それはただの無責任な情報だ

例えば誰かが恋愛で悩んでいたとする。
誰もが好き勝手にいろいろなことをアドバイスする。
それらはたまたま悩みが誤魔化されたものであったり、どこかで聴いてきただけのものであったり、雑誌の恋愛相談に載っていたものの受け売りかもしれないし、実は適当なのではないか?
情報をなんとなくストックしていて無責任に悩んでいる人にいう。
まあ気軽で無責任だから言えるんだよね。
アドバイスしてあげた感で気分よくなれることもあるかもしれない。
それは悩む人のためではなく、アドバイザーの自己満足のためである。
悩む人は、藁をもすがる思いでいるので、それとも解らず全部聞き入れる。
そんな情報群に縛られ雁字搦めになり、自分はなくなり、どうしていいかも解らなくなる。
だってなんの思索も検証もないただの情報を信じているんだから。

恋愛で悩む、、、、とは?
では恋愛とは何か?
恋と何か? 愛とは何か?
悩むとは何か?
なぜ人間は悩むのか?
悩むことの本質は何か?
生育歴が関係あるのか?
ん?生きてきたということ?
生きているから悩むとするなら、生きるとは何か?
人間が生きているとは何か?
それはどういうことなのか?
などと深めるとか、、、、、
たとえば、、
恋愛の心理とは何か?
悩むことの心理とは何か?
その悩みの深層心理は何か?
あるいはどんな脳内物質が分泌されて、それは心にどんな作用するのか?
ああ、その作用はこんな心境になることなんだな、、
と知識と体感をみつめるとか、、、、

などと深く思索し経験し知識となり、悩みの正体がつかめたなら悩みから自由になれる(かもしれない)。
でもそのことをアドバイスとして他者に言っても伝わらないと思う。
だって、自分がどれだけの時間をかけて思索し、どれだけ回り道をして、どれだけ経験して恋愛の悩みから解放されたかなんて言葉では伝えることができるとは思えないんだもの。それは自分の感覚でたどり着いたのだから。
しかも自分自身でも解放されたかどうかも解らない。思索も経験も失敗もゆえの知識もどこまでも未完了であり、完成することも完了することもないんだから。
今ここで恋愛で悩んでいる人に簡単に無責任に言って分かるようなことじゃないことははっきりしている。
それは自分でしか解らないことなんだから。
だから軽薄な情報によるアドバイスなんてできないし、意味がない。
むしろ知識であれば、知識があるゆえに他者には言わない。
恋愛の悩みでなくても、何においてそうだろう。
同じである。

ところが、この社会はそんな「情報」で溢れている。
情報が脅迫的に迫ってくる。
悩め、悩むべきだ、、と迫ってくる。
やれこうすると危ない、ああすると将来がないなど。
不安を煽り、情報の鵜呑みを迫る。
多くは少しの思索も検証も経験もなく信じ込む。
ただ信じ込み不安になり、自らで自らを縛ろうとする。
情報を信じ込んだ不安を自分だけでもっていることに耐えきれず、他者を不安に引き込む。
この情報は(自ら何も考えてないけど)本当なんだから、一緒に不安になってほしいと。
他者を不安に巻き込むことで安心したいんだ、、と、ね。
そうでなければ商売だな。マッチポンプである。
でしょ、不安ですよね、これを買えば救われますよ。
これさえやっておけば、万事OKです。
さあ一緒にやりましょう。
何?これだけ言ってもまだ信じない。
あなたは地獄へ落ちるでしょう、、、

と、ここまで言えばさすがに多くは眉をひそめるかな。
でも、じゃあ気軽な恋愛のアドバイスと怪しげな商売との本質は違うのだろうか?
情報を垂れ流すということにおいては同じではないか?
お悩み相談室でこたえる相談員にしても似たようなもの。
ストックされた軽薄な情報でアドバイスしている者がやたら多いのだから。
情報をストックすることが「引き出しが多く善いこと」だと勘違いする。
それを「知識」豊富と勘違いするヤツのなんと多いこと。
もちろん、思索し知識にすべき情報もある。
でもそれが情報のままではやはり無責任であり軽薄なのだ。

情報を知識まで昇華できるか、知識を解放までもってこられるか?
結局はみずから思索、経験を繰り返し知識を積み重ね、自由になるしかないのではないか?

もし誰かが(恋愛で)悩んでいるならば、寄り添うことしかできないというのはこうした理由である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?