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【読書感想】「文学こそ最高の教養である」を読んで

はじめに

こんにちは。読書米クラブ運営担当者です。
読書を趣味とする人に米で生活支援をするプロジェクトを運営すべく活動をしております。

最近の読書の中で、表題となっている「文学こそ最高の教養である」という著作物を読みました。Twitterでは簡易に感想をまとめてあげました。

この中で私は「為にならなくとも糧になるのだ」と肯定的な文言で感想としていました。その言葉は今でも、そうだと思えるものなのですが、それだけでよいのだろうか、という引っ掛かりの気持ちもありました。

その引っ掛かりの気持ちを言葉にしていくのに、多少は時間がかかりましたが、今ここにその詳細を書き綴っていこうと思います。

1.文学は最高の教養か?

この著作物の釣り文句である「文学こそ最高の教養である」から考えていきます。本書の中でも記載されている通り、「教養=実用的」と定義をするならば、文学という営みは教養であるとは言えないと思います。

私の生活実感として教養を定義するならば、「教養=みんなが知っておくべきことだよねという共通認識」となるでしょうか。これにも文学が条件を満たすとは思えません。プルーストの出版史について、誰かと話をしたことなどありませんし、『カラマーゾフの兄弟』がおもしろすぎてマジでぶっ飛んだわ、とか会話になったこともありません。

では、本書ではこの文言にどう回答を与えているのでしょうか。
下記の箇所がひとつの答えだと思います。

身も蓋もないことを言うようで恐縮ですが、すぐには役に立たないからこそ、極めて大切なものであり、教養として身に付けるべきものなのではないでしょうか。 P7 『まえがき』

ここで記述されているのは「教養=実用的でないが、知るべき何か」ということではないでしょうか。私はこの考えに賛同をしますが、これは文学に限らない話ではないかとも思うのです。教養として身に付けるべきは学問的な知の蓄積を尊重し、学び、伝えゆく基本的な構えではないかと考えます。

もちろん、文学も知的な営みの蓄積がある一つの分野であって、十分に尊重されて然るべきものだと思います。それと同じように化学も物理学も歴史学も政治学も「教養」として身に付けるべきなのだと思うのです。(例であげただけであって、これ以外にも学問的な知の蓄積を備えた分野はいくつも存在すると思います)

これらの学問的な蓄積は、世界記述の在り方を異にしながら、時代と共に相互に影響を与え合って発展をしてきました。文学もその一部であり、人の営みを記述する形のひとつに過ぎません。それでもそれは確かに存在するのです。

冒頭の表題に対して私としての回答を与えるならば、「文学は教養の一翼を担うものとして確かに存在する」といったところでしょうか。そして、この本はその教養としての文学の分厚さを存分に見せつけてくれる魅力を持った一冊だと思います。

2.文学の楽しみとは?

文学は最高の教養かしら、という問いを考えてきましたが、ここからは本書の中で語られる、文学の楽しみという側面をみていこうと思います。そして、私は何を楽しみとして文学に親しんでいるのかしらということまで考えたいと思います。

本書は14の文学的な著作物に関する対談によって構成されています。特に私が楽しく読んだのは「メルヴィル」に関しての箇所でした。このポイントを起点として、何がその楽しさを作り出しているのか考えようと思います。

・メルヴィルの解釈について

メルヴィルの「白鯨」に関して、その解釈について読み込みの幅が多様にありえ、研究者が「クレイジー」になっていくという箇所を私は楽しく読みました。少々長いですが、引用してみます。

解釈にすごい幅がありますね。資本主義に対する批判を読み込む、もちろんこれが全てじゃないわけで、歴史とか新批評とかグノーシス主義とかイデオロギーとか、さまざまなものが入ってくるし、芸術至上主義とは言いませんが、審美的な方角からの関わり方も当然出てきます。
私なんかは、最近のニュー・ヒストリシズムに近いものかもしれなくて、必然的に社会学的なアプローチが出てくるのですが、その方角から見ますと、デコンストラクション(脱構築)のような解釈法を採る人たちがクレイジーに見えますし、逆に我々みたいな形でやっている人もクレイジーに見えるのでしょう。 P362「謎の多い『白鯨』の著者が、巧妙に作品に隠した秘密とは」

この解釈の幅の大きさこそが、文学が持つ豊饒さの証ではないかと考えるます。そして、この解釈の幅が、文学が他分野の学問と呼応して豊かなその実りを結ぶことを意味していると感じるのです。

それが「クレイジー」へ地続きとなる人間を裏表から照射する人文学の愉楽なのではないでしょうか。「それって、あなたの感想ですよね?」の根本を掘り起こして、その木の根元に広がる豊饒な社会的な根っこを眼前に突き出す仕事として文学を見据えれば、その掘り手がいささかのクレイジーでなければ、その仕事に向き合えないのだとも想像されます。

もちろん、その文学の仕事は学問的な人文知に裏打ちされているのでしょう。ここで提起されているのは社会学的なアプローチであったり、資本主義批判のような経済学の領域からのアプローチだったりするわけです。

解釈の幅が、知的な血みどろの争いを生むことになるかもしれません。そんな先人たちの論争を尊重し、学び、その上に積み上げることが人文知に資する文学の教養のあり方のひとつではないか、そんなことを考えました。

3.私の違和感とは?

これまでの書きぶりからすれば、文学という知的な仕事に連なる愉楽として、教養の側面を肯定して、この本も存分に楽しんで、それでいいではないかという気もしてきます。

けれど、何かしっくりこないものがあるのです。そしてそれは、教養としての文学を考える先にあるものとは性質を異にするものではないかと思うのです。この違和感について最後に考えたいと思います。

違和感を拭えないこの不思議な感覚はどこから来るのか。これは自分の体験にその根があるように思えるのです。先日、ある古本市に行ってきました。秋には古本市がいろいろなところであっていいですよね。それはともかく。

私は立ち並ぶ本の群れに喜んで目を通していたのでした。そして、あることに気が付きました。人がいる割に静かすぎるのです。たぶん、古本市に本を見にきているのだから別に静かでいいのだ、図書館とかを見習ってみなさいと言われればそれまでなのですが、それでみんな本当に楽しいのかい? という疑問がわいたのです。

文学という知的な仕事が、社会の中にいきいきと内在している表象のひとつがこのような形でよいのか? その疑問が違和感の出発点だと思うのです。

ここまで考えて、私は始めから何か間違えているのではないかと思い当たりました。すなわち、前提から間違えているのではないかという疑問です。文学は役に立つものではないからこそ、学ぶべきという言い切りにその違和感が存在する気がします。そう言い切ってある領域に引きこもるような態度をとってしまうことの違和感、それが私の古本市での表象の問題と密接に関わっている気がします。

人文知を構築する知的な教養を育まんとする人たちが、同時に社会に開かれていきいきと生活を十全に楽しんでいるのか、それは知的な領域がある引きこもり状態になってしまっているのではないかという疑念でもあると思います。

疑念は形を取って、私の考えていることと[文学こそ最高の教養である」という言い切りとの差異を浮き彫りにしてくれたように思います。私はもっと「読書をする人たちが生活を楽しみながら、いきいきと社会に内在し、知的な領域の教養を育むようにしてもらいたい」と考えているのだと思います。

だから、文学は役に立ちません、と言い切って引きこもるような態度を肯定できないのだと思います。少しずつでも、自分からでも、読書を楽しみながら、文学という教養と戯れながら、同時に生活を楽しむことが生きることなのだと考えます。

それは例えば、散髪して髭をそり、身なりをできる限り整えて、靴を磨き、可能な限りのおしゃれをして、町に繰り出すこと。温かい光に身体をさらして、電車に乗って街に出かけること。マスクをしっかりとして、人混みの中を堂々たる足取りで歩いて、カフェに入って簡単にコーヒーを飲んで、少しだけ本を読むこと。本屋に寄って、好みの本を探して買い、また電車に乗って家に帰ること。周りの人間を尊重して、妻を愛し、一緒にきちんとご飯を食べること。仕事をできる限り全うして、夜は風呂に入って温かい身体でベッドにもぐりこむこと。そこに本が置いてあって、それを読んで眠ること。そんなことなのだと思います。

生活社会の中にいきいきと内在する読書の体験は分断された、孤立した文学世界ではありえなくて、延々と伸びていく生活の中でただあるものだと信じたいのです。

さいごに

本書を出発点とし、自分の思っていることを言語化できたように感じます。もちろん反論はあれど、自分は自分が思うような世界に資する活動・生活をしていきたいと思っています。本の紹介をするわけでもなく、本当に感想の文章となりました。もし、ここまで読んでいただいた方がおられましたら、御礼を申し上げます。

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