質問(22/5/20講義)① ※追記あり

真彦:哲学探究3 連載第2回/段落15について。
〈現在〉は、端的に現実に現在が実現しているということだけを指していて、無内包であるのだから、それに独特の「特性」はあってはならないのではないか?(「特性」も内包であると考えられるので。)
つまり、〈現在〉については、(「端的に現実の現在であること」以外の)「(独特の)特性」は「無内包であること」と相いれないのでは?
また、《現在》は、無内包の〈現在〉という在り方そのものをそのまま内包化したものであるから、《現在》もまた(「無内包であること」自体を内包として持つこと以外には)内包はないはずでは?そうすると、例として挙がっている「それだけがじかにありありと実現しているという感じ」といった現在感のようなものは、《現在》の内包でもありえないことになるのではないか?

永井:「〈現在〉は、端的に現実に現在が実現しているということだけを指していて」と言ったとき、すでに「現在」という内包(独特の特性を指すことば)を使っています。無内包なのは〈〉のほうです。
〈私〉も同じで、無内包なのはその〈〉だけです。そうでないと〈現在〉と〈私〉の違いも表現不可能になってしまいます。

※関連リンク「哲学探究3 第2回」

真彦:なおわからないところがあったので、改めて質問です。
〈私〉についても〈現在〉についても、無内包なのはその〈 〉だけであるならば、〈 〉の中の”私”や”現在”は有内包であり、したがって、それが〈 〉と結合した〈私〉自体、〈現在〉自体は、精確には、(端的だが)有内包であることになるはずだと思うのですが、〈私〉や〈今〉が無内包として扱われているところは随所にみられます。(例えば第2回第6段落。また、〈私〉という言い方ではないが、それに相当するものとしての”心”、”意識”についての第3回第8段落、など。)
この点について、以下のように考えたのですが、誤り、見当違いなどあればご教示いただきたくお願いいたします。

【〈私〉〈現在〉は、あくまで《私》《現在》との対照において考えられるものであり、そして、その対照において、両者には内容についての差異はなく、〈私〉〈現在〉は、《私》《現在》にいかなる内容も付け加えない。つまり、《私》《現在》が在るところに〈私〉〈現在〉が生じても滅しても、内容的差異は生じない。その限り、〈私〉〈現在〉は無内容・無内包だといえる。
しかし、《私》《現在》との対照という局面を離れて、〈私〉自体、〈現在〉自体を考えた場合、それらは端的な現実ではあるが、「私」「現在」という内包・特性、および私・現在に特有の内包・特性(現在感とか)をもつのであって、有内包である。】

永井:〈私〉についても〈現在〉についても、無内包なのはその〈 〉だけで、〈 〉の中の”私”や”現在”はもちろん有内包です。それが〈 〉と結合した〈私〉、〈現在〉は、それぞれ、”私”が〈私〉になる〈〉の働きが、”現在”が〈現在〉になる〈〉の働きが無内包なので、〈私〉や〈現在〉は無内包なのです。その際、”私”や”現在”というそれぞれの意味内容に内包があるのはあたりまえのことです。そうでなければ何の話をしているのかもわからないでしょうから。
もしこれと同義であるならば「この点について、以下のように考えたのですが、…」以下に書かれていることは正しいといえます。

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