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台湾を旅できる小説ー読書感想#38「路」

ページを開けば台湾の風が薫る。吉田修一さん「路」(ルウ)は、旅をした気分にさせてくれる小説でした。台湾新幹線導入に関わる商社マンと、現地でこの事業に関わる若者の数年間を描く。人間の陰鬱さを描く名手である吉田さんだけれど、本作は爽やかな感動が味わえた。


グァバ畑、屋台の匂い

浮かび上がる情景がどれもいい。特にお気に入りがこれ。

 グァバ畑を濡らしたスコールは、結局十五分ほどで上がった。やんでしまえば、泣きじゃくった子供がとつぜん泣きやむように呆気ない。雨雲はどこへ行ったのか。グァバ畑にもあちこちに激しい陽が差し始め、同時に蝉の声が蘇る。(p72)

グァバ畑をさっと通り過ぎる雨。子どもの泣き声のように、始まっても嫌な気はしない。降り止めば、すぐさま蝉が鳴き始める。台湾は少し、南国の空気をまとった世界のようだ。その湿り気、熱気を描くのが吉田さんは上手。

出てくる食もいい。

 夜風を感じながら仁愛路を歩いていた春香は、大通りから食堂が並ぶ路地へ入った。狭い路地にはずらりと海鮮食堂が並び、海老でも炒めているのか香ばしい大蒜と香辛料の匂いが漂ってくる。(p64)
(中略)夜市はこれからが賑わいのピークらしく、あちこちの店から大音量で流れる音楽の中、どの屋台の前にも人だかりができている。人豪は人並みを掻き分けて、肉圓の屋台のテーブルについた。店主のおばさんに大声で注文すると、こちらを見もせずに手だけで応える。人豪は待ちきれずに割り箸を先に割った。(p242)

味の描写以前が豊かなのがいい。実際、異国の食は食べる前から美味しい。エスニックで雑多な匂い。驚くほどの賑わい。ちょっと汚れたテーブルや、適当そうな店員の振る舞いも、何もかもがワクワクを高める。

本作は、こうした情景をただただ味わうだけでもいい。どこにも出掛けられず気持ちが落ち込む。何もする気が起きない。そんな状態でも、「路」はやさしい粥のようにするすると読める。物語はプレーンで、人を選ばない。旅から遠ざかる今の世界で、穏やかな気分転換をさせてくれる。


時はこんなにもゆっくり

吉田さんの作品は「暗さ」が持ち味だと感じていた。「悪人」や「怒り」が最たるもの。人の陰鬱さをえぐり出し、突きつける。そのためのフラットで金属質な文体を魅力に感じていた。

その「暗さ」が本作ではスパイスの役割を果たす。ルーローハンに入れる八角のように、明るく穏やかな物語に違った風味を醸す。

たとえば、主人公の1人である多田春香。商社社員として台湾に赴任したのだが、日本に残した恋人の繁之の体調が思わしくない。忙しすぎるホテルマンの仕事に、心を病み始めているような気がする。とはいえ春香も繁之も若い。どちらかが仕事を放り出して、もう一方を頼る、これを機に・・・とはならない。

春香の上司の安西は、台湾新幹線の仕事そのものに行き詰まりつつある。妻との関係も悪い。単身赴任をいいことに、台湾の水商売の店に入り浸るようになる。

それぞれが小さな暗さの種を抱えるけれど、吉田さんはそれを大きく育てすぎない。むしろ、問題も希望もびっくりするほどゆったりと進む。

作品の章立ては「二〇〇〇年 逆転」から「二〇〇一年 着工」「二〇〇三年 レール」などを経て、「二〇〇七年 春節」で完結する。実に七年の歳月を経て、ようやく台湾新幹線は完成するのだけれど、春香や安西の人生も同じようなスピードで変化していく。単純に新幹線を作るのはそれだけ大変だという話でもあり、一方で、台湾という国は日本みたいにあくせくしないということでもある。

ああ、時間ってこんなにもゆっくりなんだなと思う。ゆっくりでいいんだな、と。今は1ヶ月が驚くほど長く感じる。この厄災はいつ終わるんだろうと。だけれど、まだ2020年は8ヶ月しかすぎてない。もう少し、もうちょっと、のんびり生きたっていいのかもしれない。読み終えて、ふうと一息つけた。(文春文庫、2015年5月10日初版)


次におすすめする本は

早瀬耕さん「未必のマクベス」(ハヤカワ文庫)です。本書の舞台は香港。「路」よりミステリー色が濃くなりますが、それでも描かれる情景が実に美しいというのは共通しています。「フェイクリバティー」というオリジナルカクテルも印象深くて、いまもたまに(実際に)飲みたくなる。


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