感覚・遊び・世代は無し 〜ペリメのラジオと吉田さんの絵画〜

最近よく考えていることが二つある。「感覚」と「遊び」。仕事をしていく上で、自分が書いているものをさらに大きくしていこうとすると、編集者やディレクター、プロデューサーなどとの出会いが要るわけだけれど、早く書ける、たくさんアイデアが出せる、は前提とした上で「世界観を共有できる」ことが重要なのだろうと思う。今年の秋に佳作を戴いた賞でも、電話で話しただけだったが、イメージを共有してくださったのだな、と強く感じた。受賞は運、と語る人もいるけれど、最終作まで抜けた場合、選ぶ側といかに心を結べた作品かが鍵になると思う。独りよがりではまず落ちる。多くのクリエイターと共有できれば世界は広がる。卵か鶏か、いまだに悩むけれど、「感覚」を共有できる人と、まだまだ出会えると信じて書いている。

で、もうひとつの「遊び」。今年大ブレイクしたKingGnu(はまって大ファン)。のアートワークを担当しているperimetron。のメンバーも出演しているラジオ『perimetron hub』を聴いていたら「(20代前半の頃)どう遊ぼうか考えていた」と佐々木集さんが話していた。例えばお金はなかったけど、投げ銭テキーラしたら面白いか、とか。今このときをいかに楽しめたらいいかをずっと考えてきたということだろう。思考も要る、粘り強さも要る「遊び」を創造というのかもしれない。

画像1

そんなことを思いながら、ギャラリーラウラで開催中の画家/吉田友幸さんの個展に友人の車で連れてってもらい、在廊されてた吉田さんから「どうやって遊ぼうかずっと考えている」とお話を聞き、またまた「遊び」がキーワードに出て頭の中で太線になった。吉田さんは自転車に乗るか、料理するか、の二択が多いそうだが、どうしようか考えているうちに日が暮れることもあって、半端に手を出さない「遊び」感に共感しまくった。

「遊びをせんとや生まれけむ」。浮かんできたのは『梁塵秘抄』。

キャッチコピーで引用文であまりに有名だが、子どもの笑い声に心震え、童心に返ったと表現されるこの今様も、当時からすれば現代歌謡。その時代を生きる表現者はいつの世も、心を遊ばせている。

で、私自身と遊びを考えて、遊びのベクトルが違うことに気づいた。ジェンダー的な偏りになってしまわないか、と少し警戒もしながら書くが、少女時代から二十代までを振り返ると、家の用事を放っておいて街で遊ぶとか、街をぶらぶらして時間を潰すとか、やんちゃな男子的な遊び方はしてこなかった。「女の子なんだから」と強く意識させられる環境であったし、その環境に呼応するように真面目な私は、家の手伝いを放棄することはなかった。料理、洗濯、買い物、トイレのつまり掃除まで、娘の私の近くには家事の手伝いがあった。となると、「遊び」は日々の暮らしから発見されることになる。とりこんだ洗濯物にくっついていたカマキリに驚き、だし巻き卵の切り口をいかに美しく盛り付けるかに喜び、「遊び」は日常から掘り出すことになる。どうやって遊ぼうかを起点とする男性とはベクトルの向きがちがう。

が、これも私世代と現代の若い女性たちでは大きく違っていて、通じるのは同世代以上という但し書きがつくかもしれない。家族内での役割や、家事との距離も変化したから。

では「世代」の吟味も必要か、とまで考えて、いや、共有できる「感覚」があれば表現では問題なし、と考えはまた一巡し出す。楽しいと感じることがシェアできれば進む。意外に、楽しいは、美しいよりも厄介だけど。特に人間には。

粘り強く、しつこく考えよう。これも「遊び」なのだから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?