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書評 沈黙~人間の強さと弱さ~

私は特定の宗教を信仰していない。神社にお願い事に行くし、クリスマス会にも花祭りにも参加する。日本には私と同じような価値観をもつ人が多い。日本は宗教に寛大な国と思っていたがそうではなかった。かつての日本には禁教とされた宗教があり政府によって宗教は決められていた。

踏絵を踏んだキリシタンという本を読み書評を書いた。その中で踏絵は形骸化されていたということだが、実際のキリシタン達はどう捉えていたのか?「転ぶ」転宗とはどういうことなのか?と思いこの本を手に取った。

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主人公はポルトガルから密航してきたパードレである。彼は日本へ殉教する覚悟でやってきた。幕府に捕らえられ信徒が拷問を受け殉教したり「転ぶ」ところを目の当たりにしていく。幕府は信徒たちが絵踏をして「転んで」も拷問を続けていたようだ。対して聖職者に対しては「転ぶ」ように時には優しく諭すのである。

「わしらが転ばせたいのは、あのような小物たちではないて。日本の島々にはまだひそかにキリシタンを奉ずる百姓たちがあまたいる。それらを立ち戻らすためにもパードレたちがまず転ばねばならぬ。」
「なあ、悪いことは言わぬ。転ぶとただ一言、言うてくれ。たのむ。」

絵踏などの拷問は人の命を軽く見すぎているというより、人の命の重さを他人が量る儀式のようでもある。パードレ達が「転ぶ」ための道具に信徒を使っている。だから幕府は信徒たちが「転ぶ」かどうかは重要視していないから、絵踏は形骸化したのではないかと考えられる。

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私は読む前は殉教する者が強く美しい者、「転んだ」者が弱く醜い者だと信仰の強弱を比べていた。
自分の信仰のために拷問にかけられる者たちがいても、信仰があると言い続けられるか。またその信仰の有る無しを判断する儀式が形ばかりであったとしても、済ませられるか。そして悲しいことに信徒たちの数多の血が流れ続けても神は沈黙を続けている。
また、貧しい信徒によりパードレは幕府に報償金のために密告される。その様子がキリストがユダに裏切られた様子と照らし合わせながら物語は途中から進んでいく。信仰への愛とは何か。そんな「転んだ」パードレの心の葛藤が描かれている。

「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できようか。」

by Asami


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