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絶望を抜け出すための「問い」ー読書感想#37「夜と霧」

ナチスドイツの強制収容所という底無しの絶望を抜け出すために必要だったのは、「答え」ではなく「問い」だった。ヴィクトール・E・フランクルさんの「夜と霧」には、この「コペルニクス的転回」が綴られている。「自分が人生に何を期待するかではなく、人生が自分に何を期待しているか」というメッセージはあまりにも有名ですが、実はこのメッセージの「その先」があったことを、本書を読み通して初めて知った。その上で依然として、「問い」が大切である。


生きる意味のコペルニクス的転回

本書の最も重要なセンテンスは迷うことなくこれだと思う。

 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うのをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。(p129-130)

生きることの意味を問うのをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを知るべきなのだ。人生に何かを期待するのではない。人生「が」何を期待するかを感じとる。

これは、人生における「聞く姿勢」に着目させる。この一文に出会うことで、ひとは自分本位から抜け出そうとする。人生を天命と言い換えてもいい。天命の前で「どんな自分であるべきか」を考えられるようになる。

フランクルさんは自らが強制収容所に囚われていた。医師としてではなく、ユダヤ人として、死を待つ身として収容された。そこで目の当たりにしたのは、多くの人が「なぜ自分はこんな目に遭うのか」を問い、答えがなく、結果として絶望を「発症」する姿だった。

この一文の直前には、クリスマスや年末をすぎたタイミングで収容所の死者が増えたことに触れられている。そうした節目に解放されることを期待した人が、裏切られた思いで命を落とす。それはまさに、人生に恩恵を求め、人生に自分の存在への報いを求め、手にできない絶望だった。

そうではない。それでもなお、あなたは何を私に求めるのか?そう問うてみる。その問いに答えられる日を探し求めること。自分が求めることが叶う日ではなく、人生を求めることを自分が答えられる日を待ちわびる。そんな転回をフランクルさんは提唱する。それが絶望への処方箋だった。

ここまでで完成された理論だ。だけど、実はこれには続きがあった。


希望は本当にあるのか?

本当に衝撃的だった。最後の最後である。

 先に述べたように、強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だ。ところがどうだ。人によっては、自分を待つ者はもうひとりもいないことを思い知らなければならなかったのだ……。(p155)

人生が自分に何を問うているかを考えよう。それをいつの日か見つけられるように、生きる意味を見出せない今を生きよう。フランクルさんはそう励ましてきた。しかし、収容所から解放された人の中には、自分を待つ人が誰もいないという孤独に直面する人がいたのだ。

自分を待っている人がいる。自分には天命がある。きっと生きていてよかったと思える瞬間がある。そう信じていた人に、何ももたらされない。

だとすれば、フランクルさんが語っていたことはなんなのか?コペルニクス的転回は、収容所という絶望を忘れるためのモルヒネに過ぎなかったのか。その絶望を抜け出した先に「何も待っていない」ことなんてあるのか。

じゃあ人生ってなんなのか?


それでも「問い直す」

本当に人生は意味を私たちにもたらすのか?ヒントを、この次の文章に求める。最後の最後の最後に位置する文章だ。

(中略)わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった。にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった。少なからぬ数の解放された人びとが、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服するのは容易なことではない。そうは言っても、精神科医をめげさせることはできない。その反対に、奮い立たせる。ここには使命感を呼び覚ますものがある。(p156)

「運命から手渡された失意」という言葉に注目したい。人生が問うものは、必ずしも幸福ではない。そして、そもそも苦悩と犠牲、死に意味を与えるものは「幸せではない」ともフランクルさんは言う。

絶望を抜け出して、天命を探した人に差し出されたものが失意だったとして、それもまた「のりこえる」ことが可能であることを、フランクルさんは匂わせる。それは簡単ではないけれど、自分はめげない。むしろ奮い立つと宣言する。

絶望を抜け出した先にまた絶望があれば、奮い立つ。つまり、それが「人生が自分に問うていたもの」だと決めつけない。まだその先に、人生が問うものはないか。ドアを再び叩くように、もう一度「問い直す」。

結局は、答えを探さないことだ。絶望を抜け出すために必要なのは問いであり、問いの答えが再びの絶望だとすれば、さらに問い直すしかない。フランクルさんの言葉は二重に強い。本書が名著たる所以だと感じました。(新版、池田香代子さん訳。みすず書房、2002年11月5日初版発行)


次におすすめする本は

エーリッヒ・フロムさん「愛するということ」(紀伊国屋書店)です。同じく名著中の名著ですが、読むことでどんどん深まっていく部分がある。愛を感情ではなく技術(テクニックではなくアート)だと捉えられるようになる一冊。


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