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動物運動小史②運動を担ってきた女性たち

*①の続きです。





批判的動物研究とは?


——今日の本題、動物運動の歴史に入っていきます。井上さんの『動物倫理の最前線』は、批判的動物研究という学問を紹介する本となっていると思いますが、改めて批判的動物研究とはどういった学問なのか教えていただけますか?

井上  批判的動物研究は、動物倫理学から派生した学際研究ということになります。よく知られているように、ピーター・シンガー、トム・レーガンらが、動物解放や動物の権利の哲学を体系化して、その中で種差別や動物の道徳的地位について理論化していき、基本概念が確立されていった。

【ピーター・シンガー】
1946年生まれのオーストラリアの倫理学者。1975年に出版した『動物の解放』において、人類が人種差別主義(racism)や性差別主義(sexism)を克服しようとしてきたように、種差別主義(speciesism)も克服すべきと主張。種差別の代表例として、動物実験と工業畜産を告発し、全廃を訴えた。シンガーは、動物も痛みを感じるという点から道徳的配慮の必要性を説く。限られた資源を使って他者の幸福を最大化する効果的利他主義も提唱している。

【トム・レーガン】
1938年生まれのアメリカの哲学者。レーガンは『動物の権利擁護論』において、動物も人間と同じように「内在的価値」を持つ存在として権利を持つべきだと主張。動物をただの物や道具として扱うのではなく、「生の主体」として尊重するべきと考える。シンガーの功利主義に対して批判的で、動物の権利を結果(例えば、動物を使った実験や工場畜産が、その犠牲以上の利益をもたらすかどうか)ではなく、動物そのものの内在的価値に基づいて守るべきだと説く。

 それで動物の倫理的扱いに関する議論が形づくられていったのですが、実際のところ、動物の扱いに関わる事柄というのは、倫理学の中の応用倫理学という狭い領域の中で扱えるような問題ではないんですね。そこには精神文化・物質文化も関わりますし、政治・経済・科学・心理学・歴史・法律・ジェンダー・メディアなど、いろんなものが関わってくる。それを扱うには、人文学や社会科学の知識を総動員しなくちゃいけないということで、そこから動物がこの社会で置かれた状況の分析とか、動物に対する哲学的考察といったものが発達していった。

 一方で、主流の動物解放運動や動物の権利運動は、例えば男性中心的であるとか白人中心的であるとか、そういう問題を孕んでいるので、様々な社会正義の観点から、既存の運動に対する批判と乗り越えが重ねられてきた。

 そうした背景がまずあって、そのときにちょうど9.11の同時多発テロが起こって、これを契機に「テロとの戦い」という名目で、社会正義に対する政府の弾圧がすごく強まった時期がありました。それで動物解放や環境保護の運動などに対する弾圧も強まって、テロリズムという概念が作られ、抑え込みが過熱化していった中、学者や活動家が集まって、政府の動きなどに対抗する動きが生まれました。その中で批判的動物研究という概念が生み出された。

 そこでは抑圧の絡み合い、つまり人間に対する抑圧、動物に対する抑圧、環境破壊、それらが絡み合っているという意識から、領域横断的な正義が目指されるようになった。それから、学問というのはそういう政治的な現象に対して中立を装うようなものであってはならない。中立というのは結局のところ抑圧者を擁護する立場なんだ、という問題意識から、擬似中立性・擬似客観性というものは排除して、はっきり動物や人々の解放を目的意識として明確化した学問の体系が必要だという考え方もそこに織り込まれました。

 それから、関連することとして、理論探求というものと実践活動というものを統合しようと。理論というのはあくまで現実に存在する抑圧をなくすために存在するんだ、という考え方から、理論と実践の統合という考え方も生まれた。

 それからもう一つ大きいのが、被抑圧者の主体性とか主観性というものに寄り添う姿勢——つまり動物たち自身がどういう生き方を望んでいるかをもっと知ろうというような観点もその中に入りました。この、理論と実践の統合とか被抑圧者の主体性に対する注目というのは、要するに抑圧される者たちを客体化しない学問と運動を目指そうということだと思います。こうした学際知を統合して、人々と動物の解放を果たそうという目的意識を持った研究が批判的動物研究であると理解しています。

『動物倫理の最前線』の中では、学際体系の中でもとりわけ重要なものとして、土台となった道徳理論と、それから特に大きな影響を持った社会学やポストヒューマニズム、フェミニズムの哲学を解説しましたが、実際にはこれは学際研究なので、ものすごくいろんな領域がその中に入ってきてるんですね。脱植民地化理論とか障害理論とか、この本の中では解説できなかったものもさまざま含まれています。

——わかりやすくいろんな要点を教えていただきました。私達の過去の座談会でアニマル・アライアンス・アジアのみなさんと話したときに、メンバーのかほさんが、カナダで批判的動物研究を学んでいらっしゃるということで少し話しました。人権の運動でも、現場と理論が乖離しがちで、さっき言われたように理論が中立的になってしまうことがあると思うんですけども、批判的動物研究は理論を理論で終わらせない、市民との活動家との連帯を目指すということをやられているようで、重要な学問だと感じています。



特に影響を与えた思想家・作家たち——リサ・ケメラー他


——動物倫理学の歴史だとやっぱりピーター・シンガーの『動物の解放』が始まりだったとみなされていて、絶対に無視できない存在になっていますが、その一方で、シンガーの功利主義的な思想が受け付けないために、動物運動に抵抗感を持ってる人もいて、もったいないなと感じています。シンガーの問題点については過去にも触れているので今回は割愛しますけども、井上さん・生田さんは、シンガーや、さっきおっしゃってたデビッド・ナイバートの他に、特に共感を得たり影響を受けた思想家や活動家はいますか?

【ピーター・シンガーと障害者の抗議運動】  
功利主義に立つシンガーの思想は「苦痛を感じることができるか」を道徳的主体の条件とするため、苦痛を感じない存在は配慮しなくてもよいという論にも繋がってしまう。重度の障害を持つ新生児などについては安楽死が正当化されるとシンガーが主張したことに対して、障害者団体を中心とした抗議運動が起こった。  
*参考 田上孝一『環境と動物の倫理』(本の泉社、2017年)、生田武志『いのちへの礼儀』(筑摩書房、2019年)    

井上 リサ・ケメラー(Lisa Kemmerer)というエコフェミニストの人にはすごく影響を受けたと感じています。動物運動と環境運動と人権運動の繋がりについてわかりやすく書いていて、それから動物運動とフェミニズムの関わりについても、この人の書いたものから多くを学んだと感じています。

 例えば、動物運動と環境運動は反目し合う関係にあるといわれるんですよね。これって極端なところだけを見て対立しているんですけど、例えば、動物運動は個体だけを見る、環境運動は生態系だけを見る、というようなところで、「人間のもとで飼われている動物が自然環境の中に入り込んだらその動物を殺すべきか、殺さないべきか。生態系保護の観点からすると殺すべきだ。動物の権利から見ると殺さないべきだ」といったように、環境倫理と動物倫理は両立しないという議論がなされてきました。けれどもリサ・ケメラーに言わせれば、それは違う、と。

 動物たちが生きるには健全な環境がなければならないし、健全な環境というのはそもそも動植物たちが健やかに幸福に生きられてこそ意味を持つものだというようなことで、人間中心主義を超えて、動物倫理と環境倫理の統合を目指していこう、とケメラーは訴えていて、そこがすごく腑に落ちたところだったという経験があります。リサ・ケメラーの著作について、『動物倫理の最前線』では本当にわずかしか触れられなかったんですが、この人には影響を受けました。本当は翻訳したいんですが、やっぱりアンソロジーで企画が通せないんです。

 あと、例えば——これも男性のポジションから言うのがすごくためらわれる話ではあるんですが——フェミニズムのフォーラムとかの懇親会で動物性の料理が出るのはどうなのか、といったこともヴィーガン・フェミニストの中では問題になるんですよね。それに対してあるフェミニストの人は、「各地の女性たちが築いてきた料理文化があるんだから尊重しなきゃいけない」というのに対して、リサ・ケメラーは、「文化を持ち出すんだったら、家父長制だって文化的な風習として維持されてきた。そこに対して異議を唱えるのがフェミニズムなんじゃないのか」と言っていて、それもストンと自分の中で入ったところだった。こうやってフェミニズムの思想とヴィーガニズムの思想がリンクされていくのかと学んだ、そういう経験があります。

——フェミニズムの方から動物の運動に入られた、というのは貴重な経験だったかもしれないですね。生田さんはどうですか?

生田(注:この日、調子が悪くて記憶漏れや言い落としが多く、フェアではありませんが加筆しています。当日の発言にない内容は[]に入れています)

[動物倫理学については、1970年代から80年代にかけてのピーター・シンガーとトム・レーガンが出発点として大きかったと思います。この両者の可能性と限界を、「人間と動物の関係」という視点から、さまざまな思想家や文学者の作業を通して考えていました。]

 僕は群像新人文学賞を取って出てきて、文学評論をある程度やってきましたんですが、『いのちへの礼儀』も、フローベールの『三つの物語』での「純な心」の女性主人公とオウムの関わりが大きなヒントになりました。エピグラフで挙げたカフカもそうです。現代の文学では、松浦理恵子や木村友祐といった小説家に「動物と人間の関係」について刺激を受けてきました。

 あと、今日の一つのテーマとなる「ケアの倫理」についてですが、最近読んだ論文に、キャロル・ギリガンの「道徳の方向性と道徳的な発達」があります。

 ギリガンは『もうひとつの声で』のなかでもチェーホフやジェイムス・ジョイス、コンラッドなどの文学作品をいっぱい使っています。ギリガン自身、「心理学と文学から考える」というスタンスだと言っていますね。「道徳の方向性と道徳的な発達」では、円地文子の長編小説『女坂』まで取り上げているんです。ただ、一番興味深かったのがスーザン・グラスペル(1876~1948)の「女仲間の評決」の分析です。グラスペルは初期フェミニズムの作家として有名ですが、ほとんど翻訳されていません。「女仲間の評決」はネット上で翻訳がありますが、これはものすごい興味深い小説です。

 ある男性が殺された事件で、妻が加害者らしいということを近所の女性たちが発見します。しかし、彼女たちは夫たち保安官の前から決定的な証拠を隠してその女性を救おうとします。彼女たちは、部屋の中で小鳥が殺されているのを見つけたんです。どうやら、夫が妻をずっと虐待していて、妻が飼っていた鳥を殺してしまった、それで妻が激しい怒りを持って夫を殺してしまった、ということがわかってきます。ただ、そのことを察知しても、女性たちは法的な責めからその女性をみんなで救おうとする。そこでは、女性たちと動物たちの関わりが大きな意味を持つことになります。一人の女性は子どもの頃に飼っていた猫が男の子に斧で殺されたことを思い出します。そして、彼女たちは殺された夫は「さえずったりする」小鳥と「よく歌った」妻の両者の「息の根を止めたんだ」と語りあいます。ギリガン自身は人間と人間の関係しかほとんど取り上げていません。でも、彼女が取り上げるスーザン・グラスペルの中では、「法律」の側に立つ男たちに対して「女仲間」が対決し、しかも動物と女性の関係が大きなテーマとなっているわけです。最近読んだなかではこれが非常に興味深くて、もし今『いのちへの礼儀』を書くとすれば、これを取り上げるだろうと思いました。



動物運動を担ってきた女性たち


——今お二人に紹介していただいた人は女性が多かったですけど、動物倫理の歴史を見てるとどうしても男性たちの存在が目立っちゃうところがあると思うんです。でも動物運動で草の根で活動しているのは、女性の割合が非常に多いですよね。井上さんはそういうところに問題意識を持たれて女性の運動や仕事に光を当てるようなこともされていて、『最前線』でも一章丸々フェミニズムに割かれています。今回はせっかくなので、女性の活動家や思想家をピックアップして簡単に紹介していきたいと思います。

 今回は井上さんの『最前線』と、『HUG』(2023)という雑誌を主に参考にしています。なお、『HUG』の方はウェブサイトからも読むことができるので興味のある方はぜひご覧ください。

 動物運動に関係する最初の女性というと、だいぶ遡ってみていくと、17世紀には、マーガレット・キャヴェンディッシュという女性の作家がいました。特にヴィーガンの間では、「動物はものを感じない機械だ」とみなす「動物機械論」という考え方が知られていて評判が悪いと思うのですが、それに対してキャヴェンディッシュは早くから意を唱えていました。狩猟についても批判しています。

マーガレット・キャベンディッシュは、ほとんどの女性作家が出版を匿名で行っていた時代に自分の名前を明らかにして作品を刊行。

 また、第一派フェミニズムのフェミニストのなかには、奴隷解放などと並んで、動物のあり方にも目を向けた人もいて、たとえばイギリスのメアリ・ウルストンクラフトは、教育のなかに動物への配慮を含めるべきだと主張していました。

メアリ・ウルストンクラフトは1792年に『女性の権利の擁護』を発表。娘に『フランケンシュタイン』の著者メアリ・シェリがいる。

 また、ジャーナリストのマーガレット・フラーは、菜食の普及や屠殺の廃絶も訴えていますし、シャーロット・パーキンス・ギルマンという作家は、「黄色い壁紙」という短編小説で有名ですが、"HERLAND"という小説のなかで、ヴィーガンのユートピアSFを描いています。

 動物の運動のなかでも、動物実験反対運動は結構早くからはじまっていたようで、たとえば、アンナ・キングスフォードは、まだ女性の学位取得がむずかしい19世紀に医学の学位をおさめて動物実験に抗議しています。私生活でも菜食主義を貫いていて、食改革協会を設立したりしています。

アンナ・キングスフォードは動物実験を一匹も行うことなく1880年に医学学位を取得した。

 この辺りから動物の権利をめぐる議論も出てくるようになっていて、奴隷廃止運動に従事していたハリエット・ビーチャー・ストウはエッセイの中で動物たちを制度的に保護する必要があるということを訴えています。

ハリエット・ビーチャー・ストウは『アンクル・トムの小屋』の著者として有名。

 外せないのはルース・ハリソンですね。彼女は動物の権利を訴えたわけではなく、動物福祉の思想ですが、彼女が『アニマル・マシーン』という本を出したことによって、工場畜産の現状が広く知られるようになりました。また、この本の序文を書いているのは『沈黙の春』の著者であるレイチェル・カーソンで、ハリソンはカーソンの影響も受けています。

 60年代〜70年代、第二波フェミニズムの頃になると、フェミニストの書き手も増えてきて、レイチェル・カーソン、ブリジッド・ブローフィ、フランシス・ムア・ラッペといった作家たちも動物の権利やエシカルヴィーガンについて書いています。

 エコフェミニズムという思想が出てくるのもこの頃になります。フランスの作家のフランソワーズ・ドボンヌがフェミニズムとエコロジーを融合させたのですが、エコフェミニズムが広まっていく中で、「自然と人間と動物の擁護は不可分である」という思想が生まれていくようになりました。ただ、エコフェミニズムの中でものちのち分断が起こってしまって、動物の搾取に向き合う立場と向き合わない立場に二分されることになります。

 なんといっても重要なのは、過去の座談会でも名前が出た、キャロル・アダムズです。アダムズは、『肉食という性の政治学』(1990)という本の中で、肉食と男らしさの関係や、動物抑圧と女性抑圧の連結を指摘し、父権制に抵抗する手段として、菜食実践を訴えています。

 わたしが個人的に影響を受けているのは、この座談会でもちょくちょく名前を出している、スナウラ・テイラーとメラニー・ジョイで、いずれも女性です。スナウラ・テイラーは、障害者かつヴィーガンという立場で、著書の中でピーター・シンガーと対決していて、スリリングで面白いです。また、メラニー・ジョイは、理論だけではなくて、現場の活動家の育成にも尽力していて、現実的に役立つ情報がたくさんあります。





有色女性の動物運動・思想


——井上さん、他に付け加えたい人います?

井上 これは私のまとめにそもそもの問題があったということになるんですけど、私のまとめた系譜では、白人寄りすぎるんですよね。だから有色人種の女性が出てこないということで、そこは私が間違っていたところだなと思っています。

 例えば、マーティン・ルーサー・キングの配偶者にあたるコレッタ・スコット・キングという人は、フェミニストでゲイライツ(同性愛者の権利運動)も支持していて、平和運動も行っていて、かつ晩年にはヴィーガンだったということが知られています。

コレッタ・スコット・キング

 それから、主に黒人の権利運動で知られているアンジェラ・デイビスという人も、反資本主義・反レイシズムといった領域横断的な運動をやりながら、動物に関しても、資本主義的な食料生産の中で搾取される動物たちの境遇を問題視しています。

 それから、脱植民地化や反レイシズムというところだと、アフ・コー、シル・コーという姉妹が書いたAphro-ismという本がありますし、食に関する脱植民地主義ということを図るものでSistah Veganという本を書いたブリーズ・ハーパーという人もいます。このSistah Veganという本は、ブラックフェミニズムの文脈からのヴィーガニズムの本ということで有名で、これも翻訳したいんですが、やっぱりアンソロジーなので私では企画が通せないです。

 それからサリタ・ロドリゲスも、『最前線』の中で少しだけ触れましたが、有色女性の立場からヴィーガニズムや動物解放を論じている人になります。他にはカナダ先住民の立場として、狩猟先住民というと「狩猟はアイデンティティだ」というようなことが言われるのですが、それに対して先住民の内部から異議を唱える人としてマーガレット・ロビンソンという人もいます。今すごく影響力のある人ですね。

 そういう白人中心的な歴史の中から消されてきた、もしくは無視されてきた、あるいは光が当てられてこなかった、いろんな複合的なマイノリティ属性を持つ人たちによるヴィーガニズムやアニマルライツの議論というものも、これから積極的に紹介していかなきゃいけないなと感じています。



ホアキン・フェニックスばっか褒めんなや——「女性の書いたものは論理的じゃない」?


——わたしがまとめてて思ったのは、動物実験の運動は結構早くから始まっているんですよね。でも動物実験の抗議運動も、エリートの白人男性の医師や科学者は、「女たちのヒステリックな感情論」とみなしてたと『最前線』に書かれてたと思います。そういった、「理性は男性のもので感情は女性」といった二項対立、そういう先入観やイメージが、実際に動物の運動を阻害してる部分は大きいのでしょうか?

井上 そう思います。これは日本でもナチュラルに聞かれるんですが、例えば、スナウラ・テイラーが書いたものにしても、キャロル・アダムスが書いたものにしても、「論理的じゃない」といった批判や評価がなされることがあるんですよね。大体そういうことを言うのは男性なんですけど。でもその時点で私はアンフェアだと思っていて、例えばポストモダニズムを担ってきたデリダやドゥルーズ、ガタリといった人たちを見ていても、飛躍した議論をしていたり、言葉遊びをしていたり、読みにくい部分はたくさんあると思うんですけど、そういうものに対して同じような評価ってあまり聞かれないと思うんです。そういうものは「読み解き」の対象であって、初めから真面目に受け取られる。それに対して、女性が書いたものは「飛躍が多い」とか「論理的じゃない」とか、最初からバイアスが入って読まれるということがあると思います。そういうところから女性たちの理論が顧みられてこなかったということは確実に言えるでしょう。

 あと、これに関してはわたしは内心すごく複雑に感じたんですが、例えば、ホアキン・フェニックスのスピーチですね。ホアキンが言っていたこと、確かに私ももちろん反対はしないし、あの人の言っている通りなんですけど、同じことって女性の活動家たちが今までさんざん言ってきたことなんですよね。でもそういうものに対しては、もう四方八方からすごいバッシングが浴びせられてきた。だから、スナウラ・テイラーが『HUG』のエッセイの中で「ホアキン・フェニックスは、自分たちが絶対に越えられなかったガラスの天井を軽々と超えてしまった」というようなことを言っていて、あれはすごく私の中では、そうだろうなと思いました。最初から、女性に対しては声を認められるハードルがすごく高く設定されている、というのがあると思います。



ダナ・ハラウェイのウケがよい理由


——そういう中でダナ・ハラウェイはやたらと受けがいい(特に男性の左翼から)と思うのですが、井上さんはハラウェイはどういうふうに捉えますか?

井上 ダナ・ハラウェイ、許せないです(笑)。

——(笑)。

井上 ハラウェイは「境界を破る」といったことを言っていて、「動物改変は生命と非生命の境界を打ち破る」とか、「人工と自然の境界を破る」とか言うんですけど、それに対してジッポラ・ワイスバーグという、フランクフルト学派の系譜を継ぐ哲学者が「それは単に人間の資本による動物の体への侵襲でしかない。そういうものをまるで境界破りの解放であるかのように言うのは欺瞞も甚だしい」ということを言っていて、私も本当にその通りだと思っています。

*Zipporah Weisberg (2009) "The Broken Promises of Monsters: Haraway, Animals and the Humanist Legacy," Journal for Critical Animal Studies 7(2): pp.22-62およびZipporah Weisberg (2014) "The Trouble with Posthumanism: Bacteria are People Too," in John Sorenson ed., Critical Animal Studies: Thinking the Unthinkable, pp.93-116を参照。


 ハラウェイがあそこまで人気を博すのは、結局現状肯定だからだと思います。資本による生命の改変といったものを、面白いからもっとやっちゃえばいいじゃないか、というのがハラウェイなんですよね。「混淆を楽しむ」とかを平気で言うので。そういうふうに技術による生命の攪乱を手放しに礼賛して、「私達は今までのままでいいんだ。人間にも動物にも本質なんてないんだから、どんどん改造しちゃえばいい」というような、手放しの現状肯定を促す思想だからハラウェイはあんなにウケがいいんだと思います。

——アートでもハラウェイは作品の根拠として使われるということを聞いて、そういうかりそめの“人間と動物の関係”みたいな幻想が、現実の動物の救済を阻害しているように私も感じています。

川口 井上さんの本を読んで感じましたし、今の話を聞いててもやはりそう感じたのですけども、ハラウェイの話を聞くと、人間は歴史的に自然環境に働きかけてきたということを、いくら思考だけであったとしても安易に乗り越えられると考えるべきじゃないなと思いますよね。

 人間と動物、そこに非生物を含めてもいいですが、自然環境のなかで、生きるか死ぬかの生命のやり取りっていうのがつねに生じていますよね。それは基本的にたいしたことじゃない。人間は抽象的に色々思考するし、今後、科学によって思ってもみなかったことが起こるのかもしれませんが、それはあくまで人間の基準です。生命っていうのは、ごくふつうのありきたりな出会いと別れを無数に繰り返すだけなんだ。現実に起こることはたいしたことじゃない、それで十分だ、という視点をどこかで確保しておく必要があると、今自然が豊かな場所で暮していて思うんですよ。それが人間の特権性を手放すということにつながるのではないか、と。

 このあいだ、息子の友達に、沼みたいな場所で虫や爬虫類を見つけるのが得意な子がいて、その子と外で遊んでいたときに、「珍しいカエルを見つけたよ。おじさん肌弱くない?」って聞かれて、「弱くないよ」と答えたら、そのカエルをてのひらに載せられたんですね。そしたら「ちょっと毒あるから後で手をよく洗っといて」とその子にさらりと言われて、一瞬びっくりしたんですけど、感動したんです。説明がむずかしいのですが、自然との接触というのはこういうものだと理解しておくべきなのだな、と。小さな、柔らかい、毒のある生命をいきなり手に置かれて……どんな関係にも、接触にも、抵抗や拒絶がある。そのことを忘れて生きていられることが人間の特権なのかもしれない。だとすれば人間の業はとてつもなく深いなあ、と……。子どもからそれを教えられてね。

 まだ私も年齢的に先があるだろうから、動物解放を自分で考えていかなくちゃいけないし、実践しなくちゃいけないんですけども、さらに先の未来のことを考えると、こういう形で人間と動物の接触/抵抗をよく知っている人たちに担って欲しいし、担うんじゃないかな、とそのとき思ったんですよね。

・・・という何の結論もない話なんですけど、私もこういう、ハラウェイのような想像力というのは正直まったく信じないです。

井上 先ほど好美さんがおっしゃっていた、「人と動物の境を安易に乗り越えられると考えるべきではない」というのは本当にその通りだと思います。つまり、ハラウェイ的な意味でいう「乗り越え」、つまり生命改変を介した境界の攪乱とか乗り越えというのは、結局のところ人間が一方的に自然に対して介入するという形を取る。そこには厳然とした力関係があるのに、それに対する意識がハラウェイの著作には感じられないというのがあります。

 毒のある生き物を手に載せる、というお話もありましたけど、人間と動物が接するとき、人間は生命に対する妥当な接し方について本当に悩み続けなきゃいけないところだと思うんですね。少し手を出すと、生き物って簡単に死んじゃう。例えば、家の中に入ってきた虫を出そうとして、何とか傷つけないようにとらえようとしても、ふとした間違いでその生き物は傷を負ってしまったりすることもありますし、一方で毛虫が路上をさまよっていたら、手で触れることができないからどういうふうに掬おうかな、と思って、私なんかはそこら辺に落ちている葉っぱに這わせたりするんですけど、生き物との接し方は本当に難しいですよね。 「乗り越え」って簡単に言うけど、全然簡単じゃない。これは、人と人との関係でも本当はそうなんだと思いますが。




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