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ウイスキーの図書館

 九州で仕事があって、その帰り、時間の都合がつけば博多まで足を運んでいそいそと扉を開ける店がある。赤坂にある「さきと」だった。過去形にしたのは大将が身体の調子を崩してしばらく休むとの連絡があったからだ。
 
大阪で会社の役員を務めていた友人が無事退社となり、故郷の福岡へ戻ることになった。大阪の飲み屋で会っていた顔が、「さきと」で会うようになった。その彼に教えてもらったバーが「さきと」のすぐ近所、親不孝通りから1本入った小路にある「バー・キッチン」だ。
 扉を開けて店内に入ると思わず足を止めてみとれてしまった。10メートル弱の一枚板の銀杏のカウンターが走っていて、その向こうに何千本ものボトルが並んでいた。バックバーのボトルのほとんどがウイスキーで、その光景は図書館を彷彿させた。新旧の背表紙が午後の淡い陽射しに白く縁取られながら手にとってもらうのを寡黙に待っている。午後の陽射しが照明に、書籍がボトルに代わっただけで、本好きが新しい書物の出会いとことばの発見を想像して胸を高鳴らせるように、この店では酒呑みが、まだ知らない味わいの1杯に出会えると胸を高鳴らせて止まり木に座るのだ。はじめてのときのわたしがそうだった。一瞬で心は開いて、昂揚を抑えることはできなかった。
 都会の店にはインテリアやみせびらかしのための収集、あるいはウイスキーの高騰をいいことに高値をふっかける店も少なくないけれど、「バー・キッチン」の岡さんにはそんな不遜は微塵もない。おいしいウイスキーを呑んでほしい。ウイスキーの多彩な世界を味わってほしいという想いがあるだけだから、わたしのポケットマネーでも十分に学習にいそしむことができる。ウイスキーの深く、美しい世界へ惑溺していける。「バー・キッチン」をウイスキーの図書館と呼びたい理由はそこにある。もちろん岡さんが琥珀の司書であることはいうまでもない。