。以前あらすじを書いた「ラスト、コーション」のように全編が一つの劇に貫かれており、そのためにテーマもはっきりと伝わるような構成ではなかった。もちろんこれは僕が「群像劇」スタイルのドラマを理解する能力において未熟である、という点があるゆえであることも否定しないものの。

 自分が一作目の「バトルロワイヤル」を鑑賞して、記述する意欲がわけたのは、ビートたけし演じる教師「キタノ」の物語だけだ。だから僕は「キタノの物語」として「バトルロワイヤル」という作品を語った。

 そしてキタノは、一作目で既に死亡した人物であり、本文で取り上げる「バトルロワイヤルⅡ鎮魂歌(レクイエム)」(以下「BRⅡ」と呼ぶことにする)には登場しないはずである。

 以上で上げた理由に加え、YouTubeでの「BRⅡ」予告編動画のコメント欄を見ると、この映画は一作目のファンからは評判が悪いらしいということがわかったことも、僕に鑑賞をためらわせた。一作目の監督である深作欣二監督が本作の撮影途中に急逝し、息子が受け継いで完成させたということも知った。その息子は「父親の才能を受け継げなかった」と酷評されていた。一作目でさえ正直「はまりきる」まではいけなかった自分としては、その一作目に比較してさえ評判の悪い二作目には、ネガティブな先入観を抱かざるを得なかった。

 自分は実際、この映画を鑑賞せずに録画から消そうかとさえ思っていたほどである。とはいえ、世間の評判と自分が実際に見た上で下した作品評価が異なっていた例がこれまでいくつかあった以上、僕は「まずは見てみよう」と決めた。

 結論としては、「良い意味で予想を裏切られた映画」だと、感じることになった。紀里谷和明監督「GOEMON」を見た後に似た感じだ。とはいえ不満点もないわけではないのだが。

 BRⅡが描いているのは前作のような「殺し合い」ではなく、「戦争」である。個人戦ではなく集団戦だ。開始冒頭、前作から三年の月日が経過したこと、前作ラストで生き残った七原秋也がBRの生き残りやその家族たちと「ワイルドセブン」というテロ組織を結成したことが語られる。

「俺たちは、全ての大人に対して宣戦を布告する」

 七原(藤原竜也)がこう語ると、夕暮れの中、高層ビルが立ち並ぶ東京の風景が画面を占拠する。画面中央に立つのは東京都庁だ。あの、「二つの塔」が立っているように見える東京都庁である。そして次のカットで、都庁の下階で爆発が起き、この建物はゆっくりと崩れ落ちる。このシーンが、2001年9月11に発生したアメリカ同時多発テロの暗喩であることは明らかだ。あの事件もまた、「二つの塔」に対して攻撃が加えられた事件だったのだから。このシーンと、つづく「世界はテロの時代に突入した」という画面に現れる文字によって、本作が「異なる世界における911後」であることが観客に提示される。

 物語は、このテロを引き起こした七原たち「ワイルドセブン」との戦いを、大人たちから強制される中学生たちの視点から語られる。今回も大人たちが贄として捧げるのは中学三年の1クラスである。彼らは素行不良な子どもたちだけを集めた学校のクラスなのだ。主人公に当たるのはこのクラスに属する一人の男子生徒青井拓馬(忍成修吾)と、一人の女子生徒キタノシオリ(前田愛)である。

 彼女は、前作ラストに亡くなった教師「キタノ」の娘であり、少年たちの中で唯一、自発的な志願で戦いに加わった。彼女が志願した理由は正直、映画を見る限りは判然としない。「父が残した絵に描かれている少女が私でないと知った時、私は父を憎んだ。私は決着をつけるためにバトルロワイヤルⅡ(七原をターゲットにしたゲームであり、「バトルロワイヤル」の発展型)への参加を決意した」語られる言葉はこれだけである。ごくストレートに解釈するならば、彼女は父親を殺害した七原への復讐のために戦おうとしているのであろう。しかし彼女は劇中において、いざ七原と対面しても危害を加えるそぶりを一切見せないのだ。また死の時には、「父が描いた」少女、中川典子(前田亜季)への不可解な執着を露わにする。深く解釈をするならば、本当は自分をしっかり見てほしかったと思っていた父親キタノが最期の時にバトルロワイヤルの参加者だった少女にだけ心を開いたという事実が許せず、自らも「バトルロワイヤル」のような極限状況に身を置くことによって中川典子と同じ立ち位置になり、亡くなった父との一方的な和解を目指した、ということだろうか。

 前作において「七原に命を奪われた人間」キタノの遺族である彼女の存在は、単にBRⅡと前作BRとの世界観的つながりを補強するにとどまらず、「加害と被害の連鎖」という、本作が踏み込みながらも十分に語りえなかった問題を象徴するものであろう。

 BRⅡは世界観としては「虐げられ、抵抗を始めた子どもたち」である七原たちと、「子どもたちを虐げ続けた大人たち」である国家権力の戦いでありながら、実態の構造として七原たちと戦うことになるのは彼らと同じ「子どもたち」である。彼らはかつての七原たちのように大人から戦いを強制されているだけだ。大人と子どもの戦いが、実態としては大人に戦いを強いられた子どもたちと大人への支配に抵抗する子どもとの戦いになってしまうこの構図は、対テロ戦争の縮図として提示されているのであろう。大人とは強者の、子どもとは弱者の例えである。強者たるアメリカ合衆国に対して、弱者であったテロリストたちは攻撃を加えた。しかしその後の対テロ戦争における戦場の構図は弱者対弱者であった。兵役廃止後のアメリカ軍において兵士のほとんどは経済的な理由から志願した貧困層であることはよく知られている。彼らは強者(政治家や政治に影響力を持つ資本家たち)によって生み出された経済構造によって戦いを強制された弱者たちであり、BRⅡの主人公たちと同じなのだ。

 強者が弱者の抵抗を押さえつけるために弱者に戦いを強制するというこの構図は、さながら悪夢である。これは強者に抵抗する側にしてみれば、否応なく弱者と戦わざるを得ない立場に置かれることを意味する。伊藤計劃が「虐殺器官」で描いた「テロ組織が誘拐して兵士に仕立て上げた少年少女たちを、テロ組織殲滅のために殺害しなければならない」先進国の兵士たちと、BRⅡにおける七原たちは似た立場にある。念のために補足しておくと、僕は911もその後のアフガン戦争も、そこに至る過程を全く知らないといっていいので、アメリカとアルカイダどちらに「大義」があるのかは全く分からない。そのためアルカイダを「強者の圧制に立ち向かった英雄」として賛美するつもりは全くない。ただこういう構造があることだけは理解できるという話である。

 この構造において、七原たちは単純な「強者の圧制に立ち向かう」英雄ではありえない。劇中でも「てめえら大人と何が違うんだよ!」と彼らに対して批判が加えられるシーンがあるが、七原たちとの殺し合いに身を置く者たち、七原たちのテロによる犠牲者からの視点から見れば、七原たちテロリストの側こそが自分たちを虐げる「加害者」になってしまうのだ。少年少女たちに七原たちとの戦いを強制する実行役を務める教師RIKI(竹内力也)もまた、この構造を象徴する人物といえる。彼は前述した東京都庁爆破テロによって娘を失っているからだ。七原たちの抵抗が新たな加害となり、被害者を産むという連鎖が、中学生に殺し合いを強要する今の彼を生み出したのだ。映画序盤、彼はこう語る。

「世の中には、勝ち組と負け組の二種類しかいません。皆さんの選択が、それを決めるのです」

 勝ち組と負け組、すなわち強者と弱者のみが存在するとみなし、正義と悪、被害者と加害者の存在を見ないこの世界観は、この映画の提示した構造を踏まえた上での価値相対主義的結論であろう。所詮加害者や被害者は立場によって入れ替わり、故にその関係性から正義や悪を規定することもできない。これは、新自由主義、グローバリズムによって全世界が競争社会におおわれた前世紀末期以降の僕たちすべての人間にとってなじみ深い見解である。もはや善悪は問うな、ただ他者を殺して生き残れと、RIKIは命ずるのだ。それが今のこの世界における唯一の「正しい答え」なのだからと。この思想は、この映画内において唯一語られた「正論」である。この思想への反論は、最後までこの映画においては提示されることなく終わる。

 「大人=強者=加害者への抵抗が自らを新たな加害者にする」という構造から、この映画の登場人物たちは脱出することが出来ない。途中、キタノシオリを含む少年少女たちは七原たちの側に寝返り、大人と戦うことが出来るようになる。しかしそこで彼らと戦うことになる大人たちもまた「最前線に送られた、大人たちの中の弱者」であることが暗示されている。前述の主人公に相当する男子生徒が敵の兵士である大人の男を一人殺したとき、その大人の男は「よくも殺しやがったな。俺にだって家族がいるんだぞ」といって息絶える。この男を演じている俳優は、前作BRにおいて七原の父親を演じた。前作において彼が演じた七原の父親は失業し、七原の中学入学の日に自殺した。これは、BRⅡにおいて子どもたちと殺し合いをして命を落とす大人たちもまた、七原の父親と同じく弱者=競争社会の敗者であることが暗示されているのである。

 僕はこのような「世界の構造」を、とかくスケールが小さい印象のある日本の実写映画の枠内で描けたという点で、BRⅡを評価したい。映像的にも、無人島での入り乱れての戦闘の様子を俯瞰からとる頻繁に出るカットの美しさが心地心地よい。映像というメディアが演劇や小説と違って大きなアドバンテージを持つのは「群衆」すなわち「群れとしての人間」を描けるという点だが、その点で本作は「映像という魅力」をきっちり出している。不満点は、前述した「バトルロワイヤル」世界そのものの無理なポイントというのを除けば、テーマをあまりにも直接的に表現しすぎている点があるところだろうか。映画の中盤で、七原が全世界に対してメッセージを発し、それに対して怒ったアメリカが戦場となる島に一度空爆を行う。そしてRIKIと内閣総理大臣(津川雅彦)との間でこのような会話がなされる。

総理大臣「ついにあの国(名指しこそされないがアメリカのことであることは明らかである)を怒らせてしまった。さっき大統領と話してきたのだがね。48時間後に総攻撃(七原たちの島に対してなのか日本に対してなのかわからなかった。前者ならば次に総理が下す命令の意味がいまいちわからないのだ)を行うつもりだそうだ。その前に七原秋也をなんとしても殺してくれたまえ」

RIKI「ふざけるな! かつて、あんたたちはあの国に12歳の少年に例えられた。じゃあ今あの国は何歳だ! 気に入らない国があれば空爆を加えるのが大人のやることなのか!」

総理大臣「君、そんなことを言っても仕方がないだろう。いま世界はあの国を中心に回っているんだ。世の中には勝ち組と負け組の二つしかない。君はどちらを選ぶ」

 この会話の後、RIKIは総理との決別を表明するのだが、どうも流れに無理があるのが否めない。七原が一度世界に対してメッセージを発したぐらいでアメリカがいきなり他国に空爆を行うなんてのはいくらなんでもあり得ないからだ。またここで唐突に「反米」的メッセージがRIKIの口から語られるのにも違和感がある。確かに本作はその構造上反米的メッセージを発している側面はあるだろうが、これまで述べてきた本作のテーマ性は、「反米」などという枠に収めていいものではないのではないか? これまでは現実世界を暗喩として語っていたのにも関わらず急に「リアルなアメリカ合衆国」が映画のストーリーに介入してくるのもなんともバランスが悪いではないか。とはいえ、ここで「アメリカ」の存在が語られることで、本作の「911後」というテーマ性がよりはっきりと僕に理解できたのも事実だ。映画をより観客に理解してもらうために、「現実とのリンク性」を明示する必要があったというのが作り手側の事情であったのかもしれない。しかしそれを作劇が不自然になる形で表現するしかできなかったのは、マイナスポイントだ。

 もう一つの不満点は、「このような構造が存在する」ということを提示しただけに終わり、その先に対する展望を提示しなかったことであろう。「答えを示さなかった」こと自体は構わない。問いかけだけで終わる作品としては、例えば「仮面ライダー龍騎」があるが、「答えを出さない」ことも一つの誠実さであることに変わりはないからだ。しかしBRⅡの結末はそもそも「問いかけ」に至ってないのではないかと感じられた。確かに台詞の上では映画終盤RIKIが子どもたちに対して言う「世の中には、勝ち組と負け組しかない。本当にそう思うか? その答えを、これから見つけてくるんだ」が、問いかけとして機能してはいる。しかしそれなら「問いを託されたもの」を示すことでこの映画は終わるべきだったのではないか。

 僕は、七原はこの映画で散るべきだったと思う。世界の構造を打ち破ることが出来なかった彼が亡くなり、主人公ポジションにいる男子生徒青井拓馬が生き残って「答え」を探し始める場面でこの映画は幕を閉じるべきだったのではないか、と。それでこそ七原が青井に対して言った、

「真剣に生きることは、ただ死ぬことよりもずっと難しい」

 という言葉が(僕は本作に出てくる台詞の中で一番この言葉が好きだ)、真に説得力を持つ。本作の実際の結末は「七原君も青井君も生きててよかったね」という雰囲気だけで終わってしまっており、「結局問題何一つ解決していないのに何爽やかに前見つめているんだこいつ」「お前何しに日本行ってきて暴れてきたんだ」「お前の始めた戦争のせいで何人死んだかわかってんのか」という突っ込みしか湧いてこないのだ。悪い意味で「後味が良すぎる」のである。例えるならば初代ゴジラのラストで、「あのゴジラが最後の一匹とは思えない」という山根博士のセリフがないようなものである。「七原君を死なせたたくない」という誘惑に負け、作品として見ている人に何を残すべきかという課題から逃げたのが、本作の結末であると考える。

 まとめると、普遍的なテーマ性を抱きながらもそれを物語の中で昇華することが出来なかった「佳作になり損ねた良作」というのが、僕にとっての「バトルロワイヤルⅡ鎮魂歌(レクイエム)」である。


 

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