質問(22/5/27講義)①

ぷらにつぁーちぇり:前回・今回の講義で出てきた人称・時制だけで成り立つ共通点が2つに限定されるのは、どの程度普遍的に言えることなのでしょうか?
例えば、もし人間が複数の様相を観測できるような仕組みを持てていたら・持つ手立てを入手すれば、言語の側が変化してしまって、様相概念を理解するために<現実>が必要になる、というように言える対象が増えうるものなのでしょうか?あるいは、そのように増えることができないものなのでしょうか?

永井:できるのではないでしょうか?
しかし、これは極めて高度な質問なので、私にはそれ以上は答えられません。ぷらにつぁーちぇりさんご自身の研究に期待いたします。

JUN:「いつやるの?今でしょ」における「今」は発話時ではなく聞き手における端的な現在を指示するように見えますが、これはどのように説明できますでしょうか?

永井:それは、一般的な今(その時点におけるその時点)と解釈することが可能ですね。「今に在る」ことの重要性を説く人生論なども同じです。(たまに、禅僧などがその二つの意味での「今」をわざと?混ぜてわけのわからないことを言って見せることがあるので注意が必要です。)

晃太郎:私の口が「今声が勝手に出ている」という音声を発したとき、私はふざけていると見做されるでしょう。一方で、「今は私が話している」という発声は正しいとされると思います。どちらの場合も(少なくとも他人からは)真相は検証不可能ですが、前者は失格して後者は見過ごされるという非対称性があります。
つまり、形而上学的真理とは無関係に「聞こえのいい」言明があるということになります。〈〉は無寄与成分であるはずなのに「私は〈私〉である」ばかりが正しいとされる(「私は〈私〉でない」はおかしいとされる)ことと、声の事例には何か関係がありますか。
「今は私が話している」は「今声が勝手に出ている」との対比においてはふつうに有意味な発言ではないでしょうか。「今私は頭が痛い」などと同様に。対して、それと同様に「私は〈私〉である」は「私は〈私〉でない」との対比において普通に有意味な発言であるとは言えないように思われます。

永井:おそらく、前者は第〇次内包の問題で、後者は無内包の問題だから、だろうと思われます。

TADA.:本日の講義で先生がおっしゃった、無内包が何の特徴もない、ということが、次の2パターンに言えそうだと感じました。
①〔恣意的な〕定義である、②そこから全てが始まるという特徴のみがある、と2パターンに言えそうに感じましたが、これは、間違った認識でしょうか?
もし仮に、上記が間違った認識ではないとすれば、永井先生が、無内包について、①ではなく、②の解説を敢えてするのは、永井先生ご自身の信仰によるものでしょうか?
であれば、無内包についての①の立場から、「無内包からは、全てが始まる『べき』でしょうか?」と問うことは、反キリスト的(=異教徒的)な行為でしょうか?
上記を、公共哲学の問題に近づけて言い換えれば、言葉のdecencyは、キリスト教の専売特許でしょうか?

永井:おそらく、「無内包」という問題について、まったく違う理解をしておられると思われます。ともあれまずは文庫版の『なぜ意識は実在しないのか』を細部までひたりついて読んでいただきたいと思います。

※関連リンク「哲学探究3 第3回」


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