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キャットミッシング

「お帰りにゃさいませ! ご主人様!」

 玄関の戸を開けたら、お辞儀をしているメイドに、出迎えられた。

 金髪だった。

 美少女だった。

 まあ、どうでもいいことだ。

 自宅に見知らぬ人間がいたときに実行すべき行動は、たった一つしかない。

「もしもし、警察で」

「にゃー―――!!」

 すごい勢いで、メイドは僕の持つスマホをひったくった。

「なんで110番にゃんかするのですか、ご主人様!」

「不審者が家にいたから」

「私、不審者扱いにゃんですか!?」

「えっ? 違うの?」

「ああ・・・・・・」

 メイドは、崩れ落ちた。

 僕は、ため息をついた。

「とりあえずさ、あんた誰?」

 

 ぼーっと窓の外を眺めていたら、チョークをぶつけられた。

 教壇から、額に向けてどストライク。

 地味に痛かった。

「木島(きじま)。空じゃなくて、私が解説をしている教科書を見ろ」

 チョークを投げた教師、九龍令子の低い声が、追い打ちをかけてきた。

「すいません」

 彼女は怒らせると怖いので、早めに謝るのが賢明な選択だ。

「お前らしくもないな。集中しろよ」

 素直に謝ればそれ以上は特に追及もしないという、有難い性格である彼女は、そのまま授業を再開してくれた。

 授業が終わった後で、隣の席に座っている牧野から、話しかけられた。

「木島が先生から注意されるなんて、珍しいな。なんかあったの?」

 僕は、美男子って以外はまあまあ非の打ち所がないこの友人に、正直に答えた。

「猫が消えた」

 ため息とともに、僕は言った。

「あのアイコンにしているクロ君が?」

「雌だからクロちゃんが正しいけどな。そうだよ。あいつが消えた。土曜日から姿が見えない。その日は特に気にしなかったけれど、日曜の朝になっても帰ってこなかった。おかげで昨日はそこらを探し回って、せっかくの休日がおじゃんだ」

「それは災難だったな」

 牧野は、本気で僕に、同情してくれているように見えた。彼はそういう男だから、僕は彼と友達でいられる。

「おまけに今、うちには僕しかいないから大変だったよ」

 何しろ僕の両親ときたら、今は毎年恒例の夫婦二人きりのラブラブ旅行の真最中と来ている。結婚してできた子どもが高校生になるような年齢になっても、未だに二人で仲良くハネムーン気分で旅行できるその精神構造は、僕には到底理解が及ばないところだ。ちょっとうらやましいのがちょっと悔しい。

「でも、両親にも言ったんだろう?」

「一応ね」

『クロが消えた。』って昨日の朝にはラインで連絡を入れた。とはいえ二人の答えはどちらも、『そのうち帰ってくるんじゃない?』というテキトーなものだったけれど。

 けどきっと、それも仕方がないことなのだろう。

 クロはうちの飼い猫というより、僕の飼い猫といった方が、たぶん正確だから。

「今日も帰ったら探すよ。悪いけど、今日は部活休む」

 僕と牧野とは、共に文芸部に所属していた。

「いいよ、いいよ。どうせ活動なんてないようなものだし。なんなら手伝おうか?」

 まったく、どこまでお人よしだ、このイケメン君は。男子校にいるのがもったいない。

「遠慮しとくよ。流石に悪い。ていうか牧野、君、なんかあった?」

「へ!?」

 僕の何気ない問いに対して、牧野は目に見えて狼狽した。

「べ、別に何もなかったけど? なんでそう思うんだよ?」

「いや。別に理由はないけど、なんか一皮むけたというか、金曜日に会った時よりも、こう、全体的に大人びた風に見えるというか・・・・・・。あ、そういえば、顔にけがでもしたのか?」

 今朝から気付いていたけれど、彼は鼻のあたりに絆創膏を張っていた。誰かに殴られたのだろうか? 喧嘩などするようなキャラでもないはずだが。

「こ、これは何でもないから! ちょっと転んだだけだから!」

 その時、次の授業が始まったので、この話はうやむやになった。

 

「誰、ですか? 私が?」

「そうだよ。不審者じゃないっていうなら、まず君が誰なのか教えてくれ」

「え、ええと~」

 金髪メイドは、目を泳がせて言葉を切った。その様子を見て僕は、今日の午前中に見た牧野の挙動不審な様子を思い出した。

「ええと、110番110番・・・・・・と」

「にゃー――! 待ってください! 言います! 言います! 私めの名前はブラック! ブラックとお呼びください!」

「・・・・・・・」

 僕の質問は、名前というよりももうちょっと全体的な存在を問うものだったのだけれど。

 とりあえず、真っ先に口から出てきた疑問は。

「金髪なのに?」

「・・・・・・だって・・・・・・だって、ご主人様がお好みなのが金髪の美少女だったから・・・・・・。エロゲとかエッチな漫画とか・・・・・・」

「え?」

「に、にゃんでもありません! き、金髪でもブラックにゃのです! 名は体を表すとは必ずしも限りません!」

「はあ・・・・・・。で、そのブラックさんが、なんでメイド服コスプレをして僕の家に?」

「し、出張メイドサービスです!」

「頼んだ覚え、ないけど」

「海外旅行中のご両親から、た、頼まれました! 一人じゃ寂しいだろうからって!」

「・・・・・・」

 いくら頭が常夏なわが親愛なる両親とて、留守の息子の寂しさを紛らわすために出張メイドサービスを依頼するほどにねじが外れているとは、信じたくなかった。

 真偽の確認は、簡単にできる。今すぐラインで父さんか母さんに聞けばよいだけだ。

 でも僕は、それをしなかった。

「わかったよ。理解した」

 ため息交じりに、僕はうなずいた。

「にゃ!? 信じてくれるんですか!」

 ブラックと名乗るメイドコスの女の子は、満面を笑顔にして飛び上がらんばかりの勢いで立ち上がった。

「うん」

「にゃっは! ありがとうございます! あ、さっそく何をご所望ですかご主人様! ご飯? お風呂? それとも・・・わ・た・し?」

「なんかいろいろ勘違いをしているだろ。お前」

 

その日の昼ごはんは、屋上で食べることにした。なんとなく、みんなとわいわい言いながら食べる気分ではなかったからだ

 二年の教室を出て廊下を進み、端っこの階段を二階分上ると目の前に現れるドアを開けたら、空が僕を出迎えた。

 そこには、先客がいた。

 柵に持たれたその後ろ姿に、僕は見覚えがあった。

「九龍先生?」

 思わず、僕は声を出していた。

 後姿は振り返った。彼女の手には、種類はわからないがパンが握られていた。

「木島」

 九龍令子は、ちょっと驚いたような様子で、僕を見た。

「お前、屋上で食べるのが習慣なのか?」

「いえ。今日が初めてですよ。先生こそ、いつもここで?」

「いや、違うよ。今日はたまたま、ここに来たかった気分だっただけだ」

「そうですか。僕と同じですね」

 そこで、僕たちの会話は途切れた。

 僕は、先生からちょっと離れたところに腰を下ろし、持っていた購買の焼きそばパンの袋を開いた。

 頬張る僕を、気がつけば、先生がじっ、と見ていた。

「木島」

「ふぁんふぇふ?」

「いや、噛み終わってから答えてもらって構わん」

 僕は、パンを飲み込んだ。

「何です?」

「その」

ちょっと躊躇いがちに、先生は言った。

「牧野は今日、どんな感じだった?」

 意外な名前の登場だった。

「牧野、ですか? 先生も授業中見ていたはずですけど、何故僕に?」

「いや、その、なんだ。お前とあいつは、親しいだろう。お前から見て、何か変わったところはないか、気付かなかったか?」

 九龍先生らしくもない、明快さをかけた質問だった。

 先生は常に、言うべきことをはっきりと口にする人であったはずだが。

「・・・・・・そういえば、顔に絆創膏を貼っていましたね。あとはまあ、金曜日に会った時と比べて、どことなく雰囲気が変わったなあって印象は受けましたけれど。それだけです」

 もしかして先生は、あいつの顔の絆創膏について、何か知っているのだろうか?

 先生は、

「そうか、ありがとう」

 と、言ったきり、黙った。

 別に僕も、それ以上何か追求したいとも思わなかったので、パンを食べる作業に戻った。

 焼きそばパンを食べ終わり(安定の購買部クオリティだった)、ポケットから取り出したジュースの紙パックにストローを指して飲み始めると、

「木島、お前は何か、あったのか?」

 先生が、また話しかけてきた。

 僕は、ストローから口を離した。

「何か、といえばまあ確かに何かありましたけれど、僕、今日外から見て変でしたか?」

「私の授業中に、外を見ていただろう。いつもはそんなことないからな。気になった」

「ああ・・・・・・」

「何があった?」

「飼い猫が、行方不明になりました」

「大事な猫なのか?」

 僕は、答えを躊躇った。

 

 僕が12歳だった年の夏、父方の祖母が死んだ。

 彼女は僕と両親の家族とは、離れて暮らしていた。隣町で、一人暮らし。祖父はずいぶん前に亡くなっていた。

 彼女は、優しい人だった。少なくとも、幼い頃の僕の目にはそう映っていた。たまに遊びに行くと、可愛がってくれた。その頃から、祖母の傍らに黒い猫がいたのを覚えている。

 祖母が死んで、彼女の飼い猫だったクロを、父が我が家に連れてきた。

「おばあちゃんが可愛がっていたし、捨てちゃうのもかわいそうだろう。うちで飼ってやろうって思うんだが、母さんはどう思う?」

「私は別に猫は嫌いじゃないけど、旅行の時に困らないかしら?」

 母の答えに、父はうーん、と頭をひねった。

「泊まれるところが限られちゃうし、誰かに預けるのもその人に悪いしなあ」

「ねえ、賢(けん)太(た)はどう思う?」

 僕の両親にだって、美点はある。そのうちの一つは、もの心ついた時から、家として何かを決めるとき、その通りにするかどうかは別として、とにかく一度は僕の意見を聞く、という習慣を、ずっと続けてきてくれたことだ。

「僕、クロを飼いたい。旅行に行っているときは、僕が世話するから」

 なんでそう答えたのか、自分でもわからない。

 そりゃ、クロのことは知っていたけれど、祖母の家に行ったときに、特に自分が可愛がっていた記憶もないのに。

 猫を飼っている同級生に憧れがあったのかもしれない。

 もしかしたら、留守番をする口実が欲しかったのかもしれない。もうその頃には、旅行のたびに見せつけられる両親の恋人ムーブにうんざりし始めていたし。また、反抗期の入り口に立っていて、二人のことを煩わしく思い始めた時期でもあった。

 あるいはひょっとすると、自分に対していつも優しかった祖母の飼い猫をそばに置くことで、祖母が存在の欠片だけでも、せめて感じていたいと思ったのかもしれない。祖母が死んだとき、確か僕は泣いたはずだ。

 僕の申し出を、両親は受け入れてくれた。

 ただその成り行き上、クロの世話は、僕が主に担当することになった。

もっとも、クロは、手のかからない猫だった。

 きっと、祖母に長く飼われていたおかげだろう。トイレはちゃんと猫用のトイレにしたし、キッチンでご飯を作っているテーブルの上に乗ってくることもなかったし、車や家を傷つけることも汚すこともなかった。新しい飼い主になった僕がとりわけ苦労したようなことは、記憶にない。カエルやネズミの死体を咥えて持ってこられたときは、流石にちょっと困ったけれど。

 僕がクロに関して、特に印象に残っている記憶は、オナニーの現場を見られた時のことだ。

 ・・・・・・中学生のころ、同年代の男子たちの例にもれず、僕にも性の目覚めってやつが訪れた。で、僕の日々持て余す性欲を発散することに役立つオカズは、主に二次元だった。

 その日も僕は、金髪で巨乳な美少女メイドがヒロインのコミックをオカズに使って、本来命の源となるはずだった億万のタンパク質の塊を、無事ティッシュの上に無残にぶちまけた。

 射精の後の賢者タイム。

 その心地よくて不快な虚脱感の中で、僕は、クロが僕を見ているということに気が付いた。

 クロは、じ、と僕を見つめると

「にゃあ」

 と、ひと声鳴いて、部屋から出て行った。

 なぜか、その時の光景が、僕は強く印象に残っているのだ。ティッシュの上の白いしみ。しなびたようになった僕のペニス。カーテンの隙間から差し込む窓の外の陽光。床の上で広げられたコミックのページ。そんな光景の中にちょこんと座って、ひと声鳴いて歩み去っていく小さな黒い獣の姿が。

 まったく、なんであんな光景のことを強く覚えているのか、さっぱり理由がわからない。

 猫とはいえ、オナニーの現場を見られたことが、恥ずかしかったのだろうか?

 

「ちょっとよく、わからないです」

 僕は、先生の問いに対して、正直な気持ちを答えた。

「わからない?」

「僕にとってクロが、あ、クロっていうのがその猫の名前なんですけど、本当にそこまで大事な猫かどうか、よくわかんないです。その、そんな大した思い出もないのですよ」

「今その猫がいなくなって、お前はどんな気持ちがわいてくる?」

 僕はまた、ちょっと考えた。また、正直に答えることにした。

「心配です。あいつのことが」

「だったら答えは明白だ。お前にとって、その猫は大事な存在だよ。でなきゃ心配したりはしない」

「はあ」

「愛なんてものはな、何も特別な経験があるから生じるものじゃない。木島、ご両親が恋愛映画みたいな事件に遭遇したから、今のお前がいると思うか?」

「さあ。多分、違うんじゃないでしょうか」

「そうだ。みんな平凡な日常の中で出会って、平凡の中で愛を育んでゆくんだよ」

 先生のお話は、わかりやすいようでわかりにくい。

 言いたいことはわかるんだけど、その言葉の裏には、今の僕が本当には理解できない何かがあるような、そんな気がした。

「頑張れよ」

「え?」

「クロを探すの、頑張れよ。人は大事なものを、簡単に失うからな。まだ間に合うと思えるうちに、一生懸命あがいて見せろ」

 

「にゃーん! お待たせしました、ご主人様あ!」

 ブラックは、満面の笑顔で、夕ご飯を持ってきた。

 皿いっぱいに盛られたご飯に、香ばしいルーとジャガイモやニンジンや肉がミックスされたその名はカレーライス。

 別に僕は、好物がカレーであることを伝えてはいなかったのだが。

 テーブルについていた僕は、前に置かれたカレーの皿に、黙ってスプーンを入れ、口に運んだ。

 ブラックのカレーは、美味しかった。

「どうですか?! ご主人様!」

 テーブルの向こうから身を乗り出さんばかりにして聞いてくるブラックに対して、僕は

「うん、美味しかったよ」

 素直に、褒めてあげた。

「にゃっは!」

 彼女は、満面に笑顔を浮かべた。

 女の子の笑顔って、可愛いな。

 不覚にも、そんなことを思ってしまった。

 カレーを食べながら、僕は言った。

「お前、クロだろ?」

「・・・・・・」

 ブラックの笑顔が、一瞬にして、固まった。

 まるで、急に冷凍されたみたいに。

「に、にゃんで、そんなことをおっしゃるのですか? わ、わたしは、猫なんかじゃありませんよ・・・・・・。出張メイドサービスから派遣された、金髪の美少女メイドですよ・・・・・・」

「僕、クロが猫の名前だなんて一言も言ってはいないけれど」

「・・・・・・」

「ていうか、お前、頭から猫耳生えているよ」

「にゃ!」

 ブラックは、あわてて両手で頭を押さえた。

 しかし、金色の髪の間から出ている三角形の、猫特有の耳の形は、手で押さえて隠せるものでもなかった。

 馴染みのある、黒い毛におおわれた猫耳だった。

「スカートから、尻尾も見えているし」

「にゃにゃにゃ!」

 この尻尾もまた、見覚えのある黒毛だった。

「こ、これは、違うんですにゃ! 私は、その、猫耳猫尻尾付属型メイドでして、猫がお好きなご主人様の要望に応えて・・・・・・」

 僕は、彼女が言い終わるのを聞かず、黙って椅子から立ち上がった。

 そして、抱きしめた。

 ブラックと名乗る金髪美少女メイドを。

 いや。

 クロを。

「この、バカ猫」

 耳元で、僕はささやいた。

「・・・・・・ごめんにゃさい」

「心配したんだぞ」

「・・・・・・でも、もっと、驚かにゃれないのですか? 猫がメイドに変身したんですよ?」

「思い出したんだよ。僕は、前にも一度だけ、今の姿をしたお前に会った事がある。」

 そう。

 今日、僕は唐突に思い出したのだ。

 長年の疑問の氷解。

 どうして僕は、クロにオナニーの現場を見られた時のことが、強く記憶に刻まれているのか?

「お前、あの日も、変身しただろ」

「・・・・・・」

 クロは、無言で頷いた。

 強く記憶に残っていて当然だ。

 なにしろ、オナニーを終えた後、部屋を出てみたら、金髪の美少女が立っていたのだから。

 それも、全裸で。

 綺麗な体だったことを、覚えている。

 頭に猫耳が生えていたことも、形の良いお尻から尻尾が生えていたのも覚えている。

 今、僕の腕の中にいる少女と、少しの違いもなかった。

 今はメイド服を着ているという違いはあるけれど。

「・・・・・・なんで、忘れていたんだろうな? お前のせいなのか?」

「はい・・・・・・。私が、記憶を消したのです。人間のおんにゃの子に変身した私を見た記憶だけを、消したんです」

 でも、きっと、僕にとっては、部屋の中でクロに気付いたところから、部屋の外で美少女の裸身を見たまでが、一つの事件として記憶に強く刻まれた。だからクロが後半の記憶だけを消しても、前半の記憶がずっと忘れられなかったのだろう。

 そして、後半の記憶も、今日帰宅してクロを見た時に、「思い出した」。

 だから、僕は、こいつのついた嘘について真偽を確かめることもしなかった。

 クロを探しに出かけるつもりだったけれど、それもやめた。

「……ひどいですよ、ご主人様。気づいていにゃっしゃったなら、言ってくださればよかったのに」

「まあ、なんか、僕だって、半信半疑だったからさ」

 玄関のドアを開いて彼女の姿を見た時に、その記憶は唐突によみがえってきた。にわかには信じられなかったけれど、信じざるを得なかった。

 謎の解決はもちろん、無数の謎を呼んだけれど。

「なあ、クロ」

 僕は、腕の中にいる、美少女メイドの姿に変身している飼い猫に聞いた。

「お前、一体何者なんだ?」

 

 私は、猫です。それ以外の何者でもありません。

 私は、前のご主人様である、ご主人様のお祖母様から、魔法を教わった猫なのです。

 ご主人様のお祖母様は、魔女でした。

 魔女がどんな存在であるかは、ご主人様もきっとご存知だと思います。

 箒に跨って空を飛んだり、人をカエルに変えてしまったり。物語に語られているような、不思議な力を使う存在そのものです。

 最もあの方は、ご自身の魔法を、他人を害するために使ったことは、私の記憶の限りでは一度もありませんでしたけれど。

 この事実を、ご主人様が知らないのは無理のない話です。あの方はご自身の息子、即ちご主人様のお父様にすら、自分が魔女だということを教えなかったのですから。その理由は、私などにはうかがい知ることも叶いませんが・・・・・・。

 私は、あの方の魔法によって知性を与えられ、その知性を用いてあの方から魔法を学んだのです。

 ただ、あの方ほどうまく魔法を使えるようには、結局なれませんでしたけれど・・・・・・。

 

「人間の姿になっても、時間がたつとぼろを出してしまうわけか」

 クロは、尻尾をだらんとしょげさせた。落ち込んでいるようだ。

「お前が魔法を使える猫だってことはわかった。でも、この家に来てからは、少なくとも僕らの前ではそんなことを明かしはしなかったよな?」

「前のご主人様が、ご子息やそのご家族が魔女や魔法について知ることをお望みにはにゃられませんでしたから、私もそのご意思に沿おうと決めたのです」

「でも、じゃあなんで、今日はこんなことをしたんだ?」

「・・・・・・」

 クロは、口を閉じた。

 僕をじ、と見つめる。

 僕も、沈黙して、彼女(正体が猫だろうが、女の子の姿をしているのだ。こうとしか呼べない)を見つめた。

 次の瞬間、僕は衝撃を受けた。

 突然、彼女が全裸になったからだ。

 服を脱ぐという過程さえ踏まなかった。

 僕の腕の中で、彼女が着ているメイド服が発光したかと思うと、霧のような形状になって、空気の中に消え去った。

 あとに残されたのは、あの日僕が見たのと寸分の違いもない、全裸の美少女の姿だった。

「ご主人様・・・・・・」

 絶句する僕の耳元で、彼女は、ささやいた。

「私を、抱いてください」

「・・・・・・」

 何を言われたのか、わからなかった。

「は?」

「私は、ご主人様に、恩返しがしたいのです」

「・・・・・・」

「私は、ご主人様に飼っていただいて、とても幸せな日々を送ることが出来ています。でも、そんな私は、ご主人様のために何かをしてあげたことが、これまで一度もありません。小さな生き物を殺して死体をもってきても、ご主人様は困惑しているように見受けられて、少しもお喜びでにゃかったようでしたし・・・・・・」

「・・・・・・」

「私は、これじゃいけにゃいって、最近気づいたのです。ご主人様に与えられるばかりじゃにゃくて、私もご主人様に何かをしてあげなければにゃらないのだと」

 ようやく、なんとなく、彼女のやりたいことが、見えてきた。

「・・・・・・だから、変身を、したのか? 僕に、その・・・・・・、抱いて、もらうために」

 クロは頷いた。

「ご主人様は、こういう外見の女性を、お好みですから・・・・・・」

「・・・・・・」

 まあ確かに、そういう美少女の絵で抜いていたけど。抜いていたのをクロも見ていたのだから、知っているのは当然だけど。

「でも、さっきもいいましたけど、私の魔法は下手ですから・・・・・・。一昨日から勝手ながら家を出て、遠い森の中で、完壁な人間のおんにゃの子、それもご主人様のお好みのおんにゃの子に変身できるまで、練習していたのです。何度変身しても、どうしても猫の耳と尻尾だけが残ってしまいました・・・・・・」

「今も残っている」

 どうでもよいことを指摘してしまった。

「はい・・・・・・」

 クロは、泣きそうだった。

「いや、でも、可愛いと思うぞ? うん」

 思わず、フォローしてしまった。

「では、この姿でも、抱いていただけますか?」

 後悔した。

 僕は、一体、何をやっているんだろう。

「抱かないよ」

「・・・・・・やはり、猫耳がついていると、駄目にゃんですね?」

「いや。そうじゃないよ。猫耳やしっぽがついていなくたって、僕はクロを抱かないよ」

「・・・・・・どうして、ですか? 金髪の美少女メイドは、ご主人様が性欲の対象として、一番お好きな姿ではにゃいのですか?」

「いや、そうだけど」

「だったら、どうして?」

「どうしてって、そりゃ・・・・・・」

 僕は、自分の気持ちをどんなふうに言葉という形にできるのか、悩んだ。

 結局、悩んだ末に、すごく単純な言葉で答えることにした。

「お前が、猫だからだよ」

「……今は、人間のおんにゃの子の姿をしています。凄くかわいいです。それとも、ご主人様のお好みでは、可愛くにゃいですか?」

「いや、可愛い」

 正直な感想だった。

 そして、性欲を感じているのも事実だ。今、裸の彼女を抱きしめている状態で、僕の男性としての部分は激しく勃起している。

 だけど。

「でも、本当は猫だったことに、違いはないだろ? それに・・・・・・」

 僕はちょっと、言葉を探した。

「それに?」

「お前、僕が好きだからやりたいわけじゃないんだろ?」

「……私は、ご主人様のことが、大好きです」

「……うん、僕も、お前のことが好きだけどさ。多分僕もお前も、好きの種類が違うと思うよ」

「……好きに、種類が、あるんですか?」

「……僕だって、よくわかっているわけじゃないけれど、多分あると思うよ」

 僕は、乏しいと自覚している頭脳を回転させて、例えを探した。

「例えば・・・・・・僕は、猫の姿でいるお前を見ても、別に性的な関心は抱かないんだ。クロは、人間である僕を見て、やりたいって思ったりするの?」

 クロは、きょとんとした。

「……思いません。猫と人が性行為をしても、子どもは生まれませんから」

「そうだろ? だから、好きの種類が違うってのはそういうことだよ」

「・・・・・・よく、わかりません。何故、私の気持ちが、関係あるのですか?」

 適切な言葉を、僕は探した。

「僕は、クロのことが、好きだから。クロが僕のことを好きじゃないなら、やりたくない」

「・・・・・・やっぱり、よくわかりません。私が好きだから、私を抱きたくにゃいのですか?」

「うん」

 自分でも、変なことを言っているっていう自覚はあるけれど、それ以外に、適切な表現が、見つからなかった。

「クロが好きだから、クロとはやりたくない」

「・・・・・・でも、じゃあ・・・・・・」

 クロは、とても落ち込んだ口調で言った。

「ご主人様に対して、私ができることが、ありません」

「そんなの、いらないよ」

「どうしてですか?」

「別に、欲しくないから。クロが一緒にいてくれるだけで、僕はいいから」

 正直な気持ちだった。

 クロがいなくなってからの二日間と、今日の昼に屋上で言われた言葉のおかげで、ようやく見つけた答えだった。

「・・・・・・それで、ご主人様は、よろしいのですか?」

「いいよ。本当に、それだけでいいんだ」

 平凡な日常だけで、愛を得るには十分だと、九龍先生は言ってくれた。

「どうしても、クロの気が済まないっていうなら、一つだけ約束をしてくれないか」

「・・・・・・はい。なんですか?」

「もう、黙って、どこかに行ったりしないでくれ」

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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