正義恐怖症のみなさんへ
インターネットの空間において、正義という言葉は実に嫌われ者である。「正義アレルギー」が蔓延していると言ってもいい。
「正義の反対は悪ではない。別の正義だ」
「のび太のパパ」や「野原ひろし」など、様々なキャラクターの口を借りて、繰り返し語られてきたこの名言は、そのたびにインターネットの民から喝采をもって肯定されてきた。
正義の御旗を掲げて、誰かを炎上させ、表現物を燃やし、社会から排除する。SNSの炎上からオープンレターに至るまで、そうした動きを嫌というほど見せられてきたのだから、正義に対する不信感を超えて、嫌悪につながったとしても、むべなるかなという気持ちは否めない。
下記の漫画も、そのような正義に嫌気がさした人々が、インターネットで好んで引用してきた作品である。
その一方、そんな正義アレルギーへの異議申し立てをするかのように、近年、リベラルとフェミニストの界隈でにわかに、「正義恐怖症」批判が持ち上がっているのである。
たしかに、この面々の言っていることを聞いていれば、「正義などというものをしたり顔で語るのは、ろくでもないことだ」と思ってしまうの無理からぬことではある。
だが、「正義」はそのように唾棄されてよいものだろうか?
少し考えてみてほしい。
たとえば、「漫画やアニメの自由を守れ」という主張もまた、一つの正義だ。
インターネットの民が好んで口にするように、「正義は人の数だけある」で議論を終わらせていいのなら、表現物を炎上させて回るフェミニストの行為も、彼らなりの正義なのだから、尊重せよ、となる。
「正義の反対は別の正義だ」と言ってしまえば、私たちは、何かを正しいとか、間違っているとか主張するための足場を失ってしまう。それはただの虚無主義だ。
……そう言うと、表現の自由を擁護する側は、「表現の自由は正義などという曖昧なものではなく、法的権利だ」と言うかもしれない。
しかし、である。
その「法的権利は守られなければならない」もっと言えば、「基本的人権は尊重されるべきだ」「憲法は擁護するべきだ」「法を守ろう」といった諸々の、表現の自由を擁護してきた側が当然視している理念も、もとはといえば、曖昧な正義の観念に根差しているのである。
なぜ法を守らなければならないのか? 処罰される覚悟があれば、法を踏みにじってもいいのか?
あるいは、今ある法はなぜ正しいのか? もし、表現の自由が規制されたり、憲法が改悪されて表現の自由が制限されたら、そのときは自由をあきらめなければならないのか?
結局、法の根本にあるものは、私たちの道徳とか正義とかの曖昧な諸概念であって、それを無視して法だけを語るというのは、必ずどこかで無理が出る。
実のところ、自由、特に表現の自由を擁護するのだという理念もまた、もとはといえば、一つの正義にすぎないのだから。
そのことをまず思い出し、認めよう。
私たちは、確かに、自分自身の正義を語っている。
にもかかわらず、正義ではない別の何か、たとえば法とか真理とか、なにか外部の絶対的なものに裏打ちされているかのように語ることは、自己の正義が唯一のものだと信じている人と同様に、かえって、独善と傲慢に陥る。
「表現の自由戦士」と揶揄される人々(もちろん、私も含めて)の間で、いつしか「正義の炎上」を嫌うあまり、そういう傲慢さが蔓延していないだろうか。
対立者が語る正義に、泥臭く正義でもって応答するということは極めて重要である。
正義を語ることそれ自体はなにも暴力的ではない。暴力性があるとすれば、「正義という棍棒で頭の頂を殴る」行為なのだ。
さて、では、正義の問題を考えるうえで、ひとつの興味深いテキストがある。
「正義の反対は別の正義」の元ネタと思われる、パワプロクンポケットの黒野博士の台詞、ネットでバズっている「正義の反対は、別の“正義”」の後に連なる部分を見てみよう。
もし、正義は無限大にある、なにもかもが正義となりうると言ってしまえば、それは「正義なんか存在しない」と言っているのと同じだ。盗みも殺しもそれ自体が正義だと言ってしまうことだってできてしまう。
だが一方で、正義はたった一つであると言ってしまえば、それはただの独善につながる。その唯一の正義に反するすべての人々を、攻撃し、炎上し、排除することが正義の遂行であるということになるからだ。
ならば、「正義」とはどのようなものだと捉えるべきだろうか。
私は、ここで黒野博士が言うように、「一つではない(かもしれない)」という「留保」こそが重要なのだと思っている。
思考実験してみよう。
例えば、「嘘をついてはいけない」という一つの正義について考えよう。一見、いかなる場合でも妥当するように思える。
これは哲学者イマヌエル・カントが直面した有名な思考実験だ。カントは、それでも「嘘をついてはならない」と答えたそうだが、「命はなによりも大事だ」という正義に基づき、殺人鬼をうまく騙すことが正義だ、と考える人がいたとしても、それは一つの整合的な立場だ。
しかし、この「命はなによりも大事だ」という正義もまた、別の正義によって揺るがされる場面がある。
その代表的な事例が、かの有名なトロッコ問題だ。
さて、この問いには多くの人が一人の死を選ぶと言われる。「なるべく多くの命を助けることが正義である」という基準に立てば、それは正義の選択である。
だが、例えばこのような仮定をくわえて見ればどうだろうか。
人間の生命こそがもっとも大事だという正義の基準に立つのであれば、それでもなお五人の人々を救うのが正しいということになるだろう。それも一つの整合的な立場だ。
だが、「約束を守る(嘘をつかない)」とか、「決まりを破るのは悪いことである(その結果の報いを受けるのは当然である)」という別の正義の機軸を導入すれば、違う判断も出うるのである。
こうして、一つの正義は、複雑な現実に直面し、異なる正義に出会うたびに、絶えず揺れ動き、動揺し、揺らぎ続けるのである。
正義を主張するとは、そうした揺らぎに耐え続けることを意味するのである。
私が思うに、正義を主張する時に重要なことは、「異なる正義の存立する可能性を常に忘れないこと」だ。
これは、正義など存在しないとか、正義は人間の数だけあるというような、正義恐怖症とは断じて違う。
自己の正義は正義として、きちんと承認しながら、異なる正義の声に耳を傾けることである。そして、絶えず「動揺」し続けることだ。
自分と異なる正義を不正義と断定し、対話することさえ許さず、発言の機会を奪い、議論の場から追い出すことこそが、正義の遂行だと勘違いしている人がいる。
自己の正義と異なる立場の人々をブロックして、自分の正義が動揺しないように頑なに目をつぶり、耳をふさぐことが正義だと信じている人々がいる。
だがそれは、正義の暴走を恐れるあまりに、正義など存在しない、と正義恐怖症に陥っている人々と同じように、動揺への恐怖に囚われているだけだ。
それはもう一つの正義恐怖症である。
正義の正しさは、自己の正義ではうまく説明できない現実を直視し、そして自己と異なる正義を主張する他者と恐れず対話することで、自己の正義を動揺させることによってしか、証明できないのである。
「結局のところはその時ごとになにが正しいのかよく考える」こと、黒野博士が口にしたこの言葉こそが、正義について考えるというときの、もっとも基本にしてもっとも重要な「所作」である。
あらゆる現実や異論に直面して、そのすべてを真正面から受け止めて、正しさについて思考した結果、どれほど動揺してもなお、それでも残り続けるつづけた一抹の正しさこそが、「正義」の名にふさわしい正義であろう。
正義に反する他者を排除し、口をふさぎ、不可視化しなければ実現しない正義などは正義ではない。
それは正義の実現のように見えて、正義から最も遠ざかっていく行為だ。
それは実のところ、自己の正義を証明する自らの義務からさえも、逃げていることに他ならないからだ。
以上
青識亜論