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時間泥棒

議論の放棄・投げ出しは犯罪です。No more, "時間泥棒"

会議の最初にも注意喚起のビデオを流すべきだ。現場を知らない、なんの分析スキルも持たない管理職が『でも、人それぞれだしなぁ』と呟いた瞬間、超大作会議のラスト5分間、あなたは騙される。あまりの不毛さに全米が涙する。

『人それぞれ』

それは『人類みなヒューマン』と同じ滑稽さを持つ。ターゲット像を仮定し、その層に響くものはないかと激論を交わした挙句に『日本人ってみんなお米食べるよね!!』と50前のおっさんに言われてしまったら。親の顔は拝めなくても頭のバーコードをスキャンしたくなるのも無理はない。

『人それぞれ』は、範囲の拡大ではなく尊重の意味で使われるべきだ。

誰かを救うため、守るためには『人それぞれ』ではいけないこともある。トロッコの先にいる5人の行動を、会議室で予測しないといけない時だってあるのだ。

時と場合と私

同じ類の言葉に『時と場合による』がある。

『もし明日いきなり無人島に飛ばされるなら持っていきたいものは?』と出題して『時と場合によるなぁ』と答えられたら『時も場合も言ってるだろ!!!』と激怒していい。誰かと一緒に飛ばされるなら、無人島で人も時も想えばいい。

時と場合によるのも、尊重あってこそだ。

これらは結局『相手に逃げ場を与える』言葉なのだ。

申し訳ない。想定していた答えと違うが、あなたの言うことは不正解ではないと思う。だから『人それぞれ』という範囲に収めたい。

自分には理解や判断がつかない答えを許容する魔法の箱を作れる言葉が『人それぞれ』なのである。

特定を諦めた『人それぞれ』は、今までの時間をドブに捨てる100%フレッシュオーガニックNGワードだ。会議に参加するならラベルを貼り『"人それぞれ"と結論つける恐れがあります』と記載するべきだ。時間の浪費をしたいのも人それぞれだが、少なくともそれは休日のカフェで彼氏の愚痴を言うことに費やす方が生産的だ。

『明日空いてる?』

用件によるのである。

ディズニーに行くならウェルカムなのだが、SASUKEに出場するにはまだ反り立つ壁を攻略出来ていないこともあるのだ。少なくとも、なんでも入れられる魔法のカバンは持ち合わせていないから、用途にあったサイズを選びたい。

少なくとも、無条件で『空いてる!!』と即答していない時点で、『人による』の『人』の低い方に自分が入っていることを自覚しないといけない。

現時点では明日は空いている。しかし現時点では明日は空けておきたい。なぜならお前よりも急に予定が発生したら嬉しい相手がいるからだ。だからもし明日、結局なんの予定も入らずに家で寂しくなったら、その時は『家でダラダラしてるよりはマシ』な選択肢として『空いてるよ』と答えてもいいですか?

そういうことなのだ。もし今『空いてる』と言ってしまえば、明日の自分の気分次第でペットの様子がおかしくなるかもしれない。頼んでもいない宅配物が来るのを忘れてしまうかもしれない。そんな不誠実を避けたい意図だってあるのだ。

明日は空いている。だが『明日の空白の形』は決まっている。残念ながらあなたがそこに入るには、とっておきのエンターテインメントと1000円以内の出費でなければ押し込むことはできないのである。

最大多数の共通幸福

『人それぞれ』論はどうしても発生してしまう例外を救う最終手段であるから、無闇に使ってはいけない。

最初から人それぞれという結論が用意されてしまったら、そこには『網羅』という壁が立ちはだかる。100%以外は不完全であると、いずれ自らの首を締めることになってしまう。

人間は完全を求めすぎる傾向がある。不完全な自分が作るものに、なぜだか完全を求める。不完全であるからこそ愛せる相手に、完全性を求めてしまう。

余裕を持つ人は必ず余白がある。ボーッとする時間であったり、間違いも楽しむ気持ちであったり。菓子パンの味のついていない部分を、パン本来の味として楽しむ余白が存在する。

大切な全員分の居場所を自分の中に常に持っておくのは難しいかもしれないが、避難所として開放出来る小部屋を自分の中に開設しておこう。

誰かが逃げ込むことのできる隙間には、きっといつかの自分も逃げ込むことが出来る。

誰かを許されることで自分も許されるとか、そんな貸し借りもあっていい。

人それぞれに睡眠環境は違えど、みんながみんな、凍える冬の屋外よりも、質素な1DKに布団を敷いてもらいたいはずだから。

最後に

5W1Hでこの世界は語られる。

『たかし君が昨日ひろし君と学校に歩いて勉強しに行ったのは、自転車通学が禁止されていたからだ。』ここまで説明して初めて全てが取り込まれた完全な文章が完成したとしても、日常でこれを毎回やるのにはコミュニケーションを嫌いになってしまうくらいの面倒さがある。

だから人間は言葉以外の感情で自信を表現することを補う。

マナーも議論も、時には喧嘩や感情の摩擦だって、お互いの関係性を尊重して一緒に作っていくために存在している手段に過ぎない。

『人それぞれ』に解釈は異なる。だからこそ、その言葉は誰かを救うための最終兵器として取っておくべきだ。

ウルトラマンが開幕でスペシウム光線を打って敵を倒せなかったら、視聴者や、その世界の人類は一気に絶望の淵に立たされてしまう。

パンチやキックや、特別な能力など何も持たないただの巨人が必死に戦ってこそ、与えられた3分間の最後に放つビームは最終兵器なのだ。

冷静に始まったはずの議論がいつしか熱くなり、これ以上続けても誰かを傷つけるだけの場になってしまうとしたら、力を持つ人には最終兵器を使う義務がある。

議論の最後に放つ『人それぞれ』は、交わした議論を無に帰す泥棒稼業ではなく、誰も望まない摩擦を一撃で打ち砕く『必殺技』として華麗に放とう。






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