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おじいちゃんの手記。戦争の記憶

8月15日は終戦記念日なのだという。
終戦記念日。
そうは言われても正直な所、これまでの私には何の感慨もなかった。
毎年8月になると戦争関連の話題がテレビや新聞の中で増える。30代の私にとっては、残念ながらその程度の実感しかなかった。

ただ、この文章を読んでから少し考えを改めた。

これは、私の祖父の手記だ。約70年前に本当にあった出来事。

* * * * * * * * * * *  

あの頃、私は第46教育飛行隊及び旧第27練成飛行隊の隊員だった。愛機は98式直協偵察機。私は、この偵察機に無線通信手として搭乗していた。

(写真:98式直協偵察機。wikipediaより)

昭和17年2月15日にシンガポールが陥落し「昭南島」と改称した後、我々はマレー半島、ビルマ全土を転戦した。

詳細の日時は分からないが、あれは昭和18年のことだった。マレー半島上空に敵機10数機が来襲するのを発見した。「直チニ迎撃セヨ」と無線で発信した後、私はすぐに基地に戻った。

仲間の航空機が撃墜されたとの一報が入り、直ちに救助の命令が下った。それは壮絶な空中戦の死闘だったのだと聞く。また途中の山には多くのゲリラ兵が出没するとの情報があり、十分注意するようにとの命令があった。すぐに班を編成し、2台に分乗したトラックに機銃を装備し出発した。
マレー半島を南下し、午後にクアラルンプール派遣隊に到着し休憩。夕食後に墜落の確かな報告を確認し、午後10時頃に同地を後にした。

深夜であったことが幸いだった。ゲリラの標的にされることなく、翌日午前7時頃に現場付近に到着した。(どうか生きていてくれ…)と何度も仲間の無事を心の中で祈り、急な山道を徒歩で1時間程登った。

昼間も暗い、ジャングルの山道である。歯を食い縛って登り、前に進んだ。途中敵機の残骸もあったが目もくれず、仲間の航空機を探した。

やがて機体を発見して、唖然とした。壮絶なる戦死である。
敵機に後方から撃たれ、僅かに我が隊のマークが尾翼に残っていた。大木に接触した痕跡がありありと眼につく。エンジンを発見してさらに登ると、右翼が折れて落ちている。さらに登ると、機体が土深くにめり込んで、尾翼を残して炎上している。

それは、眼を覆う惨烈な光景だった。
戦友5名の死体はバラバラで、頭も首も千切れ、手足も四方に散っていた。なんとか集めてやりたいと涙ながらに探すが、四肢のすべては見つからず、我々は諦めるしかなかった。

操縦していた戦友は、何とかして着陸したかったのだろう、操縦桿をしっかりと握り締め、一点を見詰めて焼死していた。私はただただ呆然として手を合わせ、深く頭を下げた。明日は我が身、との思いが胸にこみ上げる。

戦友のあの最期の姿は脳裏に深く焼きつき、今でもはっきりと記憶している。

我々は戦友の屍を集めて火葬にし、遺骨を集めて帰隊した。
トラックは悲しみの中、静かにゆっくりと走り、基地へと向かった。道端で鳴く虫の声も心なしか淋しく聞こえ、悲しさが増した。

昭和20年。終戦を迎えた私は、無人島に抑留の身となった。同年11月20日にシンガポールの昭南港から英軍のリバ艇で出港。
不安の中でレンバン島に到着した。赤道直下の無人島である。
桟橋もなく、全員が海中に飛び込んで上陸した。

海岸線の岸辺にはガジュマルの樹の根が張りつめていたので、伏して歩く。頭を打ち、膝を痛め、苦労の末に上陸した。高地へ高地へと湿地帯を避け、ジャングルの中で住処を作ることになった。時計もなく、刃物もない中で枝を折り、草木を倒し、草を敷き、雨露を凌ぐ寝床を作る。これが地獄の餓死生活の始まりだった。

夜は南十字星を眺めて故郷を想い、大声で泣いている人もいた。
昼間は空腹を抑え、ふらつく身体で毎日を過ごす。
空腹の中、道路を作り、木の皮で魚を採る網を編んだ。海辺に海草や海ごぼうを採りに行くのが日課だった。飯盒に海水を入れて煮詰め、塩を作った。タピオカやサツマイモ等を自作し、食糧を確保しなければならなかった。仲間とはいつも食べ物の話ばかりしていた。
火は最も大事だった。原始人のように木をこすり、火を起こした。消されないように風倒木を集めて燃え続けさせた。

抑留開始から4ヶ月程たった頃だと思う。初めて食料が支給された。
1日分として米1合5勺とタラの干物2枚。携行食糧(レーション)のアルミニウムの弁当箱に入れ、英軍が支給してくれた。彼らの1食分を3食に分けて食べたが、これが唯一の救いだった。
普段は盃に3杯、木の葉や野草を入れて雑炊を作った。蟻や虫等の生き物は捕らえて食べた。蛇は早くて駄目だ。鳥が落とす実を見つけたが、栄養失調のためか腰が立たず、這って拾い上げた。
寝ても覚めても食べることばかり考え、皆で話し合った。

酷い栄養失調で赤痢やマラリアに罹った戦友が何十人も死んだ。
ある日起きると、隣に寝ていた戦友が死んでいた。倒木を集め、火葬を行った。涙も出ず、明日は我が身と思い冥福を祈った。

自給自足を強いられ、月日も分からず、時間も分からない。
飢えとマラリアに耐え、私はなんとか抑留生活を生き延びた。

後日、我々が抑留されたレンバン島は第一次世界大戦時にはドイツ兵が強制収容され、マラリヤと飢えのために3000名全員が死亡した「悪魔の孤島」と呼ばれたことを知り、戦慄を覚えた。

昭和21年5月21日。ついに我々は地獄から脱出することとなった。抑留開始から約半年が経っていた。
摂津丸に乗船し、出港。船中では幾人かが集まって俳句・短歌の句会を行った。いつ祖国の土を踏むかと、心は夢ばかり。

やがて広島の大竹港に到着した。辺り一面焼け野原で「ここが祖国か」と驚き、感動し、涙で霞んで山も街も見えなかった。上陸を待つ間は「日本に帰って来たのだ」と自分に言い聞かせる程に感無量であった。

私は、第46教育飛行隊及び旧第27練成飛行隊の隊員として愛機98式直協偵察機に無線通信手として搭乗した。
生存者も少なくなった今だからこそ、あまり知られていないこの体験だけは語り継がなければならない。二度と戦争を繰り返さないためにも…。

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この文章は、祖父の手書きの文章を書き起こしました。旧仮名遣いや難しい表現は現代的な表現に置き換えましたが、ほぼ原文のままです。

祖父はとても明るい人でした。いつも孫の私たちと一緒になってふざけては、祖母に叱られていた。この手記を読むまで、このような体験をしていたなんて私は微塵も知りませんでした。

祖父は、昨年亡くなりました。晩年はあまり会えず、話す機会も少なくなっていたことを今更ながら深く悔やんでいます。
思えば、ひ孫(私の息子)が1歳になった頃に連れて会いに行ったのが最後でした。あれが最後になるとは、あの時は思っていなかった。

私には右とか左とか特別な思想はありません。
ただ、戦争は怖い。
人が死に、飢えに苦しむ戦争は、二度と起こってほしくない。

遠い世界の物語ではなく、両親の両親の世代には現実として起こっていた戦争。「語り継がなければ」と結んだ祖父の思いを遺したくて、2018年8月15日、平成最後の夏、73回目の終戦記念日に間に合うようここに記しました。

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