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写真を撮ることと「生きる」ことは似ているかもしれない

なんだか大袈裟な表題になってしまったが、カメラをもち森を歩きながらふと思ったこと。

今年の夏は蝶をたくさん撮ろうと考え、蝶を追いかけた。
季節が移りゆくとともにそんな考えが薄れ、本来の撮影に戻ってきているのを感じている。
森を歩き、感性にひっかかり思わず足を止めてしまった「生」や「光景」を撮りたいという本来に。

ここのとこ普段の生活のなかで、説明する気もおきないほどの細かいストレスが溜まっている。
そんななか、やっと森にいけるという朝にまたトラブルがおきた。
これも他愛もないトラブルなのだけど、イライラがまたひとつプラスされるままに森にたどりついた。
そのまま歩き始める。
木陰のかなり冷たくなってきた空気を暖かな木漏れ日が心地よいことを感じようとしているのにイライラに邪魔される。
気がつくと歩きはじめて40分、一度もシャッターを切ってない。
一所懸命に被写体を探している自分がいた。
探そうとすることの滑稽さは解っているのだが、必死にイライラと闘っていたののだ。
やはり被写体をみつけることができずに、ファインダーさえ覗いてなかった。
ただカメラをもってイライラしながら歩いていただけ。

そんな自分の吐息に呆れたとき、はじめて小さな白い花に気づいた。
今日はじめて足をとめた。
小さな白い花。
ファインダーを覗いているとやっと落ち着くことができた。
花を撮り終え、ふたたび歩きながら考えてしまった。
もしかして今日は思わず心を奪われる光景が少なかったのか?
それともイライラのせいで気づけなかったのか?
後者であることは考えるまでもない。
いったん考え始めるととまらない。
これは森を歩くときのことだけか?……普段生活では?。

これまでは、感覚のまま出会うことができていた森の小さな「生」やわずかな「光景」に出会えない。
イライラを抱えたまま歩くのでは気づくことができなかった。
はたしてそれは森のなかの生や光景だけだろうか?
普段の生活のなかで人の表情や言葉もしかりではないか?
生活のなかでふと立ち止まれるはずのことも気づけない。
知らぬ間にイライラしているからなのか?
と、こんなとこに考えに至ると逆もまたしかりなのか、と考えてしまう。
つまり、もしやずっと森の小さな生や光景に気づかない、生活での小さな表情や言葉が見えない、、、とすると、
それは普段からずっとイライラを抱えているからなのか?
小さな感動に気づかないのはイライラのせいで感性が麻痺しているから?
ここまで考えると流石に暴論かな、と目のまえに浮かんだ考えを両手でかき消すと笑えてきた。

やっと今朝の小さなイライラから解放された。
するととたんにいろいろな生や光景が目に入る。
気づくことや足を止める喜びを感じている自分が嬉しい。
いったん気づけば振り返る余裕ができる。
森のなかを歩きながら、ちょくちょく振り返るのも余裕があってこそだと、イライラから解放されたいまなら分かる。
振り返って目に入るものは、たんに「気付き」を見逃すということだけではなく、まったく別の姿となって現れるのだ。
歩く方向からでは見えない姿が、振り返る方向からは見える。
振り返らなければ気づかない。
こんな当たり前のことが新鮮に感じる。
一旦気づいたなら舐め回すようにその生や光景の一番を見つけ出す。
正面から上から、右左から裏から、どの距離が一番かどんな背景が最高に生えるのか、、、、
その生のもつ、光景のもつ、一番の「素晴らしい」をじっと見出す。
たとえ、たいしたことがないと思っても裏からみたら「素晴らしい」ということだってある。これは振り返ると同じだな。

すべてが移ろいゆく森のなかでは「今ここの輝き」を如実に感じる。
明日どころか、10分後だって変わってしまう。
今ここで一番輝いているは必ず在る。
小さなイライラに麻痺しがちな普段の生活のなかも同じかもしれない。
小さな輝きに気がつける感性、振り返る余裕、一番を見出す、、、愛?

森のなかを歩いて撮影するにしても、普段の生活のなかの気付きにしても同じだな。感じることができるそんな「生きる」であれば、満足して死んでいけるかもしれないと思った森の午後。

写真を撮ることと「生きる」ことは似ているのかもしれない。


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