【過去原稿】かつてタモリは、マッカーサーとおなじレイバンのサングラスをかけていた――タモリブームと戦後60年


 以下にあげる文章は、2003年に『Kluster』という同人誌に寄稿したものである。その記述には虚実が入り混じり、しかも2003年の時点で翌年発行の『月刊アンビバレンツ』なる架空の雑誌に載った記事という設定のもと、架空の文学作品を論評するという現在読むとかなりややこしいものになっている。さらにいえば、「大きな物語」とか「スーパーフラット」とか現代思想や現代美術のジャーゴンがちらほら出てくるのがいかにも若書き(執筆当時私は27歳)という感じがして、こっ恥ずかしいったらありゃしない。

 それでもこの文章が、のちに私が手がけることになる「タモリはどう語られてきたか」(「エキサイトレビュー」2013年8月)、「タモリの地図――森田一義と歩く戦後史」(「cakes」2014年3月~15年4月)といった仕事の原型であることは間違いない。また、後年のタモリブームを予見したものとして、われながら興味深くもある。そんなわけで、ちょうど「タモリの地図」が終了するタイミングであるし、参考までにあえて晒し上げることにした。その点を念頭に置かれたうえ、お読みいただければ幸いである。(2015年4月1日)

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 この一年、なぜかタモリの再評価が各ジャンルで著しい。どうやらこれはそもそも昨年、キリンアートアワードで『ワラッテイイトモ、』[注1]という映像作品が審査員特別優秀賞を獲得したことに端を発しているようだ。

 今年に入ってからは、タモリがかつてリリースした音盤が続々と復刻されている。このうち『タモリ』(オリジナルは1977年発表)と『タモリ2』(1978年)は1995年に一旦CDとして新たに再発されたものの、しばらく廃盤になっていたアルバムの再復刻だ。さらにそれらに続くアルバム『タモリ3・戦後日本歌謡史』と『ラジカル・ヒステリー・ツアー』(いずれも1981年)は初CD化であり、前者にいたってはLPリリース後、著作権の問題など諸事情から即発禁の憂き目に遭ったものだったため、今回のCD発売を待ち望んでいたファンも多い[注2]

 このほか音楽業界では『TAMORHYTHM(タモリズム)』というトリビュートアルバムも企画され、タモリによるアフリカ民族音楽のパロディ「ソバヤ」を小西康陽がアレンジした「ちりぬるを~たまき・浩二のおそばやさん」(これはもともと、昨年リリースされたV.A.アルバム『SOB-A-MBIENT;Music for Your Favorite Soba Shop』から再収録されたものだ)をはじめ、続いて桑田佳祐がかつてタモリに提供した自作曲「狂い咲きフライデイ・ナイト」(オリジナルはアルバム『ラジカル・ヒステリー・ツアー』に収録)を、氷川きよしが「けねし晴れだぜ花もげら」(オリジナルは『タモリ』に収録)を、いとうせいこうがFENのインチキ英語DJを、クレイジーケンバンドが「ウキウキWATCHING」(『笑っていいとも!』のオープニングテーマ)を……といった具合に豪華アーティストたちがタモリの歌やギャグのカバーに挑戦している。それにしても再結成したピンク・レディーが、かつてタモリが彼女たちをパロッて歌った「サンスター」(オリジナルは『タモリ2』に収録)をカバーするとは一体誰が予想しただろうか。

 さて、こうしたブームは出版界にも飛び火しており、『ユリイカ臨時増刊』(青土社)や『文藝別冊』(河出書房新社)、『別冊宝島』(宝島社)といったムックが相次いでタモリ特集を組み、若手の作家や批評家、アーティストたちがタモリについて文章を寄稿している。またこれまでのタモリに関する雑誌や新聞記事を集め、さらにはタモリ自身が生い立ちから現在までを語ったロングインタビューを収めた『タモリ・クロニクル 1945-2004』(大田原出版。同書には詳細な年表も掲載されている)というタモリ資料の決定版ともいうべき大著が刊行され、都内の大型書店にはこれら関連本を集めて「タモリコーナー」という一角がつくられるほどだ。

 考えてみると、ともに80年代前半に新しい笑いの旗手として脚光を集めながらも、その芸や映画作品、あるいは存在について誰もが語りたがるビートたけしに対して、タモリが(特に『笑っていいとも!』の放映開始以後は)語られることはあまりなかった。それがここへ来て再評価が高まっているのは、来年、2005年が、タモリの芸能生活30周年の年だということと同時に、戦後60年の年であるということにも深い関係があるのではないだろうか。筆者がそう考えるのは、先に記した各誌の特集でも、彼の経歴と戦後史とを重ね合わせて論じる文章が多かったからだ。

 よく知られるようにタモリは終戦からちょうど一週間後、1945年8月22日に福岡で生まれている。彼は東京オリンピックの翌年、1965年に早稲田大学に入学し上京するも、その後中退し一旦帰郷。その後数年間は地元でサラリーマン生活を送っていたが、福岡を演奏旅行で訪れていたジャズピアニスト・山下洋輔らの前でたまたま披露した芸が大いにウケたのを機に、1975年、山下たちから呼ばれ再び上京、やがて芸能界デビューを果たす。デビュー当時、彼がマンガ家の赤塚不二夫の自宅に居候していたというのはいまだに語り草だ。

 それはそうと、タモリがデビューした1975年といえば、ベトナム戦争が事実上終結し、戦後世界史に一区切りが打たれた年である。そんな世界史の流れがタモリの芸にも影を落としている――と言えば冗談だと思われるだろうか。しかし、たとえば平岡正明などは、タモリの初期の代表的な密室芸のひとつ「四ヶ国語マージャン」[注3]に、ベトナム戦争調停のため行なわれたパリ会議(1968~73年)における各国間の論争を見出している。

《ベトナム戦争終結まじか、パリ会議の時点で、米、ベトナムの戦争当事国、韓国、中国の応援国がマージャン卓をかこんで、韓国人がワリを食うというのがあのギャグの神髄だった。戦争やめようよ、と言ったのがベトナム、米国、中国で、戦争やめるときめたとたんきのうの敵がコミになって、メコンデルタに出兵した韓国をチョンボというその、国家と戦争の身勝手さがあって、はじめて、〈ヨギメン・チョンボニゲン・コスミダ〉と怒りを発するタモリ朝鮮語のギャグが生きる》(平岡正明『タモリだよ!』CBS・ソニー出版、1981年)

 また、このギャグのオリジナル版は「天皇臨席」だったということだが、各国がマージャン卓を囲んで争うさまを天皇――この当時の天皇といえば、言うまでもなく昭和天皇である――が臨むという構図は、そのまま戦後の日本の国際社会に対する態度と重なる。戦後の日本はアメリカの強大な軍事力に守られながら、まどろっこしい国際関係とは無縁のまま、ひたすら経済発展のみに専念してきたのだから。

 あるいは、「四ヶ国語マージャン」と並び初期タモリの代名詞であるハナモゲラ語は、外国人が聞いた日本語の印象をあらわしたものだといえるが、こうしたやや自虐的なギャグが受け容れられたのも、彼の登場した70年代後半にはすでに日本経済が欧米諸国を脅かすまでに成長し、日本人も自分たちをシニカルに眺められるほどには成熟を遂げていたからだろう。これが戦争や占領下の傷跡がまだ色濃かった時期であれば、タモリのような芸風はおそらく人々に拒絶されたはずだ(よくタモリの原型などと評される芸人のトニー谷が結局、異端のまま表舞台から姿を消したのは、そうした時代背景もあるのだと思う)。

 このようにタモリの経歴は何かしら戦後史に重なり合う。いや、何より、これらの芸を引っさげてタモリが、誰か特定の芸人の影響下や師弟関係の中から登場したのではなく、芸能界とはまったく別のところから突如として出てきたということ自体が、それまでの歴史を断ち切られて始まらざるをえなかった日本の戦後史そのものではないか。ひょっとしたら、タモリがレイバンのサングラスをかけてブラウン管に登場したのは、おなじくレイバンのサングラスをかけたマッカーサーの日本への進駐から始まった戦後に続く、新たな戦後――いうなれば「戦後・後」のはじまりだったのかもしれない。その意味では、冒頭にあげた『ワラッテイイトモ、』の中で、『笑っていいとも!』の映像に東京大空襲やマッカーサーの進駐風景などの映像がインサートされたり、マッカーサーの顔がタモリの顔にモーフィングしたりするのは圧倒的に正しい。

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 ところで、昨今のこうしたブームに触発されたのかどうか、ここへ来てタモリを題材にした小説が発表された。『文芸界』9月号に掲載された六ヶ所龍太郎の中編「交錯機械」がそれである。六ヶ所龍太郎といえば、今年はじめ、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』や高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』、島田雅彦の『優しいサヨクのための嬉遊曲』、村上春樹の『ノルウェイの森』などといった80年代を代表する小説の作品世界や設定を大胆にも流用したり交錯させたりしながら1989年を描いた長編「TVオレンジ」(『渦潮』2月号。渦潮新人賞受賞)[注4]でデビューし一躍脚光を浴びた新人だが、「交錯機械」はそれに続く作品である。

 本作では1966~67年の東京を舞台に、ある大学――名前は出てこないが、あきらかに早稲田大学――に通う二人の男子学生のすれ違いが描かれている。二人のセカンドネームはともにモリタという。二人が出会う……というより初めて視線を交わすシーンは次のようなものだ。

《左頬にほくろのある長身の男がアジ演説を行なうのを、おれはただぼんやりと眺めていた。男のまわりを何重かの人垣が取り囲んでいたが、なにせおれは片方の目が見えないので自分とその男との距離感をつかむことができない。しかし彼がときおり聴衆をあざ笑うかのように発する「グフグフ」という声だけはやけにはっきりと聴き取れた。おれはその声を耳障りだとは思いつつ、しかしそれを聴いているうちに、いつのまにかそれを忠実に真似していたのだ。「グフグフ」。と、おれが口を開かぬまま鼻から吐き出すように小声で笑い声を発したとき、斜め前にいた学生服を着込んだやけに童顔の男が振り返り、おれに向かってにやりと笑った》

 主人公である「おれ」――モリタ・カズヨシ(いうまでもなくそのモデルは若き日のタモリだ)と、その「やけに童顔の男」――この作品におけるもうひとりのモリタであるモリタ・マサカツは、その後も何度か学内や街角ですれ違うことになる。しかし最後まで彼らが会話を交わすことはない。それなのに、「おれ」は、なぜか学内や街で相手と接近するたび、その声に過敏なまでに反応するようになる。たとえば学食で、かなり離れた席にいるにもかかわらず、相手がボソッと「うみゃあ」と漏らすのを聞き逃さないで、それをそっくり真似して「うみゃあ」「うみゃあ」とうれしそうに何度も繰り返す、といった具合に[注5]。さらには、ある時、飲み屋でマサカツが一緒に飲んでいた仲間から「マサカツ」と呼ばれたのに対してすかさず「ヒッショウと呼んでくれ!」と返すのを目撃した「おれ」は、「マサカツ」と「ヒッショウ」という二つの名前がどうにも結びつかず(結局、彼が「マサカツ」を「必勝」と書き表すことを知るのは大学をやめてからである)しばし戸惑うことになる。しかしそれを彼は、《おれだって(引用者注:所属するジャズ研究会の)バンド仲間から「タモリ」と呼ばれることがあるんだから、まあ人それぞれいろんな事情があるんだろうなあ》と妙な納得の仕方をしてしまう。

 さて、もはや言うまでもなく、この作品の中に登場するモリタ・マサカツとはあきらかに1968年に三島由紀夫が結成した「楯の会」のメンバーで、その二年後には陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地で三島とともに自決を遂げることになる森田必勝がモデルになっている[注6]。森田必勝はタモリとおなじく1945年生まれ。二浪したものの1966年には早稲田大学に入学しており、在学時期もほぼタモリと重なる。ただし、タモリは大学を中退し、1968年には郷里・福岡に戻っているので、「楯の会」に入ってからの森田必勝とはすれ違ったことすらないはずである。そう考えると、彼らがすれ違う可能性があった時期はほんのわずかだ。この時期は60年安保闘争と全共闘運動などに代表されるいわゆる「68年革命」とのちょうどはざまにあたるが、ひょっとしたら「交錯機械」の作者は、小説が劇的になることを避けるため、あえて「戦間期」ともいえるこの時代を舞台に選んだのではないか? そんなふうに思うのは筆者だけだろうか。

 これがたとえば「68年」が舞台であれば、小説はかなり劇的なものになるだろう。なにせ新宿のジャズ喫茶「ヴィレッジ・ヴァンガード」では、それぞれ早番と遅番の店員としてビートたけしと“連続射殺魔”永山則夫がすれ違っているわけだし、この店には若き日の中上健次や坂本龍一が出入りしていたことも十分に考えられる。これらの人物たちの交わりを描くだけでも、それなりの物語ができるに違いない。しかも街頭や大学では毎日のように学生と機動隊が闘争を繰り広げていたのだ。そんな時代を背景にして劇的にならないはずがないではないか。

 いや、たしかに全共闘が出現する以前、1966年~67年にも、すでに早稲田大学では学費値上げ反対などをめぐって学生が大学側と闘争を開始しており、その構内にもバリケードなどが築かれてはいた。しかし少なくとも、六ヶ所龍太郎はこの作品において「闘争」やら「政治」やらを直接的に描くことを周到に避けているような印象を受ける。冒頭シーンのアジ演説にしても単なる一エピソードとして使われているだけだし、タモリや森田必勝以外にも久米宏や田中眞紀子、吉永小百合などのちの有名人が多数登場するが、彼ら/彼女たちにしても、ただおなじ時期に早稲田に通っていた学生たちという理由だけで、データベースからそのまま引っぱり出してきたようなキャラクター設定と描かれ方しかされていない[注7]。ストーリー自体も淡々とした語り口で進められ、特にこれといって劇的なことは何も起こらない。つまるところ、この小説で作者は政治闘争といった「大きな物語」を拒否し、ひたすらエピソードやデータやトリビアの集積であることに努めているのだ[注8]。よって過去に対するノスタルジーや感傷ともこの作品はほとんど無縁である。

 とはいえ、わずかながら主人公が感傷的になりかける場面もあるにはある。それはラストのこんな場面だ。大学中退後、福岡で保険外交員として働いていたころに三島事件の報を受け、マサカツが「森田必勝」であることを初めて知った「おれ」は、のちにタレントとなって全国ネットの正午のバラエティ番組の司会を務めることになる。彼は時々、番組の始まる直前になると「あいつ」のことを思い出すという。そしてつい、あの日、市ヶ谷のバルコニーに立ちながら「観衆」からさんざん野次られたあげく、正午を待たずして奥へと追いやられた「あいつ」と自分を重ね合わせてしまう(その当時、もはや彼は「あいつ」とすれ違うことなどなくなっていたというのに!)。しかしすぐにその思いを断ち切って、「おれ」はいつもとおなじようにスタジオへと向かうのだった――。

 なんだかこのラストは、三島由紀夫の自決のニュースに無関心を装う主人公たちを描いた村上春樹の『羊をめぐる冒険』の冒頭シーンを彷彿させたりもするが、三島と森田必勝のあの事件こそ、1972年の連合赤軍事件とともに日本における「大きな物語」の時代の終焉を告げるできごとだったということはよく言われることである。そんな事件と、放送開始以来20年以上続くあの昼のバラエティ番組とを一瞬はオーバーラップさせつつも、作者はすぐさま番組の司会者である「おれ」にその思いを断ち切らせることで、やはり感傷をしりぞけている。こうしたラストシーンは、「大きな物語」に背を向け、毎日相も変わらず延々と続くあの番組に象徴されるような「現在」を示しているのではないだろうか。

 最後にもうひとつ、この小説の特筆すべき点として、物語が終始、左目にしか視力を持たない話者の視点から語られているということをあげておかねばなるまい。これは話者である主人公の「おれ」に、そのモデルであるタモリが幼少時に不慮の事故が原因で右目を失明しているという事実を忠実に反映したことによる設定だ(だが、そのせいかどうか聴覚は異常に発達している)。そのため、先に引用した箇所にもあったように、この作品には《なにせおれは片方の目が見えないので自分とその男との距離感をつかむことができない》といった文章が頻繁に出てくる。また、距離感が上手くつかめないことから描写はおのずときわめて平坦なものとなっている。たとえば「おれ」の目からは、背景の奥行きがあまり感じ取れないため、本来なら背景よりも前面に置かれるべきモノや人物もほとんど背景と同化しているかのように描写される箇所がある、といった具合に。これはスーパーフラットといった言葉を持ち出すまでもなく、自分の仲間以外の人間が街を歩いているのを見てもただの風景としか捉えられないような90年代以降の若者たちの感覚にきわめて近い。というよりも、六ヶ所龍太郎は、現在の若者たちの感覚を隻眼の話者の視覚に代替させて60年代半ばを描いたといったほうがいいかもしれない。

 このように六ヶ所龍太郎の「交錯機械」はタモリを媒介にして、戦後と戦後・後と、そして現在とを描いたものだった。いや、この作品のみならず、昨今のタモリについての論考の多くは先に書いたとおり、彼を通して戦後60年間の日本の姿を見出している。それは一体なぜなのか? 突き詰めて考えてゆけば、この疑問に対して、彼が単に終戦から一週間後に生まれているから、と答えるだけではもはや収まらないであろうことはたしかだ。

[注1]同作品の作者の名はK.K.という。同賞の審査員のひとりで、『ワラッテイイトモ、』を「おそるべき怪物」と評した五十嵐太郎は次のようにこの作品を要約している。《フジテレビのお昼の看板番組「笑っていいとも!」をサンプリングし、リミックスしたものだ。そしてタレントのタモリに焦点を当てながら、作家自身も登場する「日記」的な映像の体裁をとる》(「白昼の怪物」、『10+1』第23号、INAX出版、2003年)。このほか、同作品については『群像』2003年9月号に掲載された椹木野衣のレビュー「このうすら寒い夏の正午に」でもくわしく紹介されている。

[注2]これらのCDには、新たにライナーノーツも付され、解説もなかなか充実している。特に筆者が関心を持ったのは、『タモリ2』解説での、同アルバムが当時話題を集めていた小泉文夫の歌謡曲論から影響を受けているのではないかという音楽学者・松田慧による指摘だ。たしかに、ピンク・レディーの楽曲とわらべうたとの旋律の類似などを見出した小泉理論は、このアルバムでタモリ扮する中洲産業大学の森田一義助教授が展開する「ひとつの旋律が各国の様々な音楽に見出される」という“学説”によく似ている。

[注3]「四ヶ国語マージャン」は、日本人が日本を異化して見せたという意味で、外国人から見た日本のイメージを逆説的に利用して世界進出を目指したYMOなどに先駆けたものだともいえるだろう。

[注4]この作品は当初「1989年のなんとなく、透明に近いギャングたちのための嬉遊曲」という人を食ったタイトルだったが、あまりにも長ったらしいとの理由で担当編集者から現在のタイトルに直されたらしい。

[注5]ここで古くからタモリを知る人なら、彼の有名なネタである「名古屋差別」を想起することだろう。ただし、森田必勝は三重県四日市市の出身なのだが、どうもこの地域は名古屋の近郊のせいか方言も比較的名古屋弁に近いようだ。事実、中村彰彦による森田の評伝『烈士と呼ばれる男』(文春文庫、2003年)にも、彼が同県人の仲間とともに食事をしていて「うみゃあ」と感嘆する場面がある。

[注6]森田必勝は1945年7月25日という敗戦も間近い時期に生まれているが、その名は、彼の父親が平和への願いを込めた「平和(ひらかず)」にするか、あくまでも戦争の勝利を願う「必勝」にするか迷った果てに選んだものである。しかし、いま本稿を書いていて気づいていたのだが、彼の名の本来の読みである「マサカツ」をカタカナ表記にして眺めていると、「マツカサ」と敗戦後に進駐した連合軍の最高司令官の名前のアナグラムにも読めてくるから不思議である。さらに不思議なことには、「マツカサ」は、アルバム『タモリ3・戦後日本歌謡史』でも、タモリ扮する元帥の名前として(もちろんマッカーサーのもじりとして)登場するのだ。そう、マッカーサーとタモリのあいだには何と、モリタ・マサカツがいたのだった……!?

[注7]ちなみに本文で引用した箇所に登場する「左頬にほくろのある長身の男」とは久米宏がモデルだと思われる。

[注8]とはいっても、これは六ヶ所の前作「TVオレンジ」も同様で、ストーリーの本筋からはかなりずれたエピソードやデータ、トリビアが随所にちりばめられているほか、書ききれない分は何百もの注釈として付され、本文と注釈の区別もままならないような状態で、読むにはそうとう困難がともなう。しかし本文よりもその注釈のほうが面白いというファンもかなりいるとかいないとか。

 (初出:『月刊アンビバレンツ』2004年12月号)

 (本当の初出:『Kluster』Vol.1、モスコミューン出版部、2003年11月/石神国男名義で発表)

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