見出し画像

海へ来なさい

 私たちは海から来たんだよ、と祖母はよく私に語った。
「私たちは小さな生き物から、魚になって、足が生えて、地面を這うようになって、そのうち二本足で歩くようになったんだ。私たちは海から来たんだよ」
 寝る前の布団の横で、浜の潮風が吹き込んで揺れる家の中で、からかわれて泣いて帰ってきた土間で、祖母は私にそう語った。
 その時の彼女の瞳の色を、今でもよく覚えている。遠くを見つめるような、遠い昔を思い出すような、濁っているのに透き通った瞳が、老いと労苦で黒く硬くなった顔の中で輝いていた。
 普段は峻厳とした、背筋の伸びた口調の祖母だったが、その時だけはうっとりと、とろけるような口の動きで、海と私たちについて語るのだった。
「だから私たちはいつか、海に帰るんだよ。おばあちゃんも、あんたも、あんたをいじめた子たちも、友達も、みぃんないつか、海に帰るんだよ」
 私がいつ帰るの? と聞くと、祖母はいつも、決まってこう言った。
「あんたのお母さんが、海から帰ってきた時だよ。一人残らずみぃんな、連れていってくれるからね」
 いつもその言葉で、海の話は終わった。

 私には父も母もなかった。
 漁師をする祖父と、家を守る祖母の元で暮らしていた。
 祖父は漁と放蕩で家に戻らず、金だけを送って寄越してきたが、老婆ひとりが暮らすにもやっとの金銭で二人が生活するのはとても厳しいことだった。
 私たちの家は、海辺の小さな漁村からはぐれた場所に建っていた。
 村は防砂林の陰にあったというのに、私たちの家だけはその手前にあった。吹かれた砂が、貧しい木の板でできた家の隙間から入り込む。海の虫たちがその砂の上を這う。私たちは半ば砂に埋もれた家の中を歩いて生きていた。
 海が満ちて引いていく音、波が寄せて戻っていく音、それらは絶えることなく続き、長じた私の耳に、今も聞こえている。

 祖母が死ぬ数日前──つまり、村が消えてなくなる数日前、私たちの家に「母」が、やって来た。
【続く】

サポートをしていただくと、ゾウのごはんがすこし増えます。