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【Shake it off. vol.017】 “執着”の対義語を知って、ドキッとした

日に日に月日の流れが早まっている感じがします。あっという間に9月も最終週。このnoteを始めて丸4ヶ月が経ちます。どんなものやことにも捕らわれず、言葉を自由に表現できる場所を探していた半年前。そして見つけて始めた6月。過去の文章を振り返ってみると、“あーこの時はまだ見えない先の不安を感じていたよなー”とか、“このころから吹っ切れてきたかなー”みたいな気付きが自分でもあって。こうしてその時感じている自分の言葉を残す作業は後から振り返ることができて(恥ずかしいけど)結構いいもんだな。と思えてきました。




さて今日は、“執着”の対義語を知って、ドキッとした話を。突然ですが執着の対義語、すぐにパっと頭に浮かびますか?私は恥ずかしながら全く浮かばず。そして調べて、あらまあビックリ。“執着”の対義語は“断念”です。




よく執着は良くない、執着を手放しなさい、なんて耳にするし自分でも執着ってあまり良い言葉ではないという認識ではいたけど、だからこそ対にある言葉は良い言葉なんじゃないかな?なんて考えていた。例えばこのnoteでも頻繁に出てくる“自由”とか“解放”とか。解き放たれたイメージや、何にも捕らわれていないライトな感覚をイメージしていた。だから、調べて想像とかけ離れていたから尚更驚いた、“断念”、なんだと。でも文字にすると“念を断つ”。執着はある種の念であるということにもドキッとした。うん、まあその通りなんだけどさ。ここで面白い発見なんだけど文字に起こした“断念”より、頭に浮かんだり口にした言葉(言霊)の断念が重みが増す感じはしない?なんとも言えない諦めの境地というか、悔しさや後悔が残っているような響きに私には聞こえてしまうのだ。ただ、またこのnoteで良い発見があった。改めて、文字にすると“念を断つ”のが断念。心に抱いた感情やある種の思い込み、時に自分で自分を苦しめてしまうような決め事なんかも念で、それらを断つこと。それが断念なんだ。そう考えてみたら“断念”って成長や学びにおいて無くてはならい、素敵なことのように感じてきてしまう。なぜなら断念するときは常に、現実での出来事を客観的に俯瞰してみる目と、気付きがあってのことだと思うから。そんな高度な断念ができるようになった自分を存分に褒めて欲しいし、私も褒めてあげなくちゃという気分にすらなった。そう、誇らしい。




自分の思い込みは結構あって、結構根が深い。“普通”とか“絶対”とか“ありえない”という言葉の次にくる言葉や付随する物事は、殆ど自分が勝手に作った思い込みである可能性が高い。いやいや、そんなことはない!と思った方は一度自分が使う言葉を注意深く聞いてみて欲しい。前に誰かから聞かされた言葉かもしれないし、昔からすり込まれていた物事であるかもしれない。それらが“ある”ということにまずは気付くことだけでも素晴らしいことなんじゃないかな。私も“普通”とか“絶対”とか“ありえない”の言葉を頻繁に使っていた人だからよく分かるんです。(あともう一つ付け加えていいですか?、“結局”という言葉も。)これらの後にくる言葉や物事は確かに以前の私が経験したからこそ発せられた言葉であるのは間違いないんだけれども。だけれども、だからこそ、その当時の私に言ってやりたい。何をわかりきったことを言っているんだ。勝手に決めつけて、自ら視野を狭めて。なにもわかっちゃいないのに。って話。おおぅ、恥ずかしい。もうアンパンチだ。




当時の私の口癖にいち早く気がつき注意してくれた人物が母だった。言われたときの衝撃と恥ずかしさは半端じゃなかったけど、今は思う。気付かせてくれてありがとう。色んな事を私の勝手なものさしで決めつけて、思い込んで視野が狭くなる…要するにこれぞ正しく執着しちゃってる自分に気付けたことは(大袈裟に聞こえるかもしれないけど)私の人生の中でも大きな出来事だった。執着ってこういうことで、気がついた思い込みを疑い、本当かな?あ、これいらないな!と思ったらサヨナラする。これが断念であるということ。やっぱり書いてみて思う、断念はネガティブな言葉なんかじゃない。断念できた人は新しい自分になれたってことだと思うんだ。




最後に、やっぱり言葉って面白い。そして日本語はなんて美しいんだろうと心底思う。英語を勉強していると日本語の良さを再発見するからこれまた面白い。別の言語が母国語の美しさに気付きをくれるって素敵すぎると思ったのでした。今週もありがとうございました。それではまた来週月曜日に^^






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