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ブックカバーチャレンジ 【HARD MODE】

流行ってますよね、ブックカバーチャレンジ。特徴としては「7日間毎日1冊ずつUPすること」。でも、思ったんですよ。いっぺんに教えてくれよと。1冊だけ紹介されて、ほんのちょっとの言葉で説明されても、そこまで興味わかへんなーと。しかも毎日タイムラインに出てきてなんかうざい。なんでだろう。たぶんこの1冊絶対オススメしたい!じゃなくて、なんか回ってきたからやるかーくらいの動機だからじゃないかと。そう思いました。ただここまで言っておいて、そのリレーは自分には回ってきてないんですが。 

注)回しても答えてくれなさそう、みたいなイメージもあるかもしれないし、なにより友達がいないだけという可能性もおおいにある。いや、友達は数じゃない。ともだち100人できるかな、じゃねえよ。数人の気が合うやつがいればいい。もし学校でそんな奴と出会えたなら、それは人生の宝だから、父ちゃんはお前がそんな学校に通ってくれることを望むよ。公立、私立、どっちでもいいよ。(子どもどころか伴侶もいない)

で、思い立ちまして。ブックカバーチャレンジのハードモードを。

まあ、まずは数が少ないなと。7冊かと。いったん7倍しましょう。49冊ですかね。まあ切りがいいように50冊かな。そこまでやればブックレビューなんて二度と書きたくないだろうし、二度と読みたくないだろうから、この人生からブックカバーチャレンジを完全に排除することができるんです。(排除も何も回ってきてさえいない

絶対後悔するってわかっていても、男にはやらねばならぬ時がある。ジェンダーの多様性を完全無視した男の概念は「阿呆」と「愚直」のハイブリッドであり、そのシナジー効果によって「無意味」が「意味」を生み出すのだ。え、今から50冊やるの・・・という登山前の気持ちだが、一度やると決めたのだからやるしかない。ちなみにレビューの文字数は最低400字である。最後の方になって「おもしろかった」「むずかしかった」「泣けた」「エモい」「わかりみ」みたいな、語彙力を道頓堀の濁った川底に捨て去ったようなレビューになってしまっては、この挑戦の無意味の意味性がなくなってしまい、本当の無と化してしまう。そして私も消えよう永遠に。

ひとつだけズルというか、アレなんですが、マンガや画集なども入れます。ページに綴じられているものを本とする。そういうルールで。


1.夫婦茶碗

「ちゃわおっしゃー」といえば夫婦茶碗である。(茶碗ウォッシャーの意)文学でInterestingな面白さを味わうことはあっても爆笑することはそれまでなかった。しかし、夫婦茶碗を読んで笑った。声に出して笑った。真面目すぎる人ほど破綻する系の主人公がいつも人生に苦悩しながら右往左往して、それをはたから見たら喜劇。っていうパターンが多い町田康作品。本作も真面目が故に破滅的な主役たちが大活躍する。とにかく働かない夫が嫁のためにいかに働きたいかということを言いながらも、冷蔵庫に入れる玉子の順番などささいなことに悩み、結果、妄想だけが積み重なっていく。一向に行動に移さない。一念発起して編み出した商売が忙しい主婦の代わりに茶碗を洗浄するという「茶碗ウォッシャー」というわけなのだ。切ない。悲しい。そして笑える。この本ではないが「きれぎれ」という作品では、見合い相手から嫌われるためにうな重を手を使わずに口ですするという奇行にでるのだが、それを「肝吸い」と呼んでいて笑った。町田康はパンク歌手でもあり、言葉のドライブ感というか音感がとてもよくて、読んでて楽しい。主題や書きたいことがあるというよりも、言葉が言葉を運んでくるような感触がある。そういう物語を読んでいると、本当の意味で、次どうなるんだろう?というワクワクがあってとてもいい。終わり方はいつも切ない。そろそろ終わるしかないかな・・・というところまで破綻して終わるから。


2.ボッコちゃん

星新一のショートショートの特徴といえば、現代的で洗練された文体だ。書かれたのが40年以上前だということが信じられない。「2001年宇宙の旅」のインテリアデザインや宇宙船の描写が今でも現代的に感じられるのと似ている。それは意識的に「時代性」を排しているからである、と何かのインタビューで読んだ。名前をN氏などとするのも、文章に土着的なものや有機的な要素を極力入れないようにするための工夫だとか。作品はどれも短く、アイロニーに満ちたSFになっている。発明品や、宇宙探索、殺し屋といった非日常の中で、人間が理性的に考えているようで、利己的な判断を繰り返していき、その結果ロクなことにならない。まるで神の視点で「愚かな人間どもよ・・」と言われているかのような冷たい視点。だけどユーモアに満ちている。社会風刺や体制批判的なまなざしがあるのは、著者が製薬会社を経営していた過去があり、厚労省との争いに起因する怒り、もしくは、そこからくる諦念からであろう。現代に類似作を探すとしたら「世にも奇妙な物語」「ブラックミラー」あたりだろうか。ブラックミラーの方が近いかもしれない。近年、ゲームにおいても映像においても、小説の想像力に表現が追いついてしまっていて、視覚化・音像化されたイメージで感じることができる。「バックトゥザ・フューチャー」「ジュラシックパーク」「マトリックス」「インターステラー」・・。映像表現の進化は、星新一のような作家が生み出した想像力を、じりじりと追いかけていく形で行われたに違いない。


3.神の子どもたちはみな踊る

この短編集の中に「かえるくん」という物語がある。かえるくんは東京の地下でもぐらくんと戦って首都直下型地震から人間を救うというミッションを与えられている。しかし、もぐらくんとの戦いに勝てるかどうかは分からない。だから応援して欲しい。と、主人公は告げられる。それをまるで神託のように確信をもって信じる。とんでもなく突飛な話を「こういうことってあるよな」と信じさせてしまう何かが、村上春樹の文体にはあって、それは宗教的とも言えるし、神話的とも言える。それが何かの比喩のようにも思えるし、そのままの物語のようにも思える。何か普遍的な「かたまり」に触れているような、世界の秘密にアクセスしているような、(それを宇宙の物理法則と呼んだり、神と呼んだりする)気持ちになる。形式がそうさせているのかもしれないし、主題がそうさせているのかもしれない。とにかく、「かえるくん」の話は好きで、「語られるべきなのに誰も知らない物語」の集積によって、今の生活が守られていたり、脅かされたりしている。そういうことってあるよな、と思う。コロナに脅かされている今は特に。そして、そういうことってあるよな、を失わないことが、他者への想像力を失わないことと繋がっているので、と思うし、そんなことより、もっと普段から人と接する時に親切にしたほうがいいよな、とも思う。そうそううまくはいかない。


4.空中庭園

角田光代の描く登場人物たちは、自分自身の問題に気づいていない。少なくても意識下で言語化できていない。だから行動という形でそのストレスが放出される。その様子を心情を丁寧に描きながらも、最後は、行動として描かれる。その様子は突然のご乱心のようにも見えるし、そこに至る過程を共有した読者は、ああ、なんかわかる、というところまで共感させられてしまう。街中でたまに見る、急に怒り出す人や、必死に走っている人、仕事現場でたまに見る、ちょっと泣き出しちゃった人や、なぜか笑い出してしまった人。社会的な仮面を一時的に脱ぎ捨てて自分が出てしまった人達を「へんなやつ」で済ませず、そうなるに至った環境と関係と心情変化を、一緒に味わうことができる。逆にいうと、そこまで描いても分からない気持ちや行動というのがあって、人と人がわかり合うことへの希望と絶望を感じる。それでも、前よりも、視界が晴れた状態で、登場人物達は残りの人生を歩んでいく。一種の「儀式」を乗り越えて、また平穏な生活に戻っていく。その一瞬のゆらぎを小説にパッキングしているのだろう。特に郊外に住む主婦や高校生の「退屈な平和への絶望」みたいな倦怠感がリアルでおもしろい。アウトレットモールがすべての遊び場であり社交場であるという描写なんか、(そんな生活は送ったことがないのに)まるで自分が見てきたかのように共感できる。


5.パークライフ

東京の公園で休むセールスマンと、スタバのコーヒーを飲む女。「スタバのコーヒーがおいしいと思うようになってしまった」と自分の年齢や都会への順応を紹介する彼女に惹かれる男。大学2年くらいの時に読んで、なんかいいなと思ったのを覚えている。そして、それを思ったのは実は自分ではなくてYという友人であった。Yとは鳥人間のサークルで出会い「青春18きっぷ」でふたり北海道の夏フェスへ向かうような仲だった。Yは本をあまり読んでこなかったから、芥川賞を受賞した小説を順に読んでいるんだといった。「その方が効率的だし、間違いないだろ?」Yにはそういう実利的なところがあった。自分は理学部で原理にうるさく、Yは工学部で実利にうるさかった。原チャで海に行ったこともあった。鳥人間を引退してから、バンドをやったりもした。まるで大学生と青春という脚本をそのままなぞるように動いていたが、なぜかそれを唯一無二のものとして感じていた。そういうものだろう。小説の中で描かれていたのは、働くという行動様式によって東京という街と一体化し、都市の一部になってしまう快感と不安。その中で自分たちだけの特別な関係と見つけ、都市とは無関係の物語を立ち上げようとする2人。東京で働くことについてリアルに意識したのは、この小説が初めてだったかもしれない。それは圧倒的に「大人」であり、大学生活は守られた「子ども」の世界だった。バイトは「仕事ごっこ」だったし、授業や飲み会は「大学生ごっこ」のようだった。そして今は「社会人ごっこ」をしているような気がしている。リモートワークでその化けの皮もはがれようとしているが。


6.ソフィーの世界

哲学というものに初めて触れた本。高校の授業に倫理という科目があったが、その倫理の授業を受ける前に読んでいたので、より倫理が面白かった。倫理の先生は京大卒のインテリで、最初の授業でこういった「俺はお前達の名前を覚えない。だから、おまえ、と呼ぶ。」「この世は静か動か、はい全員答えろ。」「物質が先か精神が先か、全員答えろ。」「お前は今、アリストテレスと同じことを言ったぞ。」「目に見えるものがすべてじゃないかどうか確かめるために、大学の庭にニワトリを埋めたことがある。」などなどどこか変わった先生だったが、嫌いじゃなかった。クラスでいちばん成績のいいKくんが、この授業だけはB判定で怒り狂っていたのが面白かった。特に印象に残っているのは「今目に見えているものが、俺とおまえでいっしょかどうか。」の問いで、これは俺が赤色だと思っているものが、お前の青色かもしれない、ということと同義であり、そこについては証明しようがない、という結論に達した。転じて、人と人は同じものは見えない。だから、人に何かを伝えるということは奇跡的なことである。同じものを見て感動を共有できるってことは幻想なのかもしれないが、その幻想なしに人は社会を築けない、という気付きがあった。ソフィーの世界は、こんなエキセントリックな授業ではなく、もうちょっと優しく哲学の歴史を紐解いてくれるので、すごく読みやすかった。


7.アルジャーノンに花束を

知能がどんどんよくなっていく薬を与えられた主人公と、同時にその薬を与えられたネズミ。文体までもがどんどん知的になっていく、というメタ的な構造に興奮した。何かをつくる時に、その形式自体をデザインする楽しさを初めて知った。こういうのを「メディアデザイン」と呼んだりするのだが、広告の仕事ではこういう発想が役に立つ。ネズミの方が常に主人公より先にどんどん知能がよくなり、悲劇的なことに、先に知能が衰えて死に向かっていく。それはこの薬を摂取した人間の行先を示しており、避けられない悲劇を前に、人としてどう生きるかを迫られていく。人間はいつも「正常性バイアス」というものに縛られていて、どんな災害が起きても自分だけは大丈夫と思いがちだ。知能が飛躍的によくなり、そのあと、落ちていくというのは、人生における成長と老いの比喩として考えることもできる。それはどう老いるか、どう死ぬか、つまり、どう生きるか、という問いでもある。子どもの頃には自分が大人になるなんて信じられなかった。でも人はいつか老いて、死んでしまう。そしてそれはもう始まっている。この当たり前のことを時間を凝縮することで知覚させてくれるのが本作である。なぜこれを読むことになったのかはまったく覚えていないが、中学生の頃、地元の図書館にハマっていた時期に読んだ気がする。図書館ではなぜか「翻訳本」のコーナーがお気に入りで、海外作品ばかり読んでいた。無意識に外に出たいという気持ちがあったのかもしれない。


8.ニャロメのおもしろ宇宙論

高校3年になり、そろそろ進路を決めなくてはいけない、となった。そんな時、やたら得意だった物理と、この本を結び付けて、物理学科に進むことにした。当時インターネットは職員室にしかなく、進路を調べる方法は限られていた。もっというと適当に決めた。そういうところがある。いざという時に割と適当にきめがち。しかし直感的にはこっちだという気がした。そんで受験勉強して、京都を離れ、仙台へ。この本の中には電子だとか陽子だとか素粒子だとかブラックホールだとか相対性理論だとかが、バカボンの世界観で描かれていて、わかるようでわからないものだった。そして、こんなこというとバカだなあ、と思われそうだが、それまでわからないものなんて人生になかった。学校の教科書はわかる。ゲームの説明書もわかる。与えられた小さな世界の中では、すべてがわかるものだった。しかし、この本は初めて「わからない」ものだったし、それが楽しかった。大学にいけばこれがわかるようになるのか、とも思った。そして、こんな言葉にも惹かれていた。「相対性理論が理解できないものが、宗教を信じるのだろう」今思えばそれも浅い理解なのだが、すべてをわかりたいという、純粋な知的好奇心で進学を決め、そして入学し、遊びに遊んだ。人力飛行機をつくり、バンドを結成し、ビデオカメラでドキュメンタリーをつくった。独自にプログラムを組んで実験をリモートで走らせ、その間にHMVにピロウズのインストアライブを見に行った。東北中を友達の車で走り回り、深夜のホテルフロントバイトで映画を見まくった。まったく物理には興味がなかったのである。


9.2010s

ここに書かなくてもいいくらい、詳細な記事を書いたことがある。

この時、なぜか「図解」にハマっていて、イラレを用いてなるべくキレイに四角と線で形を組んでいく作業に没頭していた。目的と手段が入れ替わり、この図解していく、という手段に興奮を覚えていた。それも、この本が2010年代の世界のカルチャーと、それに対する日本の分断を明らかにすることで、今何が起きているのかを示し、正しい理解と好奇心を喚起するもの、という複雑怪奇なものであって、一読しただけでは理解できなかったから、である。しかも対談形式の上、索引はナシ(ネットで調べろという方針)なので、いちいちググりながら、音楽なら聴きながら、すべて整理しないと、楽しめないのである。だから図解を始めた。徹夜で。死ぬかと思ったが、著者からのコメントをいただいたりして、現代SNS社会の恩恵を受けながら、自分をモチベートし、なんとかやり切った。そして燃え尽きた。もう図解への興味は薄れつつある。本作を読んで派生する様々なコンテンツを数珠つなぎ的に追うことで、フィルターバブルの外にあるコンテンツとの出会いが復活した。批評や評論なんて、と思っていたけど、質の高い批評はそのジャンルを前に進める力がある、と思うに至った。そして、時代と呼応しあい、過去のリファレンスの上に成り立つ創作物こそが、最も誠実な物づくりの姿勢である、という主張には、認めるべきところがある。


10.へうげもの

歴史がおもしろいなと初めて思ったのはいつだっただろうか。司馬遼太郎を読んだ時だったか、西遊記を読んだ時だったか、それともるろうに剣心を読んだ時だったか。数ある歴史モノの中でも「数寄」にフォーカスを当て、いかに風流に人生を楽しむかに命をかけた男の話。信長、秀吉、利久、家康などなど、時代を生きた偉人とのギリギリのやりとりが痺れる。いかに乙なものがつくれるか、という視点で歴史を振り返った時に、ここまで色鮮やかに描けるのか、という驚きがある。基本ふざけている話なのに、何度見ても泣きそうになるシーンがいくつかある。おもてなしの真髄を極めるために、死刑の直前に暴れ回る利久。斬られて死ぬ直前に、それこそ愛だと言う信長。秀吉の死を飾るために、演技に奔走する武将たち。真面目すぎて引くくらいの痴態を見せる石田三成などなど語り尽くせないドラマが詰まっていて、史実を気にせず見てもおもしろい。戦国武将の「数寄合戦」は現代ならMETGALAだろうか。レディーガガばりの派手な格好で権勢をアピールする人たちの自己顕示欲と武力の争いが笑える。人間は形を変えて何かを競い合い、そのゲームに乗らないことでおしゃれさを出す人間もいて、そのこと自体がなんらかのゲームに参加しているようでもある。完全に世を捨てた丿貫(へちかん)先生のようにはなかなか過ごせないものである。


11.レベルE

幽遊白書の人気といえばすさまじく、当時ジャンプの3大人気マンガに数えられていた。(あと2つはドラゴンボールとスラムダンク)そんな連載の途中だったか、終わってからだったか。レベルEは少しずつ掲載されていたマルチユニバース式でのSF短編集。(マルチユニバース:登場人物はバラバラだが同じ宇宙におり、たまに登場人物がクロスオーバーしながら物語が進む。近年のマーベル映画がこれ)中身といえば、不良野球高校生の地球人の家に居候する性格が宇宙一悪い王子がトラブルを持ち込みまくり、その性格の悪さから、異星人との抗争、小学生の誘拐、甲子園の前に心の中に閉じ込める、人魚の奪還、ゲームの世界への転送、人食い宇宙人の調査、宇宙ゲリラとの結婚などなど、悪趣味なテーマが楽しめるというもの。性格の悪さを人間味とみなす作者らしさが存分に味わえ、小気味よく話が展開する。非現実の中で、青春のリアリティみたいなものを感じることができる。80年代のマンガにあったヤンキー同士の友情みたいな、ぶっきらぼうな優しさ、みたいなやつだ。最近は流行らないかもしれないが。HUNTER×HUNTERで見られるような緻密なキャラクターと物語設計の片鱗がかいま見えるが、まだそこまで難しい人間関係は出てこない。そのシンプルさが心地いい。


12.茄子

黒田硫黄作品は夏がいい。気怠さとか、急に思い立って動き出す感じと絵が合っている。才能と手癖で描いているかのような感じがするのに、綿密に計算された画角とセリフが楽しい。これは茄子にまつわる短編集だが、茄子そのものにそこまでの意味はなく、その周りで巻き起こるドラマの話である。一人で茄子を育てているおじさんのところに、銃を持って逃亡してくる若者カップルとか、眠れない女性だとか、事態は深刻なのに、なぜかカラッと明るい。そんな物語には夏が似合う。こういう世紀末的な雰囲気が好きだ。今の世の中や、90年代末のような明るい絶望感がここにある。この中でも「アンダルシアの夏」という自転車レーサーの話はアニメ映画化されたので知っている人もいるかもしれない。大泉洋が声の主演だ。とにかくこの人の作品に出てくる登場人物はみんな人生哲学が魅力的すぎて、異世界のように思える。


13.寄生獣

もしかしたら人間こそが、この地球にはびこるウイルスなのかもしれない。そう考えたことはないだろうか。寄生獣は宇宙より飛来し、ある少年の右手に寄生した。その結果、共生関係が生まれ、知能や感覚を共有することになった。敵は排除し、雌と交尾する。あたりまえのことに何を躊躇することがある?と、問いかける第3者の視点。このマンガが教えてくれるのは宇宙からの客観性であった。なぜ人を殺してはいけないのか、なぜ人間を守るために戦うのか。まるでデビルマンのような展開だが、寄生獣はそこまでの絶望感には包まれない。希望が残る。だから安心して読んでられる。ヒストリエでも感じられる、人に対する観察者のような冷たい視点は作者独特のトーンであり、まるでこの物語を描いている人まで宇宙人なのでは、という感覚になる。「シンイチ…『悪魔』というのを本で調べたが…いちばんそれに近い生物はやはり人間だと思うぞ…」というミギー(右手に寄生した寄生獣)の言葉が頭にこびりつく。


14.とんかつDJアゲ太郎

「とんかつとDJって同じなのでは?」という突拍子もない組み合わせから生まれたゴキゲンなDJの物語。この発明が、渋谷とカルチャーを中心とした音楽マンガを、もう一段メジャーな存在へと引き揚げた。「アイデアとは既存の概念の組み合わせである」とはよく言われたことであるが、その成功例。初めてのクラブや仲間の存在。そしてとんかつ屋としての成長。これはBECKとも共通する「音楽青春もの」とも言える。BIGに成り上がっていく過程に立ち現れる喜びや困難や出会いは、この人生に待っているかもしれない楽しみの擬似体験として、ワクワクさせてくれる。DJそのものを知らなくても、少しずつ学びながら読み進められる(というか気にせず読める)ので、このノリが好きだと思ったら一気に読めると思う。音楽の種類や、楽しみ方の種類(Chill out)なども分かり、読み応えがある。そしてお気づきだろうか、徐々に文字数が少なくなっていることを。いや、でもまだ1作品につき400字以上は守れている。しかし、しんどくなってきた。なんでこんなことを始めてしまったんだろう。別に誰に言われたわけでもないし、やめてしまえばいいじゃないか。いや、誰に言われたわけではないからこそ、そのルールを守れるのは自分だけしかいないのだ。自分だけが守れるルールを自分で決めることだけが自由の意味だろ?と思って、まだなんとか続けることにする。なあに、あとたった、36作品である。36・・・?


15.ドラゴンボール

幼年期。ドラゴンボール、ドラゴンクエスト、といったドラゴン文化によって俺の生活は占められていた。それらはすべて鳥山明によるものだ。風呂上りにかめはめ波を練習した過去をもつ世代。毎週水曜日の19時は「8チャン」をつけて待つ。当時たまにあったのが「野球が延長になり中止」というやつで、俺は憎んだ。野球を。阪神を。親父が愛する阪神を。巨人もだ。野球なんかのためになぜドラゴンボールがなくなるというのだ。漫画太郎が描いた「ドラゴンボール物語」という名作がある。給食が食べられなくて居残りする小学生がドラゴンボール見たさに給食を完食。ダッシュで帰る背中にむかって笑顔で語りかける先生「今日は野球で中止だよ〜」まさに鬼畜の所業である。ドラゴンボールの絵を描くのが好きで、よく「じゆうちょう」に描いていた。小学校の時は絵がうまいキャラだった。じゆうちょうをとにかくドラゴンボールで埋めていったことを思い出す。当時漢字ドリルというものがあって、それを綴じるファイルをつくり、表紙を飾りましょう。という授業があった。小学5年生の自分は「ドラクエの全ボスキャラ」を漢字ドリルのファイルに描いていった。それはある時からファイルではなく「作品」に変わり、みんなが適当に名前だけ書いていたのとは対照的に、めちゃくちゃ丁寧にそのファイルを仕上げていった。そして満足のいく出来になった。いわゆる形から入るというやつだ。(だいぶちがう)その結果何が起こったか。「こんなにいい外側をつくったんだから、内側も完璧にしよう」こう思った。その学期の漢字テストは、100点を連発した。教師は首を傾げていた。なぜこの子は急に成績をあげたのか。教え方がよかったのか。違う。ドラクエの絵の出来栄えがよかったのだ。このことは人生にとっての大きな成功体験として心に残っている。「ガワがキレイだとやる気がでる」めちゃシンプルだ。しかもコントロールしやすい。だから関係ないところをキレイに整え出したら、やる気を出そうとしているのだな、と考えて欲しい。仕事の前のルーチンとも言える。デスクがやたら綺麗になってたら、やる気が出る。そういう感じである。


16.ああ無情

それは小学4年のクリスマスであった。純粋ボーイだった自分はサンタクロースの存在を全面的に信じており、(とはいえ心のどこかでは親だということも気づいており)楽しみにプレゼントを待っていた。そして25日の朝に枕元にあったのがこれである。まさに、ああ無情。ってそんなんいらんねん。猛烈に抗議した。親はサンタへのメッセンジャーである、という捉え方をしていたので、「サンタはほんまわかってへん」「ほしいもんくれへんならサンタなんかいらん」「なんで本やねん」と愚痴&要請を訴えた。すると、なんということでしょう。翌年のクリスマス。枕元にはダンベルが置いてありました。違う。サンタ。そういうことじゃない。頭ダメなら、体?とかそういうことじゃない。1年越しでボケてくるな。ああ無情の中身は、たしか銀の食器かなんかを盗んだ人が、後になってその罪から逃げられずにいろいろとしくじるみたいな、確かそういう話だった気がする。よくよく考えると、ドラマSUITSにもその要素が入ってる。と今気づいた。


17.荒木飛呂彦の漫画術

JOJOのあのハラハラ感や突飛なアイデア。人生哲学。魅力的なセリフ。癖のある性格。そして誇り高い悪役たち。その創作の秘密がそこに詰まっている本。いちばんおもしろいな、と思ったのは「身上書」というアイデアだ。つまり、キャラクターひとりひとりについて、生まれや家族構成、好きな作家や趣味など、まるで探偵が調べたかのように、綿密に決めていく。そうすることでキャラクターが生き生きと動き出す、という仕組みである。物語全体の構成や、ディティールなど、学ぶべきところはたくさんあるが、 JOJOシリーズ特有の名言の数々については、このやり方がリアリティを与えているのだな、と納得した。物語や世界観がファンタジーに近づくほど、人物の心理描写や言葉については、ある種のリアリティが必要となる。作者を感じさせず、キャラが「この場合はこう動くだろう」という筋のようなものを通す必要がある。そこには違和感を覚えてはいけないのだ。この「ファンタジーこそリアルが大切」という感覚は、時にファンタジーなCMや広告をつくる時に肝に銘じたい部分である。そんなにうまくはできないけど。


18.プチ哲学

「むずかしいことを、わかりやすくつたえる」ただこれだけのことがどれだけ難しいか。コロナの補償にせよ、選挙にせよ、学術的論文にせよ、この世界には「分かる人にだけ分かればいい」ものがたくさんある。そしてその分断を特に気にしない分野もあるが、この日本という国は、割とみんなにわからせようというムードが強い。TVCMやTV番組は「義務教育を終えた者」なら誰でも理解できる前提にレベルを合わせてつくられる。しかし、本当に誠実な態度としては「むずかしくてもおもしろいこと」をあきらめずになんとか伝えようとすることだろうと思う。その技術において、佐藤雅彦さんより鮮やかな「説明表現」をする人を見たことがない。佐藤さんは広告プランナーとして電通に入社したが、昔から教育に興味があったこともあり、今は芸術大学の教授として様々な研究・プロジェクトを進めている。そのテーマは一貫していて、「どう伝えるか」ということを研究している。何を伝えるかではなく、その手法にこそ、面白みを感じているのだ。この態度は広告と相性がいい。伝えるべきことでモメないので、変な作家性も出てこない(はず)だから。しかしいつしか目的と手段が入れ替わった、というか、手段に興味がうつり、広告ではなくなっていった。好奇心に対する誠実な態度が好きで、もちろんその表現物も好きで、今もずっとその活動を追い続けている。「バザールでござーる」に影響を受けすぎて、実際の仕事でも、すぐにキャラクターを提案してしまう。


19.水に似た感情

中島らもがアル中になり、そこから戻ってくるまでの話を下敷きに、いい感じにフィクショナルな要素が混じっていて、楽しく読める。自分にとっての「かっこいい人」のイメージはいつも中島らもが描く登場人物なのだが、みんなダメな人間であり、愛があって、失敗をし、その落とし前をしっかりつける。人生から逃げない。適当にこなしていく姿勢がない。そこがかっこいい。作家の主人公がミュージシャンの友人とともにバリに行き、TV番組に出演する。そのくだりの中で「この中に働いていない奴がいる」と見抜き、プロデューサーや監督を叱り、育てていくところなんかたまらない。しかも、それを買って出た自分に自己嫌悪までしている。かっこいい。ただのジャンキーでもあり、経験豊かな大人でもあり、少年のような純粋さを持つ弱い人でもある。その色彩豊かな面が物語の中でくるくると入れ替わっていき、人間らしさを感じることができる。バリの老師に人間とは何ですか、と聞いた時の答え「人間とは島である」というのが、ずっと忘れられない。一見海で隔てられているが、地面はつながっている。その巨大な思念としての集団的無意識によってつながっている球体のような存在が人間たちなのだ、ということが、なんとなく直感的にわかった気がした。ユングが提唱している「集団的無意識」はまだ未解明なものが多いが、なぜかわかる気がしている。


20.アースダイバー

縄文時代の地図と、現代の東京を重ね合わせると、驚くほど見えてくることがある。例えばTV局はほとんど縄文時代の水際に建てられている。水際とは、あの世へ続く境界であると考えられており「サッ」という音があたる「ミサキ」などもそうだ。伝えたい思念を電波という増幅装置に乗せて届けるTVと相性がいい。一見トンデモな理論だが、やたら整合性があって面白い。この調子で、土地の記憶と現代の関係を解き明かしていく。標高が低いところ、つまり谷には水が流れる。水が流れる場所では風俗業や水商売が栄える。それが今の渋谷や新宿だと言われる。納得感がある。また東京に残る寺や神社をつないでいくと、当時の海岸線が見えてきたりする。やはりあの世との境界に宗教的建築物を建てたのだ。この本を大学時代、仙台にいながらにして読み、東京にきてから住む場所を探していた。最初に就職した会社が銀座だったので、上野あたりに目星をつけていた。東北の人間にとって、上野は東京の玄関口であり、まさか西の方が若者が住みやすいとか知らなかったのだ。不動産屋さんの担当女性はお祭り好きで、だったら浅草よ!と熱烈に進められ、それから8年もの間、浅草に住むことになった。始発駅なので必ず座れたのはよかったが、あまり浅草ならではの地域的つながりなどに接続することもなく、ただ寝る場所として機能していた。入社してからの数年は深夜まで働いたりもしていたので、そもそもあまり家の周りを楽しんでいなかった。その後、東北沢、恵比寿、と引っ越していくことになる。


21.街場の文体論

文体というものについての講義をまとめた本。おもしろく書くということについて日本人はいっさい教育をうけてこず「こんなもんだろう」と読み手をナメた作文しかしてきてない人がほとんどだから、こんなにもわかりにくい文体が世の中に蔓延っていて、そのことにさえ人は気づいていない。という気づきから始まる。文体には、母国語と好き嫌いの間に、そのコミュニティによって規程される文体(エクリチュール)というものがあり、それが階層を分断する。ヨーロッパではそれは縦の関係として身分を関係し、日本では主に横の関係として機能する。ヤクザやヤンキー特有の話し方。ビジネスマンの話し方。学術系の話し方。公務員の話し方があり、それを使うことで集団の一部となり、個性が消失する。大切なのは、そのことに、中にいる人は気づかない、という事実だ。たくさんの不自由さとルールの中で生きていることに自覚的か、すべて自分で選んだものだと思い込んでいるかで、何かをつくる時にデザインできるものの範囲・領域が変わってくる。デザインという言葉は何も形を考えることだけではなく、ありようを1からつくる、みたいな意味だ。文章を書く仕事をしている人以外にも発見が多い本だと思う。


22.阿修羅ガール

文体の自由さ、という意味で、町田康作品からは、何を書くかの自由を学んだが、舞城王太郎からは、どう書くかの自由を知った。言葉をページいっぱいに大きくしたり、『』を多用したり、時に中二病的に、時にシリアスに、言葉をマシンガンのごとく連ねていくスピードと精度によって、文章の可能性を感じさせてくれた。そしてそれは「形態の新しさ」に飽きてしまってからはあまり読まなくなってしまった。昔黒夢のパンクアルバムをよく聴いていたが、そんな感じがする。一時のはしかのようなハマり方。なぜかちょっと気恥ずかしくなる感じ。「煙か土か食い物」で衝撃を受け、阿修羅ガールでその文体の完成を見たような気がした。それ以降は読んでいないが、きっとその表現形態の刺激が強すぎて、中身に集中できないからなのかも、と思う。メディアデザインをがんばりすぎるあまり、コンテンツがおろそかになっている、というわけではないが、メディア側に意識が持っていかれる。外側のメタ・メッセージばかりに目がいってしまう。現代アートでいうバンクシーの作品のようだ。枠や場所や文脈ばかりに目がいって、そのステンシル自体の完成度など誰も話題にしない。


23.太陽の塔

京都で生まれ、高校卒業までそこで育った。森見さんは京都大学を舞台とした実にしょーもない男たちの物語を書くのが得意であり、その最高峰とも言える内容である。しょーもないのに知能だけは高いので、しょーもなさを哲学的に内省して極めてしまう。そこにおもしろみが発酵されていく、という形態になっており、海外ドラマでいう「シリコンバレー」とか「ビッグバンセオリー」のようなGEEKの社会不適合さを感じることができる。「ええじゃないか運動」の痛快さと切なさはずっと心に残っている。仙台ではなく京都に残った場合の学生生活を妄想してしまう。「鴨川のカップル等間隔の法則」など地元ネタも出てきて楽しい。女性にモテず、野郎どもの無為な集まりが永遠に続いていくかのような物語。それは巨大なモラトリアムなのかもしれないが、なぜか、そういうことが永遠に続くことが一番のユートピアなのかもしれないと、今もまだ思う。社会人になろうが、結局自分の興味の赴くままに無駄に人生を浪費して、くだらないことや意義のないことにつぎ込んでいくこと以外に楽しいことなんてあるんだろうか。社会的の意義のある仕事がしたいとか、次の世代のためによりよい社会にしたいとか、いまだにまったく思わない。


24.部屋へ!

水草水槽をつくっていく話。ノンフィクション。風景ではなく水景。それは「大自然を活ける」感覚らしい。生きている絵だとも感じるとか。自分の部屋を見回し、今ある棚を捨てて、そこに水槽を置きたい、と思うが、どこまでいっても仮住まいの感覚があるため、引越し大変そう、とか、飽きたらヤバイ、とか考えちゃって、手が出せないでいる。なんなら机と椅子を捨てて、でかいテーブルに変えたい、とか思ったりしていて、インテリアプランがまとまらないことには、何も新しいものが置けないのだ。模様替えをGW中にやろうかなーと一瞬思ったが、こたつを片付けてモンハンにハマって終わった。ひどい。昼夜の逆転は仕事の開始とともに元に戻ったが、部屋の改善はまだまだ。こういうのはきっかけが必要で、思い立たないとガラッと動かないクセがあるので、なんらかのきっかけをつくらないといけない。でも、なんとなく「今じゃない」感。こういう時は金を使って外注してしまって、自分を縛るのがよい。なんならそういう仕事である。広告代理店とかコンサルとかって、その専門性よりも、外部強制力に価値がある気がしている。RIZAP的な。「こまめにつついてやる気と具体的手法を提示し続ける」という敏腕マネージャー的な動きですね。水草水槽の話どこいった。


25.一十一菜でよいという提案

料理家・土井善晴先生の著書。目から鱗なのは「毎日の自炊に工夫しすぎるとしんどいから、これだけやればいい」というとても実践的な、サステナビリティーに満ち溢れた提案である、というところ。具体的には、「出汁とるのしんどいから、なんかいれとけばいい」「水を火にかけて具を入れたらそれは出汁」「味噌は発酵食品だから、免疫をあげて体を温める」「朝起きて、水を火にかけて、冷蔵庫にある具材と味噌ぶっこんでおけばそれだけで料理」というこれ以上に簡単な料理ってあるっけ?というくらいの簡単さ。だいたい10分あればできてしまう。自分はだいたい10分で飯を食う(早い)上に、そこまで美食に興味がないので、ほぼコンビニ飯になりがちだが、この本を読んでから味噌汁だけはちゃちゃっとつくるようになった。それを毎朝続けるとなんとなく気分がいい。実際に体調がいいかというと別にそんなことはないけど、多分よくなってるのではないかと思う。それより精神的に自炊してるなーってのがいい。一人前感があるというか。水に具と味噌いれてあっためるっていう超シンプルな手段とその哲学は、一度読むと影響を受けてしまうことうけあいである。ほんとびっくりする。


26.モテキ

今までモテなかった主人公男性がなぜか急にモテはじめる。しかし、今までモテてこなかったし、自分の自信もないしで、そのことにうまく対応できない。こじらせた自意識、ゲスい内面、うまく伝えられない気持ち。しかし、モテ期をきっかけに、人と向き合うということに目覚め、人として成長していく。あらすじにするとこういうことだが、この作品の魅力はこういうことだけではない。作者久保ミツロウ(女性)の中にある成仏させたいトラウマが漫画になり、それに感銘を受けた大根仁がJPOPやサブカルとの幸せな結婚によるドラマ化に成功し、それを映画化したい川村元気が、東宝の宝長澤まさみをキャスティングするという風に、すべてがうまく転がっていった。ちなみに、そのメイキング本「モテ記」によると、映画脚本はなんと漫画のネーム形式であったという。しかもそれが書き終わっていない中で脚本化し、それに対してネームで直すという、超ハイブリッド型のものづくり。そんな蜜月を経てドラマや映画が出来上がっているので、よくある原作のいいところが反映されていない映像作品、みたいになっていないのが素晴らしい。全員が納得しているなんてことはありえないが、少なくとも言いたいことを言い尽くしてつくられているような練りこまれた怨念のようなものを感じる。そういうのはディティールに現れる。主人公の部屋の作り込みとか。当時、モテキコンテンツのすべてが好きすぎて、上映会のち映画の舞台である下北沢の居酒屋で飲み会、みたいなイベントを主宰したりもしていた。なんだったんだろう、あの情熱は。


28.左ききのエレン

「SNSポリス」で有名になったかっぴーさんが本腰いれて描いている長編マンガ。絵がそこまで上手くない(と本人が言っている)ため、少年ジャンプ+での連載時には絵と原作を分けている。でもオススメしたいのは本人が絵も描いている原作版である。とにかく熱量がダイレクトに伝わってくる。広告業界にいるから共感できるディティールもあるが、ものづくりにおける天才VS凡人の絶望感や焦燥や希望が描かれていて、いちいちグッとくる。働き方がここ10年でガラッと変わってしまった業界でもあるので、死ぬまで徹夜していた過去と、効率的な働き方の模索の間で、自分自身と登場人物を重ねてしまう。映画文脈的なコマ割りや脚本センスなど、エンタメとしての完成度が高くて、いつも掌の上で踊らされる。名言が多すぎてひとつひとつ挙げられないが、死ぬまで働く柳というデザイナーが「ぼく人間ちゃうわ。デザイナーや」みたいなこという時に、やべえやつだなあと思いつつ、分かる・・みたいな気になるのが怖い。人にそれを強制した時にパワハラになるのは分かってるんだけど、何かをつくる時に、死ぬほど集中して脳と手と足を動かしまくること以外に、満足感を得られる方法なんてないんじゃないの?みたいな気になってしまう。だけど、ある日を境に、あまり人を詰めなくなった。人がみな、ベストを更新するために働いているアスリートではないし、仕事との距離感も人それぞれなので、そんな人でもやる気を出してもらうには、どういう遊びのルールをつくるべきか、みたいなことを考えるようになった。あとはそもそも人に期待しないようになった。営業として入社して苦しんだ日や、悪行に手を染める先輩に振り回された日や、クリエイティブ局に異動したのになかなか芽が出なくて焦った日や、吹っ切れた瞬間に自分らしい企画が通り始めた日や、転職してまったく違う環境で新しく仕事のフォームを作り替えていく日など、自分の仕事人生を写す鏡のような作品であり、今後も楽しみである。


29.ブッダ

仏教の成り立ちと言われる、ゴッダマ・シッダールタ(ブッダ)の生涯を描いたマンガ。不思議なのは、シッダールタはとある国の王子でもあり、なんの不自由もなく暮らしていたというところである。当時の流行として出家することがあったらしいが、富を全て捨て、その上で拷問のような修行に身を投じていくなんて、物好きにも程がある。しかし、修行途中で、「修行意味ないわ」と悟る。それもヤバイ。今まで死ぬほど努力して積み上げてきたものを手放すなんてできるんだろうか。・・想像してみたけどできなさそう。そして、これから先の人生は、悟った内容について説いて回るのみという。だいたい妨害する人が現れるが、いつかはブッダの教えに共感していく。このへん他の宗教と違うのは、妨害するものは滅ぼしても良い的な一神教としての先鋭がない。とにかく教えはこうだから、共感して納得するなら守りなさい的な。この仏教のおおらかさみたいなところは好きだなあと思える。組織が大きくなるにつれ、そこでお金を徴収して立派な寺院を立てて自分の身分をあげたい、みたいな優秀なNO.2が出てくるんだけど、それもまた煩悩だったりするので、揉める。そういう揉めなんかを目にすると、ああもうやめやめ、ひとりで生きていくわ!的な気持ちになるのだが、ブッダはきちんと対話して、しっかり説いていく。そういうところがすごい。マンガ的なおもしろさもちゃんと散りばめられていて、エンタメと教訓のバランスがすばらしい。誰にでも分かるようにする表現フォームとして、マンガは本当にいい。日本語は表意文字である漢字と、表音文字であるかなが混ざっているため、絵本のように脳が理解できて、だから識字率が世界一である、という説があるが、そのことと、マンガ大国であることにも、関係があるのではないかと思う。字と絵を並列で処理することに脳が慣れているというか。たまに文字を読みたくない時があって、そんな時はマンガに没頭する。YouTuberが解説しているものの方がいいという人もいるが、あれは時系列をコントロールできないことにイライラしてしまうので、マンガの方がよい。


30.サ道

サウナにはまるきっかけとなった本。基本的に快楽主義的なところがあるので、味わったことのない感覚への憧れのようなものがあって、サウナはすぐに試したくなった。合法だし。そしてハマった。この良さについてはたくさん人に伝えており、魅力について話すと「なんかやってみたくなった」と言ってもらえることが多い。ちなみに伝える内容はただ順を追って話すだけである。まずサウナに入る。最初は熱い。当然である。そこで無理をしてはいけない。無理をしてはサウナが嫌いになる。けっこう熱いなーくらいで外に出る。そして体を流して、水風呂に入る。水風呂だって最初は冷たい。分かっている。これはちょっと我慢が必要だ。あとで幸せが待っている。なんなら最初は足だけでもいい。我慢して肩まで浸かることができればこっちのものだ。2〜30秒たって体が冷えたら、少し休憩し、またサウナに入る。するとどうだろう。さっきはあんなに熱かったのに、今は、すこしあったかいな〜ぽかぽかするな〜という心地よさに包まれている。その後の水風呂も、あれ?そこまで冷たくないな〜むしろちょっとずつ気持ちよくなってきたと思う。この時、あまり動かずに静かに浸かると、肌の表面2ミリくらいにお湯の羽衣のようなものがあって、水との間で体温調整してくれているような感覚になる。心は静かになり、平穏が訪れる。そしてあと1セット、サウナ→水風呂→休憩を繰り返す。そうして休憩場所に座っている時に風が吹いてくる。その風が、なんだかとても気持ちいい。これが整った、ということなのだろうか。こんなに気持ちが安らかになることなんてない。それだけじゃない。着替える時にびっくりする。肌のベタつきが一切ない。さらっさらである。さらっさら。帰り道、風に吹かれる。気持ちがいい。これである。サウナの魅力は、サウナ外での気持ちよさとそれに至るまでの儀式性にあるのだ。約束された安息と、それに至る心地よい儀式。サウナとは宗教なのかもしれない。


31.ブルーピリオド

美大を目指す高校生の話。生まれ変わったら美大に行きたい。そう思うほど魅力的な世界である。小学生の時は絵が得意だったが、美大は目指さなかった。なぜなら、色のセンスがなかったからだ。白黒の授業は必ず点数がよかったが、色をつけるとダメだった。なぜかはわからない。今思えば、いい色をたくさん見る、という経験をしていないことが原因だったのかもしれない。とにかく自分で自分の可能性をそこで閉じてしまって、理系の道に進むが、回り回って、制作の仕事に結局ついてしまった。両親に言われて印象的な言葉がある。「ストレスがたまらない仕事はないが、手を動かしてものをつくる仕事だけは、その瞬間にはストレスがたまらない」なぜかずっと覚えていて、そういう仕事をしよう。ネクタイをつける仕事にだけはつかないようにしよう、と思ったのを覚えている。そして、そういう仕事は「食っていけないかもしれない不安」と戦うことになることも知っていたが、子どもはお金のことなんか考えないものである。若さとは健康とエネルギーが無尽蔵の資源であるかのような実感であり、そして、それは30代に入って消え去った。ブルーピリオドが追い込んでいくのは主人公の自意識であり、技術でありい、人格であり、意志である。美術の魅力は取り組むに値する美しさ。裏腹に、人間性を捧げないといけないという裸の怖さも表裏一体で存在し、そこにドラマが生まれている。美大を目指していない人まで、心臓をギュッと掴まれるような一瞬を何度も感じるだろう。読まない方がいいかもしれないが、読んで後悔することはないと思う。


32.興行師列伝

演劇を中心とした興行界とヤクザの関係はよく話題になるし、近年は事務所とタレントの関係性や闇営業など、様々な角度から話題になり始めている。そういう出来事の源流がどこにあるのか知りたくて読んだ本。特に面白かったのは、歌舞伎がいかに大衆演芸から「国のお墨付き」になっていったか、その政治とのつながり。または、映画や演劇がいかにヤクザなどの暴力装置と一緒に歩んできたか、という点である。劇場の立地は常に政治と関わりがあり、看板役者と収益との関係性から、引き抜き合戦とその報復が行われていたという事実。東宝、東映、吉本、歌舞伎座などの戦いが見て取れる。吉本が国の仕事を受けているなどというのは今に始まったことではなく、昔から、権力と暴力と付き合いながら、役者と劇場をアップデートしてきた。今はそこにメディアとの付き合い方が増えて、役者(タレント)側でも、TV局との付き合い方や、事務所との付き合い方、YouTuber化するかどうか、SNSでの発信力を高めるかどうか、などの点で動きが起きている。昔は興行主イコール劇場であったが、コングロマリット化した現在、例えば米国では、レーベルと、ラジオ放送局と、屋外サイネージがすべて1社によって運営されており、そうすると、このアーティストを売ろうと考えたら売ることができてしまうという体制ができあがってしまっている。現代のエンタメも過渡期なので、いろんなプレーヤーたちがどう動いていくのか楽しみである。


33.SABRINA

現代アメリカの病をそのままパッケージングしたかのような不穏な雰囲気がたまらない。ずっと何かに心をやられていて、それを見て見ないフリをして生きていくアメリカの人たち。絵やコマの構図が淡々としていて美しい。大学時代に、こういうアートブック的なマンガをパリでたくさん買ってきて、日本で読んでいたが、日本で読むと、なんだかかっこつけただけのように思えてきて不思議だった。環境によって、感じ方が変わってしまうのかと。環境といえば、柳生新陰流という剣術がある。この剣はとっても卑怯で(違ってたらごめん)、寝込みの襲い方、敵のすねの斬り方、など、戦う前段階の根回しみたいなところを研究した剣術である。つまり、環境である。環境で全てが変わる。オリンピック級のアスリートだって、ベロベロに酔わせたら勝てるかもしれないし、数学オリンピックの優勝者だって、おしっこをがまんしてたら計算できないかもしれない。そういう状況をつくりだすズルさを自分も身に付けたい。環境の中のルールで鍛えて戦い続けるのもいいが、いざとなったらルールの外側で戦う。それを卑怯と呼ぶか機転と呼ぶかは美学次第だが、最近はルール外のことばかり考えている。


34.ドラえもん

基本的にはダメさの塊のようなのび太にもいいところがあって、それは人の悲しみに寄り添えること、ではなく、鉄砲がうまいことである。これはカッコいい。あやとりや昼寝も上手だが、それはあんまりよくない。銃そのものが人類史上における最大の反則みたいな存在だが、それの使用がうまいというのは、反則上手ということである。ここに特化して鍛えているとしたら、リソースの割き方としてかなりズルくてうまい。種子島を輸入しまくって使い方をいち早く覚えさせた信長のようだ。しかも農民から徴兵したのでなく職業軍人をつくったことでそれが実現した。そういうルール外の行動は楽しい。そういうものを狙っていきたい。反面、憧れるのは職人である。ルールの中で、反復に次ぐ反復を飽くまで繰り返し、その手に技を宿らせていく。機械やAIにとって変わられるリスクなどおかまいなしに、自らを高め続ける。効率とはまた違った高みを目指して仕事を修練させていく。憧れる。モルタルをていねいに盛り、寸分の狂いなくブロックを積み上げる職人をテレビで見た。もっと効率的にできる方法がある気がするが、そんなことはおかまいなしに綺麗に盛る。まるで砂遊びをしていた子どもがそのまま夢中になり続けたような純粋性に感嘆する。仲間の中で唯一速さに特化して自分の一生を捧げた「かもめのジョナサン」のようだ。


35.ぼくんち

西原理恵子のマンガと出会ったのは、大学の鳥人間サークルの部室であった。あの頃、大学生活はサークル棟という部室がたくさん入っている建物と、作業場とグラウンドの往復運動でできていた。設計し、制作し、試験飛行するのだ。というのは誇張しすぎている。本当はマンガを読んだり、ゲームをしたり、麻雀やってる後輩に「その鳥なに?」って聞いて、マジやめてくださいよ、と真顔で言われたりしていた。世の中には目に見えない階層というものがある。両親がいて、義務教育の後に高校・大学と進学できること自体が、めちゃくちゃ恵まれている。奨学金もらったりもして、最近まで返し続けていたりもしたけど、私は元気です。そんな階層の話や、どん底を生きる人たちの話。盗みや犯罪に手を染めながらも、純粋で大切な何かを守ろうとする家族の話。万引き家族が描く格差のことを、何年も前にかたちにしていたのが「ぼくんち」だった。この話がやたら好きで、何度も読み返したのは、自分が恵まれていることを確かめたかったからなのか、同じ苦労をしていないことを恥じたからなのか、よくわからない。


36.できるかなシリーズ

ぼくんちとは違って、ノンフィクションの体験記シリーズ。めちゃくちゃ赤裸々に書いてあっておもしろい。このシリーズの中でいちばん笑ったのは「脱税できるかな」の回で、税務署相手にいかにごまかし、交渉を進めていくか、税理士といっしょに立ち向かっていく姿がめちゃんこ笑える。とんでもない売上なのに、経費は紙とえんぴつくらいなので、どうしよう、となって、アシスタントは1000人いることにしよう、全員リモートワークなんですよね、だとか、最高すぎる。出版物が映像より自由なのはこういうところだよなーと思って読んでいた。今はYouTuberなんかがTVではぜったいできないような危ない企画をやってて、週刊実話みたいだな、と思ったりもする。「できるかな」では、いい大人が、犯罪すれすれなことを、表現の自由の名の下に悪ノリで挑戦していて微笑ましい。時にはロボコンに挑戦し、時には闇カジノに資金を溶かし、時には原発や自衛隊に入隊する。この企画そのものはフリー編集者と一緒につくったもので、雑誌を変えて続いていくのも面白い。乗り物よりも中身なのだ。


37.重版出来

いわゆるお仕事モノなんだけど、毎回泣ける。マンガ編集者と漫画家の関係性をじっくりと味わうことができる。嫌なやつはただ嫌なやつなだけじゃなくて仕事ができたりする。実社会と似ている。正義が勝つという世界でもないけど、実直に努力している人間が時に成長することもあったりして、そういう描写に泣ける。自分が純粋じゃないせいなのか、純粋なものに弱い。マンガ家にもいろいろな問題があって、親との関係や、仕事場との関係や、アシスタントとの関係性など、どれだけひとりで考えてひとりでつくる仕事だとしても、人間は他者との関わりの中でしか、なんの創作物も世に出すことはできないんだな、と気づかされる。そして、働いていれば、仕事論のひとつやふたつ、誰しもが持っていて、それは誰にも縛ることのできないものだったりする。すぐに帰りたい人を引き止めることはできないし、たくさん考えられない者を責めたりはできない。そしてめちゃくちゃがんばるやつをとめることもできない。うまくやるしかない。「うまくやれ」って何度も言われたけど、それにつきるなあ、と思う。


38.すべての仕事はクリエイティブディレクションである

電通のCDC(コミュニケーションデザインセンター)長ーつまり電通のクリエイティブのトップーである古川さんによるクリエイティブディレクションについての本。広告業界ではCD(クリエイティブディレクター)は絶対である。海外だと各会社に一人しかいなかったりもする。コピーライターやアートディレクター、CMプランナーから出世して成るのが一般的だったが、最近ではPRプランナーやテクニカルディレクターからなったりもする。その時代におけるど真ん中のメディアで制作物の質と効果に責任を負う人だ。でもその活動はけっこう難しい。今の時代は特に。たとえばいちプランナーが打ち合わせで出す案は「アクセル」である。予算や実現性や関係性は一切無視して、純粋に自分がおもしろいと思うものを考える。ユーザーの代表として見たいものをつくる。それでいいし、そうじゃないとダメだ。CDは「ブレーキ」だ。「いくべき目的地」を決めて、時にうまくカーブを曲がりながら、無事に制作物を納品させていく。近年ではそこからの軌道修正も必要である。そこにはクオリティの他に、プレゼンテーションや、予算管理や、営業との折衝や、クライアントの要望を聞くのか、躱すのか、戦うのか、懐柔するのか、なども含まれる。人間力が試される。プランナーは見ている。このCDについていって大丈夫なのか。営業は見ている。このCDはクライアントと対峙し、ビジネスを前に進められるのか。クライアントは見ている。こいつは話がわかるやつなのか、そして期待をこえてくるのか。タレント事務所は見ている。こいつはウチのタレントは輝かせてくれるのか。タレントは見ている。こいつはちゃんと芸術性を高めた作品に自分を出演させてくれるのか。そして世の中が、制作物を見ている。これつくったやつは分かっているやつなのかどうか。だからCDはしんどい。だけど楽しい。ということがたくさん書いてあって、吐きそうになります。最高。


39.ファクトフルネス

世界は悪くなっているように見えて、めちゃよくなっている。義務教育のカバー率や、子どもの生存率、病気の回復率などなど、様々な「間違ったイメージ」をファクトで矯正してくれる。コロナ後の世界についてもまた文章にしてほしいと思う。ファクトを見つめることで、その裏にある人間の思いまで想像できるようになりたい。だいたいデータは過去で、未来とは関係ない、なんて言うが、本当は過去を注意深く見ることでしか、未来は予見できない。未来は自分で切り開けばいい、という人もいるが、本当だろうか。そいつがやらなくても誰かがやった。そういう風に歴史は進んでいるのでは、と思う。それがビデオかベータか、HDDかブルーレイか、プレステかセガサターンかの違いだけで、そんなことは微差なのかもしれない。セガなんてだせーよな。だから大切なのは歴史を前に進める時にちゃんと「ダサくない方」に進めていくことだろうなーと思う。いいから早くパワポとキーノートとグーグルスライドの間の互換性を整理しやがれ。あとフォントは人類全員が使えるように国から補助金を出してほしい。もはや共通財産だろ、あれ。MB31とA1明朝、A1ゴシックだけでいいから。


40.ワイルドマウンテン

とあるアプリの仕事でCM監督に演出コンテまでかいてもらった段階で企画がお蔵入りになったことがある。タレントの事務所移籍および海外居住アンド薬物疑惑というトリプルコンボで、クライアントはアウト!である。よくある話でもある。そのお詫びとして制作会社のプロデューサーと監督とCDと飲みに行った。その時に出た話はCMの話ではなく好きなマンガとゲームの話で、ゼルダのすばらしさや、シュタインズゲートの秀逸なしくみなどについて聞かされ、その中で出てきたマンガがこのワイルドマウンテンである。これは連載で読むと正直わけがわからなくなるため、単行本で一気読みすべきである。人間として小さいが英雄である主人公がめちゃくちゃコスい悩みに包まれながら、日々いきている。夢遊病的な切なさを感じながらも、クスリと笑える。他にないトーンがある。本秀康らしさとしか言えない不思議な世界観。無邪気にタブーを破り、そのことに悩んでいく人たち。現実世界ではありえないからこそ、楽しく読めるのかもしれない。


41.編集王

この文章を続けて書いていて気づいたが、自分はきっと編集者が好きなんだと思う。編集という言葉は奥が深くて、「ある新しい視点」で「並べ直す」ことで新しい価値をつくるという作業は、まるで何も作っていないかのようにも見える。でも明らかに新しい価値が生まれている。きっとなかなかそううまくはいかなくて、常套句的な企画を繰り返してしまう人もいるかもしれないが、多くの編集者は、新しい価値や文化を目指して日々つくっているのだと思う。そのことに敬意を払うし、憧れるし、やりたいなと思う。広告の仕事も好きでやっているが、読者にダイレクトに企画をぶつけ、そのフィードバックを受けながら、企画を日々回していく感覚はまるでDJであり、自分というものがいるはずなのに消えていくような、そんな感覚があるんじゃないかと想像する。「人間は島だ。」とバリの老師が言ったように、人間の集団的無意識に触れる感覚があった時、編集はうまくいくんじゃないだろうか。それは村上春樹が「井戸を掘って、鉱脈に当たる」と呼んだような感覚だろう。コピーを書いている時、たまにそんな気分になる。何か人間の根っこのようなものに触れたかもしれない。でも次の瞬間には凡庸な言葉として捨ててしまっている。そのあたりの神秘性がクセになって、やめられないのかもしれない。


42.恥をかくのが死ぬほど怖いんだ。

人間のクズが主人公の短編集。それは悪人ということではなく、スケールが小さなクズが、利己的にふるまう、とても小さなクズさである。そして、そのクズが確実に自分の中のどこかに住んでいる。だから、こいつやべーな、と思いながら、なぜか目が離せない。人生の中で恥ずかしくて死んでしまいたくなることってないだろうか。三島由紀夫は「仮面の告白」で級友に自分の本質を見破られた時を描き、太宰治は「人間失格」で道化のフリを級友に見抜かれた時を描いた。級友とは自分自身の理想を投影した人格を表しており、その理想から見た醜く隠したい自分に、自分自身が気づく時、そこに「恥」という概念が生まれるのだろう。今そう思いついた。無意識のうちに発している言葉の中には数%ずつ「しったかぶり」や「かっこつけ」が含まれていて、寝る前にそれに気づいた時の恥ずかしさといったらない。なるべく思ったことをそのまま話し、わからないことはわからないと言えばいい。それなのに人間は、数ミリの背伸びと、見栄を捨て去ることができない。それは級友からはとても明瞭に見えてしまっている。なんなら人間らしくてかわいいとまで思われていたりした日には、目も当てられない。そんなやつ、この世にいっぱいいる。だから、見ていると恥ずかしくなる。なるべく見栄張ったりしったかぶりとかしないように心がけていきたい。


43.人生がときめく片づけの魔法

決断にはエネルギーがいる。物事を決めるということは、それ以外は捨てるということだから。そして、捨てることにはやはりエネルギーがいる。それを手に入れた自分を殺すことだから。でも捨てた先に広がるのは新たな可能性と自由であり、その爽快感を教えてくれたのが、こんまり先生である。「SPARK JOY」という名訳とともに、アメリカの女神と化した彼女は最近メディアへの進出がすさまじい。暗殺者こんまりによる「ときめかないものは、おかたづけ」が NETFLIXで映像化されるのを待つばかりの日々だ。いちどやったことある人はわかると思うが、部屋を片付けつくした後の気持ちよさは比べるものがないほどだ。わかっている。わかっているのに、今はまだちょっと、片付ける気が起こらない。そうやって生きている。引越ししてから2年が経った。そろそろがっつり片づけてもいい頃だ。テーブルも欲しいし、水草水槽も欲しい。しかし、今じゃないんだ。こんなに連休があったのに、それでも今じゃないのだ。そんなこと言ってたら人生は前に進まない。思い立ったらすぐ動く行動力こそが、その人の能力であり、それがないやつはダメだ。すぐやる。これだけで本が書ける。分かってる。でも、な〜んか、やる気しないんだよな〜。


44.熔ける

数年前、マカオに行った。香港から船が出ており、そこはカジノ天国だった。多くの中国人観光客がいて「深夜急行」さながら大小に熱くなっていた。つまり「バカラ」だ。ルールはシンプル。親と、指名された子の一騎討ち。2枚引いて数が大きい方が勝ち。そして周りのプレーヤーは、どちらが勝つかに賭ける。あたれば2倍になって、負ければパーだ。わかりやすい。そしてこのバカラの魔力は「あたかも必勝法があるかのような気がしてくる」ところである。親、親、子、子、子、親、親、子、子、親、親、親・・・と続いた時、あなたは何を思うだろうか。俺はこう思った。「1回だけ勝つ、ということがない。勝つ時は必ず連勝している。」このルールをよく見ていれば「親と子のどちらかが初めて勝った、その次の回に大きく賭ければ、絶対勝てる。」という必勝法を編み出すことができる。もちろんそんなものはまやかしである。しかし、中国には「勝馬に乗る」という文化があり、勝てば勝つほど、みんながそこに乗っかって賭けていき、場の熱はどんどん高まっていく。いけ!お前は億万長者になるんだ!そして俺たちはその後をついていく!お前に俺たちの運をさずける!行くんだ!気がついた時には、1万円かけて1.5万円くらいになっていた。人間としての小ささが出た。でもそんなもんである。ちょっと体験してみたかっただけなのだ。同行していた友人の会社の上司と偶然会った。別名「マカおじさん」。休みがあるたびにマカオに行き、カジノとサウナを往復しているおじさんである。お気に入りの女の子にはブランドもののバッグをプレゼントし、その時に言うセリフは「ただいま」らしい。世の中にはいろいろな人生がある。自分はギャンブルにハマることはできなかったが、もし一発逆転する必要が出てきたら、マカオに飛び、全財産をチップに変えて、バカラで一回だけ賭けるかもしれない。往復9時間かけて。


45.まなざし

ものをみる視点を変えるだけで、世界はこんなにも面白い。それは「価値判断基準」を自分でつくる作業とも言い換えられる。デザインが「既存の価値を最大化する課題解決」だとしたら、アートは「価値基準を塗り替えること」とも言える。だからまなざしを鍛えることは、芸術的な目線でものごとを見ていることと同義である。アスファルトの道路上の白線を崖の上の道と見立てて、その上を歩いたことはないだろうか。落ちたらワニに食われる、などと言って。あれはアートである。新しい価値基準をそこに持ち込んでいる。だから子どもの遊びはいつだって芸術的だ。大人になるとどうしたって資本主義の価値観の中でいろいろと判断するようになってしまうが、価値基準なんて自分でつくればいい。もしそれに共感する人が多く現れたなら、その国の中で生きていける。なぜか宗教チックな話になってきたが、価値観をひっくり返してしまうものを、芸術と呼んだり、宗教と呼んだり、科学と呼んだりするのだろうと思う。


46.アイデアのつくり方

この薄い本にかいてあることは本当にシンプルで。1インプットする2寝かす3組み合わせが浮かぶ。これだけである。アイデアとは既存の何かの組み合わせにすぎないのだから、なるべくその材料を多く集めて、それが組み合わさるのを待てばいい。という理論。もっともである。そしてそれがアイデアだとしたとき、よいアイデアかどうか、というところには全く触れられていないので、どういう目的と課題を設定するかについては、現代社会とすり合わせていくしかないのだ。これはつまり、課題は明確なのに、アイデアが浮かばない、というような、ある意味ゴール直前のマラソン選手のような状態と言える。あとは適切に体を動かせば前に進み、テープを切れる。それだけ。昔、先輩のプランナーが、クリエイティブなんて誰にでもできる。と言っていたけど、それはこういうことなのかもしれない。つまりアイデアをつくるなんてことはごく初歩的なテクニックの話であり、その提案書を整えたり、実際に手を動かして作ったり、そのための仲間を集めたり、アイデア前後に拡がる広大な作業部分こそが、難しくもあり、面白い部分なのだと。


47.ほぼ日刊イトイ新聞の本

ほぼ日が好きで、「ほぼ日の塾」という教室にまで通ったりした。そこでできた仲間たちは書くことが好きな人たちで、みんないろんな意味でのヒット作を世に出しまくっている、愉快な人たちだ。そんな人が引き寄せられて集まったこの「ほぼ日」とは何か。なんでコピーライターだった糸井重里さんが、一からホームページをつくろうと思ったのか。最初は何から始めたのか。お金はどうしたのか。人はどうしたのか。そしてコンテンツはどうやってつくったのか。そういうことが書いてある。つまり、ほぼ日についてと書いてあるけど、とあるライターがそのキャリアを捨てて、サイトの運営と制作に挑むドキュメンタリーなのだ。時代を読む力。未来を見通す力がそこにあったのか。それは分からない。でも少なくとも皮膚感覚的に、なんか、このままじゃやだな、という直感があって、こういうことがやりたいな、という希望と楽観と覚悟があって、とにかくやってみよう、と進めてきた結果が現在のほぼ日なのだ。それは、IT業界に見られるサクセスストーリーとは全く異なるものである。倍々ゲームで売上が増えていくということもなく、とにかくコンテンツを実直につくり続けてきた結果としての、お客さんと文化であったりする。「なんか宗教的ですよね」「そうだよ。出入り自由のね。」というやりとりがよく表している。なんかこの中では「よき住人」であろうとするような力が場自体に発生している。ひとつのゲームに入ってしまったかのような・・・。すべてはコンテンツである。という考え方は自分の仕事やプライベート、つまり生き方の基本となっている。


48.ガダラの豚

宗教にハマった妻を救うためにアフリカへ。その単純なストーリーの中に中島らもらしさがたっぷり詰まった怪作。マジックというもの。宗教というもの。メディアというもの。呪術というもの。そのすべてが破綻することなく丁寧に描かれている。言っちゃなんだが、中島らも作品はラリった状態でその精神状態を垂れ流す、みたいな逃げ方をする時があるが、この作品は極めて理性的に書かれており、最後まで安心して読み進められる。何より、途中でやめることが難しいくらい面白い。全3巻、ぜひ試してみて欲しい。アフリカの中で行ってみたいところはたくさんあるが、ンゴロンゴロ保全地域はめちゃくちゃ魅力的だ。いつしか隕石が落ち、クレーターができた。その中には独自の生態系が色鮮やかに花開いており、たくさんの動物が暮らしている。そこにカメラを持って訪れたい。コロナが落ち着いて、自分のスタジオ化に目処がついて、すべてリモートで働けるようになった時には、1年くらい旅しながらリモートで生きてみようかと思っている。たくさん写真を撮りたいから。その時は出勤ってどういう概念なんだろう。会社を辞めているのか、むしろ属しているのか。わからないけどリモートで働きながら旅するなんて、絶対できる。だって今こうやって働けているんだから。


49.東京物語

あるコピーライターが東京でたくましく生きていく物語。駆け出しの制作会社時代から、中堅になって調子に乗る時代、独立してバブルの怪しい仕事を受ける時代、そして、なんだかんだ生き延びていく時代・・。時代の移り変わりとお仕事あるあるが詰まっていて、「大人の青春」をみずみずしく感じることができる。大学時代に読んで、やっぱりコピーライターいいなと思ったのを覚えている。ドラクエやFFといったRPGには転職という概念があって、前のスキルを引き継いだまま次の職業へ進める。そのハブとして、「コピーライターはなんにでもなれる」というのが魅力的だった。逆に言うと「なんでもできるようにしとかないと、そうならない」とも思ったので、職業人生における経験をなんとか前向きに捉えることができた・・・気がしている。それでも営業5〜6年目には飽きが来すぎて、外で勝手に他のことをはじめていたけど、そんなもんだろう。思い返せば6年周期で学校や部署や職種や会社を変えてきた気がする。そういう星の元に生まれたのだろうか。運命だろうか。ぜんぜん関係ないのだろうか。


50.Chairman Rolf Fehlbaum

ライターとしてインタビューした仕事でユナイテッドアローズの栗野さんの話をきいたことがあった。栗野さんはファッション業界のクリエイティブディレクターだが、その興味は編集方面にあって、その時に教えてもらったのがこの本だ。ティボールカルマンというベネトンのアートディレクターを務めた男が、ある男の一生を本にしようと思って編集したもの。VITRAという椅子の会社の会長だったか。つまり椅子のすべてを編集することで、男の一生を浮かび上がらせようとした本である。そこには古今東西あらゆる椅子が収録されており、椅子の歴史となっている。大切なのは、ティボールカルマンは写真を集め、並べ直した。ただそれだけで一人の人間の人生を完璧に表現したという点である。写真も撮っていない。デザインもしていない。ただ、椅子にまつわる写真を並べ替えた。そのことはまさに編集であり、クリエイティブ・ディレクションだよな、とインタビューで語っていた。その衰えぬ知的好奇心に刺激されて、すぐにネットで探し出して買ったけど、どこいったっけな。かっこつけて買っただけだったかもしれない。


全50冊のブックレビューというかエッセイというか、文字をつらつらと並べていると、人生を振り返ったような変な気持ちになった。この駄文をここまで読むなんて、ヒマなんですか?                                       

(全30,000字)



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