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ザ・スキマジックアワー 〜隙間時間にだけ訪れる光の調べ〜

スキマジックアワー。

それは隙間時間にだけ現れるという、世界がキラキラと輝いて見える瞬間です。

一度その瞬間を目にしてしまったが最後、それは心に焼き付いて離れることはありません。

温度、湿度、音、心、香り。

様々な条件が合わさった時にしか見ることのできないその瞬間は、追い求めれば追い求めるほどに遠くへ逃げっていってしまうものなのです。


午前9時。

私は美容室に到着しました。

友人夫婦が営む小さな美容室で、私はもう何年も通っています。

さっそくカットをしてもらうこと1時間。
時刻は10時になりました。

「ありがとう、また来るね」とお店を後にして、職場のある駅まで向かうこと30分。

これで時刻は10時30分です。

この日の私の出勤は11時30分からだったので、それまでにはまだ1時間の猶予ゆうよがありました。

私はこの隙間時間が大好きです。

家の中だと家事やら何やら雑多なことがチラついて、なかなかリラックスできないものですが、この外で過ごす空白の時間というのは意外といい気分転換になるものです。

「さあ、この1時間を何に使おうか」

そう考えるまでもなく、私のお腹がぐうぅっと答えを出しました。

まだ朝食を食べていなかった私は、腹ごしらえをしに、職場の近くにあるカフェに行ってみることにしました。

何度かテイクアウトで利用したことはあるのですが、店内での食事は初めてです。

ガラス張りの扉を開けてレジへ向かうと、「まずは席をお取り下さい」と言われたので、私はレジの裏側にぐるりとまわり、運よく空いていたソファ席を確保しました。

このお店は円形の作りになっていて、中央にあるキッチンをぐるりと囲う様に客席が配置されていました。

私は再びレジへと戻り、本日のモーニングコーヒーと、グリル野菜とモッツァレラチーズのホットサンドを注文します。

出来上がったら席へ持って来てくれるという事だったので、私はすぐに座席に戻りました。

ふんわりと柔らかいソファに身を沈め、見慣れない店内を見回してみると、おしゃべりに夢中になっているママ友グループと私以外のほとんどの人が、ノートパソコンを開きカタカタとリモートワークにいそしんでいました。

私はここ最近カフェという場所に足を踏み入れていなかったので、こんなに沢山の人がカフェで仕事をしていることを知りませんでした。

「時代は変わったなぁ」と思いながら、小さな音で流れてくるBGMに耳を傾けていると、あっという間にコーヒーとホットサンドが運ばれてきました。

目の前に置かれたコーヒーの匂いと、ホットサンドの芳ばしい焼き目が私の手を無意識に動かします。

「熱くたってかまわない」

私は勢いよくホットサンドにかじりつきました。

カリカリに焼かれたパンの中からは、とろりと白いチーズが顔を出します。

そのチーズがあんまりにも長く伸びるので、私は少しだけ気恥ずかしくなってしまいましたが、誰もそんなことは気にも留めていませんでした。

なんとかチーズを口の中に収めると、私はそれをコーヒーと共に飲み下しました。

すると、思わず心の声が漏れてしまいます。

「あぁ、ととのう」

朝からゆっくりと朝食を摂れることは、忙しく働く現代人にとって、とても贅沢な事なのです。

私はお腹が満たされると、リュックサックから文庫本を取り出して、しおりが挟んであったページを開きました。

しかし、とたんに睡魔が襲ってきて、2〜3ページも読み進めると同じ行を何回も読み返すようになってしまいました。

私は諦めて本を閉じ、それと同じようにゆっくりと瞼を閉じました。

すると…

……うつらうつら、うつらうつら……ガクッ…。

頭の重みで首がガクッとなり、私はハッと目を開きました。

その瞬間、私の目に飛び込んできたのは、さっきまでとは全く違う光景でした。

窓から差し込む日の光に照らされた店内はキラキラと輝き、静寂で満たされ、そして、全ての動きが止まっていました。

カタカタとキーボードを叩く音も、ママ友たちの話し声も、BGMも聞こえません。

真剣な顔つきでコーヒーを淹れる店員さんも、コーヒーポットから注がれるお湯さえもがその動きを停止して、ただひたすらにキラキラと降り注ぐ光のシャワーを浴びていました。

私の瞼がシャッターを切ります。

この一瞬を心に深く焼き付けようと、体が無意識のうちに反応したのです。

しかし次の瞬間、私は元の世界に引き戻されていました。

目の前に広がる現実の世界は何事もなかったかのように再び動き始め、キーボードを叩くカタカタという音と共に、ママ友たちの笑い声が聞こえてきました。


それから約3ヶ月後、私は再びそのカフェを訪れました。

しかしその日はどれだけ待ってみても、その瞬間が訪れるはことはありませんでした。

あれはいったいなんだったのだろうか。

私は冷えて苦味が強くなったコーヒーを一気に喉に流し込み、店を後にして職場へと向かうのでした。

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