見出し画像

山の向こうのJJJ

 私は子どものころ、福島正実の「JJJ」という小説のことが、好きだった。

 この小説のことを知っている人は、今、きっと、あまりいないと思う。そもそも若い世代は福島正実という名前さえ知っている人が何人いるか、はなはだ心もとない。とはいえ、SF小説が好きで、日本におけるSF小説というジャンルの需要と定着の歴史に興味がある人ならば、確実に名前を聞いたことがあるはずだ。ただそういう人であっても知識としてあるのは「編集者・翻訳者」としての福島正実であって、「小説家・福島正実」として認識している人、福島正実の小説を読んだことがある人は、どちらかといえば少ない方ではないだろうか。

 福島正実という名前は、日本SFの創世期に、星新一や小松左京、筒井康隆といった巨星たちの名前と同じように記録されている。彼は「SFマガジン」の優れた編集者であり、海外SFの優れた紹介者だった。とはいえ、彼の短編集「SFの夜」を手に取った小学生の頃の自分は、そんなことは全く知らなかった。叔母の部屋で見つけた、もう何十年も前に出版されたであろう古びた本の著者として、私は福島正実の名前を知ったのだ。私にとっては、福島正実はまず小説家として、そして私にSF小説というジャンルの魅力をその作品によって教えてくれた人物として、記憶に刻まれたのだ。

 この「SFの夜」という短編集は、「SF小説」というジャンルの魅力について、実に適切なイントロダクションとなっている本だった。表題作の「SFの夜」という、この本のラストを飾る小説も素晴らしい内容だったが、私の心を一番捉えたのは「JJJ」という小説だった。著者あとがきによると、福島先生(今から敬意をこめてこう呼ぶ)自身も、収録した自作の中では「SFの夜」と「JJJ」の二作品に特に思い入れがあったらしい。

「JJJ」は、どんな小説であったのか? これから、内容をかいつまんで、説明したい。

 主人公は、日本人の男である。小説は、彼の一人称によって語られる。彼は、夜の街を、一人でドライブしている。恋人である女性の下へ行くために車を走らせているのだ。車内には彼しかいない。

 男は、交差点で信号待ち中に、隣の車線にちらりと目をやる。隣の車は、黒人の男が運転をしていた。彼の腕には、美しい白人の女が寄り添っていて、二人が恋人であることを、言葉を介さずとも雄弁に語っていた。

 信号が青に変わり、男は車を走らせた。男の脳裏には、黒人の男を白人の女の姿が、強く焼き付けられていた。その姿が、とても珍しかったからだ。小説の劇中世界についての説明が、ここで彼の語りとして挿入される。この世界では、アメリカで激しい人種差別、黒人排斥運動が起きていた。公民権運動の中心的存在だった黒人活動家が白人至上主義団体KKKのメンバーが放った銃弾によって暗殺されて以来、それは特に激しくなっていた。KKKは勢力を拡大し、黒人は町中で襲撃されるようになった。黒人と恋愛関係を持った白人たちも、裏切り者として襲撃の対象になった。知事や警察でさえKKKの肩を持った。そんなアメリカの現実を報道を知っているから、男は夜とはいえ堂々と体を密着させて公道を走る黒人と白人の恋人の姿に、強く興味をひかれたのだ。だがそこには人種差別に抵抗して愛を貫く悲壮感よりも、淫らな雰囲気をより強く感じた。アメリカの現実について、報道で知っている現実について思いを巡らせるうちに、男は正義感を高ぶらせていった。KKKへの、白人至上主義者への義憤が、彼の中で過激に燃え上がる。「白い覆面をかぶった奴(KKKのコスチュームのこと)は、一人残らず殺すべきだ。女も、子どもだって!」と、彼は心中で独白した。

 ここで、急展開が起こる。さきほど男が目にした黒人の男が再び彼の目前に現れ、車から降りた彼に、暴力を振るうのだ。この辺の細部がどんな過程で展開されたのか、26歳の自分は、正直よく覚えていない。ともかくも、黒人は激しい暴力を日本人の主人公に対して振るい、彼は命の危機を感じる。しかしそこに突如現れた白人の男が、黒人の男を銃で殺害した。悲鳴を上げる白人の女。白人の男は、彼女のことも殺害する。彼は日本人の主人公を介抱し、自分を車に乗せてくれと頼む。主人公はその通りにし、その場から逃げ出す。

 車に乗る人は、一人から二人に変わった。助手席に座る白人の男は、「俺はKKK日本支部のメンバーだ」と言った。「黒人と、ユダヤ人と、労働組合に呪いあれ!」と、彼は宣言した。そして彼は、主人公が知らなかったこの世界の真実を語りだした。今、アメリカは、黒人が支配する国家になっているということ。報道で語られるアメリカの現実は、全て偽物だということ。黒人活動家は暗殺されていなかった。黒人活動家は、テレビカメラを通じて、全世界の人類に対して催眠術をかけ、偽の現実を信じ込ませたのだ。KKKが猛威を振るい、黒人が迫害を受けているという、偽りのアメリカの姿を。現実には、黒人たちは議会を支配し、裁判所を支配し、アメリカ全土を支配していた。黒人の男たちは、白昼路上で白人の女たちを襲い、強姦や輪姦を加えた。抵抗した白人女や、白人女を助けようとした白人男は銃殺された。警察は黒人たちの暴虐を黙認するか、その手助けをした。黒人だけとなったアメリカ連邦議会は、「人種混血法」を制定した。人種差別の撤廃のためには完全なる人種混血が不可欠だという理由の下、白人の女に対して、黒人の男から結婚を申し込まれた場合に拒否することを禁じたのが、その法律だった。彼のフィアンセも、この法律の犠牲となった。愛してもいない黒人の妻となることが決まったのだ。拒否すれば逮捕され、親族までが処罰の対象になるから仕方なかったのだ。最愛の女性を奪われ、絶望した彼は、自殺を決意して川にかかる橋の上に立った。しかしそこで、KKKにスカウトされた。彼は黒人の支配に抵抗するレジスタンス組織として活動するKKKの一員となり、フィアンセの奪還を誓った。翌年、多くの白人女たちが、黒人の子どもを産んだ。彼はKKKの同志たち共に、フィアンセを奪った黒人の屋敷を襲撃した。黒人たちに銃弾を発射し、その命を奪うことで、彼は快楽を感じた。彼はフィアンセと再会した。「助けに来たよ。さあ逃げよう」という彼が差し出した手を、彼女は拒絶した。「私は、今の夫に抱かれて、彼を愛するようになったの。あなたたち白人は、今、長きにわたって黒人を差別してきたことに対する、当然の報いを受けているのよ」と彼女は語った。失望した彼は、元フィアンセを射殺する。

 彼の語る過去を聞き終えた主人公は、「この白人の男は頭が狂っているのだ」と確信する。

 車は、恋人の家に着く。開いていたドアを開き、中に入っていった主人公は、恋人が男とセックスをしている光景を目撃する。混乱する主人公に対して、ベッドから立ち上がった男は、暴力を加え、叫ぶ。

「どして、日本人が、ここにいる! 日本人、土方をやるのがお似合い! 俺たち朝鮮人のために、馬車馬のごとく働くのがお似合い!」

 その時、主人公は突如、世界の真実に気付く。彼を洗脳していた催眠術が解けたのだ。白人の男が語ったことは真実だった。今、アメリカが黒人に支配されていることを彼は思い出した。1945年以来、日本は朝鮮の委任統治領になっていたということを思い出した。そして自分が、朝鮮による統治に抵抗し日本解放のために戦う組織「JJJ」の一員であるということを思い出した。

「朝鮮人と、共産主義者と、警察に呪いあれ!」

 脳裏に響くJJJの誓いの言葉を叫びながら、主人公は朝鮮人の男を殺害する。

 主人公は、窓から夜の街を見下ろしながら、「この街の輝きは、娼婦の化粧に過ぎない。目の前の現実は、真実であるとは限らない」と独白する。白人の男が見守る中、小説は、主人公が恋人を殺害することを示唆し、終幕する。

 以上が、「JJJ」という小説である。少年の日の私に、おそらくは永遠に言えない傷を残した、謎に満ちた小説だ。この小説において、主人公が最後に知った「真実」が本当に真実であるかは、誰にも証明しようがないのだ。彼は彼自身が白人の男がそうだと確信したように、発狂したのかもしれない。あるいは黒人の男に暴力を振るわれたときに、彼はパラレルワールドに移動したのかもしれない。目の前に映る現実が偽りかもしれないという可能性を示唆するこの小説にあっては、小説の最後に提示された世界観さえもが、唯一の現実であるという保証はどこにもないのだ。

 少年の日の私は、何故この小説に惹かれたのか? それはまさにこの「偽りの現実」という可能性にこそあると、信じている。誰だって、人生の一時期に、人生が実は夢なのではないかという疑惑にとらわれたことがあるはずだ。何もない空間に、自分の意識だけが浮いていて、この空も太陽も海もビルも人も犬も、自分の意識が生み出した夢に過ぎないのではないか。あるいは自分は実は、自分が人間だという夢を見ている蝶に過ぎないのではないか。ちなみに私自身がこの疑惑から解放されたのは、自分の想像力はこの世界を丸ごと想像できるほどには豊かでないということに納得した時だった。JJJは、そんな自分の根源的不安に通じるものがある小説であったのだろう。この不安は、歴史に耐えた書物のページをめくれば、先人も感じた不安であったことが伺える。「我思う。我在り」という言葉は、まさにこの不安を前提としたものだった。そして、この不安を持ち続ける人や、不安にこたえるように、メディアが報道している現実は偽りだと主張する声は後を絶たない。JJJのラストにおいて提示される「実は日本は朝鮮に支配されている」という世界観は、「在日朝鮮人が日本のマスコミやアカデミズムを支配している」という、ネット上で散見される主張に似ている。あるいはまた、男性の肉体を持つものが女性の肉体を持つものを搾取しているという主張、世界各国の支配層は爬虫類型の異星人が人間に擬態しているだけだという主張、アポロ11号は月に行っていないという主張、南京大虐殺や関東大震災直後の朝鮮人虐殺はなかったという主張、ナチスはホロコーストを起こしていないという主張、911はアメリカ政府による自作自演だという主張、311はアメリカによる地震兵器によるものだという主張など、偽りの現実によって隠蔽された真実の存在を喧伝する主張は枚挙にいとまがない。

 このような「物語」がそれぞれ真実であるか、偽りであるかはともかく、このような物語が世に流布する理由は、私たち人類が、このような物語を好きだからである、としか考えられない。

 なぜ我々は「偽りの現実」という「物語」に魅力を感じるのか?

 それはもしかしたら、私たちの本能に根差す理由があるのかもしれない。

 昔、私は犬を飼っていた。名前はアンという。

 犬を飼う人はすべてそうでなければならないように、僕は、アンを散歩させた。散歩の間、アンはしばしば土を掘りだすことがあった。こうなると私は困ってしまう。アンは一度土を掘りだすと、もう時間を忘れて気が済むまで長い間土を掘り続けるのだ。リードを握る自分は、その間、そこにとどまって待つことしかできない。なぜアンはあんなに土を掘るのが好きだったのだろう。まさか誰かから、土の下には宝物があると教えてもらったわけでもないだろうに。おそらくアンにとっては土を掘ることは本能だったのだろう。その理由は全く分からないが、アンには土を掘らなければならない、土を掘れば何が大事なものに出会えるはずだという本能に基づく確信があったのだろう。

 僕たち人間が、偽の現実という概念を好み、「隠蔽された世界の真実」を求めるのも、そういった本能のなせる業なのかもしれない。

 あるいは、そのようなあるかないかもわからないものを追い求める思考を持つ人類だけが絶滅の危機を生き残り、遺伝子を今に伝えたのかもしれない。

 現実に疑念を抱き、ないかもしれない真実を想像する力が、人間の生存において有用であったのだとしら、その理由は何故だろうか?

 はるか昔、人類はアフリカのどこかに住んでした。

 その時、人類の目には、未だ世界は今見えているような姿ではなかったはずだ。彼らにとって世界とは、せいぜいが遠くに見える山のこちら側にしか存在しないものに過ぎなかった。

 しかし、その時、人類の中の異常な個体が、「山の向こう」に思いをはせる。「丘の向こう」と言い換えてもよい。

「世界は、本当に、いまここにあるものだけでしかないのか。あの山の向こうに、何かがあるのではないか」

 という疑問に、その個体は一瞬、とらわれる。

 そのままでは、しかし何も変化は訪れない。せいぜいその個体は、自分の妄想を仲間に話すだけだ。わざわざ確かめに山を越えたりはしないだろう。普段食べるモノを「いま、ここ」だけで十分賄えるのに、わざわざ遠くまで足を運ぶ必要などないからだ。そんな疲れることは、誰だってしたくない。 

 しかし、いつの時か、変化が訪れる。

「いま、ここ」で、食料を調達することが出来なくなってしまったのだ。

 何故獣が死に絶え、森の木の実がならなくなるような異変が起きる。

 そんな時、「いま、ここ」だけが世界だと信じていれば、飢えて死ぬ運命を甘受するしかない。世界にもはや、人類が生きていける場所はないからだ。

 しかし「いま、ここ」だけが世界の総てではないかもしれないと、「山の向こう」のも、もしかしたら世界があるかもしれないと妄想した個体は、違う。

 その個体は、可能性を求めて、「山の向こう」を目指す。その個体の妄想を聞いて、その可能性に賭けたほかの仲間たちも、共にそこを目指す。そして、その結果生き残った彼らこそが、私たちの祖先なのではないか。

「いま、ここ」の絶対性を懐疑し、世界の真実を想像する力があればこそ、人類は地球に広がり、文明を築き、かつてアフリカの隅で生きていた何百万年前には想像していなかった「世界の真実」を知るまでに至った。

今自分たちが立っているこの大地でさえ、夜、空に無数に広がる星々の中の一つと変わらないという認識は、世界のどの神話の想像力も超えているのだから。

 私がかつて飼っていた犬が本能的に土を掘り続けていたように、私たちはみんな、「世界の真実」を、「山の向こう」を本能的に欲望しているのだろう。

「いま、ここ」ではない「どこか」を夢見ている。

 そして、少年の日の私がJJJに感じた魅力もまた、「いま、ここ」が現実ではないかもしれないという不安とかすかな期待に基づいたものであった。

 そしてそれは、きっとSFというジャンル時代が持つ魅力なのだ。SFとはただ宇宙や未来を描く文学ではない。宇宙や未来が象徴するものとは、「いま、ここ」ではない在り方の可能性であり、この可能性を示唆するからこそ、SFは古くから今に至るまで、愛されてきたのである。    (了)

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?