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自分の靴を脱ぐーミニ読書感想『他者の靴を履く』(ブレイディみかこさん)

ブレイディみかこさんの『他者の靴を履く』(文春文庫、2024年5月10日初版発行)が学びになりました。一冊まるまるエンパシーについて語った本。和訳困難なこの単語を、「他者の靴を履く」というメタファーで考えていきます。


英語では、エンパシーとシンパシーは区別され、さらにエンパシーの定義も多様だといいます。日本語ではエンパシーとシンパシーも「共感」の字が当てはまりそうで(強いて言えばシンパシーは同情)、さらにエンパシーにいろんな意味があると言ってもそのニュアンスを一語で説明するのは難しい。

本書で扱うエンパシーは「コグニティヴ・エンパシー」だと著者は宣言する。コグニティヴとは、認知的。以下、引用です。

(中略)わたしが関心を持っているのは、あくまでオックスフォード・ラーナーズ・ディクショナリーズが定義するところのエンパシーであり、いま使われているカテゴリー分けの中でいえば、コグニティヴ・エンパシーと呼ばれるものである。
 つまり、自分を誰かや誰かの状況に投射して理解するのではなく、他者を他者としてそのまま知ろうとすること。自分とは違うもの、自分は受け入れられない性質のものでも、他者として存在を認め、その人のことを想像してみること。他者の臭くて汚いと靴でも、感情的にならず、理性的に履いてみること。

『他者の靴を履く』p34

ここでポイントなのは、本書におけるエンパシーは「相手を受け入れることを意味しない」ということです。ややこしくして言えば「共感せずに共感する」ということ。

共感という言葉がどこか説教くさいのは、「相手の立場に立って考えなさい」というのが子どもを叱るときの定型句になっているからです。それは、他者を「理解される存在」あるいは「理解可能な存在」に押し込めるリスクも伴う。

しかし、「他者の靴」とは本質的に「臭く汚いもの」です。それは、自分が普段扱ってないから当然ですが。他者の汗や、日々の生活・労働の汗が染み込んでいるものを、直観的に美しいと思えないのは当然です。

だからエンパシーとは、他者の靴を履くとは、端的に言って「臭くて汚くて嫌でも履いてみる」ということ。「でも」が重要になる。受け入れられない「からこそ」履くのです。

エンパシーを他者の靴を履くこととして理解するメリットは、他者の靴を履く際に必然として「自分の靴を脱ぐこと」が伴うからです。まずは嫌悪感、理解できなさ、自分の安全、そういったものを脇に置く必要がある。

この引用箇所のあと、金子文子さんというアナーキストの印象的な一句が提示されます。

塩からきめざしあぶるよ 女看守のくらしもさして 楽にはあらまじ

『他者の靴を履く』p39

収容施設の女看守が焼く、美味しそうなめざし。しかし金子さんは、その女看守の生活も楽ではないだろうなと思いを馳せる。収監されている自分の苦しさを離れて、相手の苦しさを想像する。

(中略)彼女が獄中で書いためざしの歌が示しているのは、自分の靴が脱げなれければ他者の靴は履けないということだ。そして逆説的に、自分の靴に頓着しない人は自主自律の人だということでもある。
 金子文子は、自分の靴をすっと脱ぐことができるが、彼女の靴はいま脱いだ自分の靴でしかないことを確固として知っている。

『他者の靴を履く』p39

自分は苦しい、体制側の看守が憎いという発想では、この句は紡げない。他者の靴を履ける人は、自分の靴に頓着しない人である。

これも直観に反することですが、自律的で、凛としたほど、エンパシーの能力があることになる。つまり人間的成熟のために、自分のためこそ、エンパシーは磨く価値のある能力でもあります。

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