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【Shake it off. vol.065】 _ _ makes me who I am./衣と音と本

私にとって衣服はアイデンティティーそのものだ。どんなものに身を包み、どう自己表現するのか。その人の衣服を見ればどの様な人物でどの様なこだわりがあって(或いは無いのか)、その人のプライオリティーまで全部見えるものなんだと思う。ということは、自分も同じように見られていることは間違いない。
(↓SNSとの付き合い方と近いかもしれない。)

そして衣服と切っても切り離せないものが音楽。これは私が勝手に思うことだけど、服好きは音楽好きでもあると思っている。そしてこれは誰かが言っていた話、音楽が分かれば政治や情勢、時代の動きまで読み取れるのだと。確かに繋がっているし、だからやっぱり自己表現だよな、とも納得する。




衣と音と私


私はファッションと音楽好きな両親の元生まれ育った。両親はそれぞれバンドを組み青春時代を音楽と、そしてファッションに費やし謳歌したと聞いていた。母は当時のベースは手放してしまったみたいだが、父はギターを数本所有し職場の仲間達と休日にはセッションしにスタジオに入ったり(今はできていないが)、家でもぽろんぽろんと弾いていたのが懐かしい。ギターを弾く隣で私は歌ったりしていた。きっとかなり私は父にインスパイアされた。小学生の頃から洋楽ばかりを聴き、耳コピで覚えたデタラメな英語の歌をベルボトムジーンズを穿いて口ずさんでいたような子だった。母と妹とは毎晩のように家でいろんな歌を謳っていたことも懐かしい思い出だ。そんな私は近所の2つ年上のお姉ちゃんが吹くトロンボーンに魅了され、そして強く憧れ小学生で同じ金管バンドクラブに入り音楽を始める。結局6年間トロンボーンを吹くことになるのだが数年後妹も私と同じ道を辿るということも面白い。2人とも弦楽器は苦手だったが、音楽好きは子供にもこう伝染していくらしい。

そんな父は古着をこよなく愛している。

よく一緒に古着屋へも行っていたっけ。そんな私も父と同じように古着にロマンを感じていた。きっと世界のどこかで誰かにとっても愛されて、今私の元に来ているんだろうな、なんて。宝の山から自分の相棒を探す感覚も、同じモノは無く全て出会いである感覚も堪らなく好きだ。だから今もかなりの割合で古着がクローゼットを占領している。特にジーンズは新品より穿き潰されたものの方が身体に馴染んで心地よい。そう考えるとジーンズは私にとって欠かせないアイテムであることは間違いない。流石に真夏はしんどいこともあるし、かといって真冬も風が通って凍えそうにもなるけれど、それでも手に取ってしまうのはやっぱりジーンズだったりする。ストレッチの効いたデニムが登場して穿いてみたりしたけれど、私は全く伸びないゴワゴワしている味の出たジーンズに一票。

そんな私は衣も音もカルチャー誌から情報を得ていた。今も昔も雑誌や本をこよなく愛していたのは確か。友人達がアイドル誌やマンガにハマる傍らで私はカルチャー誌を読みあさっていたし、毎月何冊も買ってはボロボロになるまで読んでいた。情報は未だに活字からインプットすることが多いし好きなのも変わらない。動画の方が手っ取り早く手に入るし、中には目で読むより見た方が分かりやすい物もあるけど、それでも活字は書き手の気持ちが宿っていて好き。少し読みにくい回りくどい言い方だったとしてもそれがその人らしさだから好きだし、癖になる。

そう考えていくとどうも私は、衣も音も本も癖があるものが好きだし、強く惹かれるのかもしれない。




空白の数年


トロンボーンと歌に打ち込み、専門学校ではファッションを学んだ学生時代を過ぎ私も社会人になる。毎日があっという間に過ぎていった20代前半、ファッションも音楽もそしてカルチャーも一切分からなくなった空白の数年間がある。(※詳しくはこちらから)

私が大切にしてきたものがこぼれ落ちた空白の数年は、やっぱり自分自身のバランスを崩していたと今なら思う。(この数年があったから今があるとももちろん思っているけれど)それは身につける服にも迷いが1番あった時期だったとも言えて、服はあるのに何を着ていいか分からなかった。それは自分の本心や本音を理解してあげられず、誤魔化してしまっていたからだったと思う。それを必死に隠すように、そしてそれをまた誤魔化すように着飾り取り繕っていた。

やっと落ち着いたのはこれもやっぱり30を迎えてからな気がする。振り返って思うのは、簡単に言ってしまえば自分が本当に好きなものに辿り着くためのジャーニーであったと思うのだ。(基本に戻ってきたとも言える)たくさん寄り道をして“なんでこれ買ったんだろう?”と思うモノもあったし、好きな人に合わせてそこまで好きでも無い音楽を聴いたりもしたし、自分が分からなくなる感覚も経験した。でも今やっと一週回って自分のデフォルトに戻ってきた感覚を覚える。どんな感覚なのかと言うと、とってもラクなのだ。本当に好きなファッションが分かって本当に好きな音楽が分かって思うのは、日常と密接であるからこそ身体にも心にもそれは影響しあっているということ。影響しているからこそアイデンティティーとなって外側へ表現されること。きっとラクになったということは取り繕う必要も無く、心身体が全部一致しているからこそだな、ということを。結論、どんなライフスタイルを送っていようがどんな仕事をしていようが、そしてどんな環境に身を置いていようがこれらはどれを選んでも自由だ。性別も国も関係ないのが衣と音と本、好きだけでいいのがこれらなのだ。好きなモノを身につけ表現し、好きな音を聴いたり奏でれば良い。誰かが作った流行より、私が好きなもので表現すれば良い。そしてもし、数年前の私のようにあらゆるバイアスに覆われ何が好きか分からなくなってしまっていたとしたら、それらをぶち壊してくれるのもまた衣と音、そして本な気がするのだ。




野望


巷では90's〜00'sのファッションやカルチャーに注目が集まっているらしい。その頃子供時代を過ごした私たち世代ももう30を超えて、ファッションやカルチャーだけに限らず作っていく“側の人たち”となった。

これまた勝手に思うのだが、この世代、結構面白いこと作れる人たちが多いと思っている。夢だけで無く、ちゃんと現実を見て生きてきた世代だと(これまた勝手に)自負しているから。上も下も、明も暗もどちらも知っているからこそ作れること、届くもがあると自分にも期待をしながら…。

8月も最終月曜日、素敵な日々を!!

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