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音楽に共感は必要なのか。

 時代の流れに従ってサブスクリプションサービスを利用しているからか、今まで疎かったヒットチャートに一通り目が届くようになった。食わず嫌いをしないことをモットーとしているので一度は聴いてみるものの、なかなか趣向に合うものが見つからない。結局、尾崎豊やThe Beatlesのプレイリストばかりを聴いている。

 同僚や知人にそういったヒットチャートのどのようなところがいいと思うのかを興味本位で聞いてみると(図らずも、僕がシニカルにそれを尋ねていると誤解されてしまうことが悩ましい。)〝共感〟できる、といった意見がよく表出してくる。世間の潮流として、「音楽に共感を憶え、繰り返しそれを噛みしめる」といったプロセスをもって音楽を楽しんでいる様だ。

 僕が感じた違和感の正体は、「共感性」と「ありきたり」の類似性にあった。僕にとって、「共感」できてしまう音楽(=その詩)は、どうしても「ありきたり」だと捉えてしまう。例えば、最近の定番である多くの失恋ソングでは、パートナーを失った自分を憂いたり、パートナーを噛みしめる様な表現が連呼される。その中に、ハッとさせられる表現は殆どない。誰もが一度は思い、感じたことが羅列されるばかりである。そのような〝再認識〟は、たとえその曲と出会わずとも、自己で辿り着けるのではないかと思う。

 思うに、アーテイストにとっての必要条件は世界観が確立しているかどうかである。尾崎豊の「I LOVE YOU」に記された、諦念に似た愛情表現はやはり唯一無二であり、またそこに彼の確かな世界観を感じる。尾崎豊が残した音楽に、〝共感〟できるものはそう多くない。しかし、それを繰り返し鑑賞し続けることで、彼に内包された哲学を垣間見ることができる。音楽とは、ファンやオーディエンスの為の商品ではなく、アーティスト自身の為にある自己完結の表現方法であって欲しいと思う。

 共感を生む楽曲は、世相を射てある程度売れるだろう。このような楽曲が乱立している現状は、サブスクリプションサービスやIoT社会に起因すると思う。「音楽の消耗品化」とも言うべき、量産型音楽の台頭である。TIKTOKやリールに合うようにポップなメロディーに乗せる、パッケージを意識して3分程度に収める、というような「妥協作品」を生み出さざるを得ない構造がアーティスト達をじわじわと苦しめているのではないだろうか。(それにやりがいを感じているアーティストを否定している訳ではなく、高度にマネタイズされた「売れる音楽」を作り出した商才はやはり賞賛に値すると思う。)

 そのような構造の中、確かな世界観を提供してくれるアーティスト達が僕は好きだし、応援していきたいと思う。

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